「まるでリニアモーターカーのようだ」
ごめん。
今思いつく最先端のものがリニアモーターカーだったのだが、このように「比喩」というものは例えたいそのもの、ではない何か別のニューフェースが必要だ。
この場合はリニアモーターカーで、おそらくこの人は「えっ、付き合ったり別れたりを繰り返してたけど、こないだ結婚したの!?」みたいな前置きがあったのだろう。
僕が最近気になるのが「原始人の比喩」のようなもので、大きくは「例え対象が人工物か自然物か」。
深く考えると「比喩の例え対象はどこまでシンプルになるのか」というものだ。
例えば、先ほどのリニアモーターカーを、その速さを鑑みての例え対象として使用するとき。
そのリニアモーターカーがなかった時代はどうだったのだろうか。
「まるで未来の列車、名付けてリニアモーターカーのようだ」
「まるで電車のようだ」
「まるで蒸気機関車のようだ」
先見の明ありすぎの例もある。
しかし一つ言えるのは、いつか人工物から自然物に代わる時代的、文明的タイミングがあるはずである。
それは時代をさかのぼればもちろん例え対象はより古くなり、複雑な道具がなければよりシンプルなものになるということ。
「まるで未来の列車、名付けて蒸気機関車のようだ」
「まるで飛脚のようだ」
「まるで未来の職業、飛脚のようだ」
「まるで矢のようだ」
「まるで馬のようだ」
比喩の歴史を追うと、よりシンプルな道具になったり、人工物でなく生き物になったりするに違いない。
となると次に気になるのが「比喩を使うとき、人工物、自然物どちらのほうがナイスか」という点だ。
次回へ。
月: 2015年12月
親ら
「一親等」というように使う「親等」は、親族の遠近な関係を数値で表しているもので、ちょいちょい目にする。
確か子供から見て親が、親から見て子供が一親等なのだが、そうなると気になるのが「零親等」の存在で、一般的にはそんな言葉はないようだ。
しかし、むりくり何かを表現するものだとして考えると、普通は「自分自身」だと考えるんじゃないだろうか。
ところがサイトによっては、こう来る。
「配偶者のこと」
もちろん「もし意味を持たせるなら」という前提ではあるが、どうも「親等」というものを「自分以外の親族のこと」として考えたとき、「自分ではないが一親等よりも近い存在」として配偶者が最適ではないか。
そういうことらしい。
遊びの範疇であれ、零親等というものが自分自身のことと勝手に考えていた僕にとって、配偶者もその権利があるかも、という考え方は衝撃だった。
一心同体。
結婚式でよく聞くこの言葉どおりじゃないか。
で、この流れになるともちろん「3/5親等、5/3親等」や「マイナス一親等」。
虚数の「i親等」などの夢が広がってくる。
「マイナス一親等」なんて星みたいだ。
なんとなくそれらについての僕の見解は、以下だ。
・3/5親等:子供から見て、子離れできていない親。親から見て、親孝行な子供。
・5/3親等:子供から見て、よく二人で旅行に行く親。親から見て、あまり似ていないなと思う子供。
・マイナス一親等:子供から見て、背後霊。親から見て、背後霊。
・虚数i親等:子供から見て、二乗すると背後霊になる親。親から見て、二乗すると背後霊になる子供。
だってさ!!。