昨日からの続き
【あらすじ】
「仕掛け絵本」は面白いが、内容はどうしても「絵本に向いている物語」限定になりがち。
一方、日曜のテレビ番組「サンデーモーニング」では、絵本に向いてなさそうなニュースを「仕掛けて」いる。
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いつからだっただろうか。
サンデーモーニングで「もう中学生」がブレインとして参加したのは。
いや、参加したのかどうかは知らない。
しかし、とにかくあるトピックに対して図画工作が行われるようになり、それは今でもあるらしいのだ。
これには、僕だけでなく、多くの人が「なんか手作り感出てる」と気にしたに違いない。
おそらく、あのギミックは、「難解であったり触れがたい内容のニュースであっても、分かりやすく、あるいは刺激を和らげつつ物事を伝える」方法なのだろう、たぶん。
しかし見方を変えれば「分かりやすさを重視したため、問題の重要性、深度が薄れがち」ということでもある。
どちらも正論で一概にどちらがマズい、などとは決められない。
しかし、「サンデーモーニングがテレビ番組である」という点は見逃せない。
すなわち、「仕掛けることで分かりやすい一方、ゆるくなりがちなニュースについて、キャスト陣がフォローする」ということ。
ゆるくなったままではニュース番組としての意義が危ぶまれるわけだが、そこは動的に対応できる関口さんや、知的なメガネの女性の存在が、「磁石ギミックでずるずる動くオバマ大統領」でゆるくなった雰囲気を締めるわけである。
特に知的なメガネの女性のニュースきびきび感はすさまじいものがある。
僕自身も、かなりメガネが好きだ。
このような理由により、サンデーモーニングでは、「一見仕掛けるのが難しそうなのを仕掛けつつ、重要性は失わず」が成功している。
このような構図は、仕掛け絵本側には難しいだろう。
一方、上記の「仕掛け絵本側には難しい」部分について、実は僕らが、仕掛け絵本に採用されている「絵本に向いている物語」を、ゆるいものと軽視していること自体が間違っているという可能性も否定できない。
要は、仕掛け絵本とサンデーモーニングに「仕掛ける対象に差が出ている」と思うこと自体が間違っており、仕掛け絵本の内容もニュースの内容も同じ重さである、という考え方である。
「探査機はやぶさ」のギミックが紙をスライドさせながら地球に戻ることと、わらの家をオオカミが壊すことは等しい重要度とみる。
これはなかなか奥が深くて、この考え方を持つと「わらの家を壊された子豚の悲しみ」「さらに食べられてしまうことの残酷さ」などがすごく重要なことで、もはや自己のことと同化すらし、感慨深いものとなるだろう。
このように、仕掛けることを生業とする「仕掛け絵本」「サンデーモーニング」のことを考えてみたら、物事の重要性を損なわずに分かりやすく伝えるやり方や、他人を思いやる気持ちがはぐくまれる可能性が示唆できた。
情操教育にもいいのではないか。
僕もこれらを鑑み、より人間性を高めいくつもりであるが、ところで最近、サンデーモーニングで知的なメガネの女性がいないような気がするのだがどうしてくれるんだこのやろう。
月: 2015年10月
飛び出せ
このあいだ、テレビで「仕掛け絵本専門の本屋」のことをやっていた。
仕掛け絵本というのは、主に「飛び出す絵本」のことであり、小さいころお世話になった人は多いだろう。
現在は昔のよりもギミックが凝っており、子供だけでなく大人も楽しめるものであるそうだ。
ふーん。
ところで、気になったのは「仕掛けてはならない内容の本」についてだ。
例えば「三匹のこぶた」の話なら、各ぶたが建立した、わらだか煉瓦だかの家のギミックが作動して、大変よろしい。
しかし芥川龍之介の「羅生門」で仕掛けを考えたとき、どうすればいいのかとなると、どうも。
まず、何をギミックでおったてるかとなると、羅生門しかない。
そして、そもそも「絵本」、なじみ深い「文庫」「ハードカバー」どちらで出版すべきか。
耐久性としてできるのか、「文庫」「ハードカバー」での仕掛け。
問題は山積である。
そして、同様の問題を持つものは多い。
「バカの壁」
バカの壁を仕掛けるしかないだろうが、一体何なんだ。
そして立てていいのか「バカの壁」。
「火花」
花火か、熱海の全景を仕掛ける感じか。
熱海のパンフレットか何かだろうか。
このように、「仕掛けていいのか」ということは、ほぼ「その題材が絵本に向くのか」と同義である。
もちろん、仕掛けは「飛び出す」ことばかりではないが、「もう中学生」がやっているように、どうであれ「仕掛け」は何かのんびりした、絵本的な雰囲気を出してしまうものなのだ。
それは単に「本当にのんびりな内容」というだけでなく、「いやそれは飛び出さなくていいでしょ(羅生門、火花)」「抽象的なものなのに、物質として表現してしまう(バカの壁)」ということが、牧歌的であるわけだ。
さて、ここにきて、この意見に喝を入れられかねない事象を考える必要が生じた。
「サンデーモーニング」の例のアレについてである。
明日へ。
夜の晴れ
「夜は晴れです」という言葉に違和感を覚えてから、久しい。
これは結構、そう感じている人は多いみたいで、ググっても何か出てくる。
確かに、気象学的(?)に言えば空を覆っている雲の量で晴れやら曇りやらが決まるのだろうから、間違いではない。
しかし、どうしても「晴れ」というのは明るい、言い換えれば太陽が出ている雰囲気がふんだんなのである。
そしてその原因は「晴」という感じのへん、「日」にあることは明白で、夜に日は出ていない。
これは「夜の晴れ」を表す漢字がないという、漢字研究者の怠慢である。
まず、「夜の晴れ」を示す漢字を考えた時、やはり「晴」という漢字の構成を維持し、比較したい。
従って、へんとつくりの形で行きたい。
まず、へんは「月」で決まりだろう。
ところで、この「月」「つきへん」であるべきで、にくづきやふなづきではだめだ。
これは今知ったもので「期間」の「期」は「つきへん」であるのに対し、「肝臓」の「肝」は「にくづき」であるという。
詳しくは調べていただいた方がよいだろうが、ともかくここでは「つきへん」だ。
「夜の晴れを表す漢字の、月はにくづきです」
これでは、ちょっとエロくなってしまう。
次につくりだが、これは「晴」と同じ「青」でいいのではないか。
「黒」でもいい気がするが、よく見ると夜空は真っ黒ではなく、深い青だったり、雲が出ていれば緑っぽかったりと、なんか色ついてる。
ということでできた「つきへん」に「つくり青」の、「夜の晴れ」を表す漢字ができた。
近い将来、「晴」と同じJIS第1水準の漢字として、あなたのすぐ後ろに、現れるかもしれない・・・。
どのフラワー?
ときどき通る通り道に、フラワーショップがある。
「花屋ではなくフラワーショップ」。
「よつばと」の登場人物、ジャンボの実家も「フラワージャンボ」。
別にいいのだ。
しかし少し気になるのが、店員さんが呼び込み、「今日はフラワーが5本で安いですよ」というフレーズ。
以前も書いたかもしれないが、まず呼び込みだ。
花屋さんは、呼び込みは必要なのだろうか。
もちろん、「妻へのサプライズの花束」なるシチュエーションがありえない、などとは考えていないが、どうしても呼び込み行為というのは「へいらっしゃい」の印象が強くていけない。
それがフラワーと合わない気がするのだ。
そしてフラワー。
やはりフラワーショップではフラワーと言うべきなのだろうか。
花、ではいけないのか。
最後に5本。
えっ、あのフラワーが5本で安いの!?。
それはいいか。
だるま市
圧倒的季節外れで申し訳ないのだが、今年だか昨年かの三が日、だるま市に行ったことを思い出した。
そう遠くない場所でやっているのだ、だるま市が。
近頃、急を要する願掛けがないため、だるまを求めるというよりは、だるまの路上販売の感じや露店のお好み焼きなどを楽しむ目的だったのだが、買ってしまった。
その、ネコ型のだるまはなかなかかわいいが、以下の点でだるまとしてはどうなのか、よくわからない。
・もう黒目が入ってしまっている。
・お高い
・ネコの願いが叶うのではないか
・ドラえもんっぽくしただるま、結構売れるのではないか
今朝、いつものように玄関に置いてあるネコ型のだるま。
それを見てだるま市の事を思い出したのである。
それにしても「早急にだるまを要する」シーンというものはあるのだろうか。
まず思いつくのが選挙での、例の当選の時のあれだろう。
必ずではないかもしれないが、よくニュースで見かける、フラッシュでフラッシュするだるまを。
当選して、「だるま置き場」まであるのに、そこにだるまがない。
濡れた筆を持って途方に暮れる当選者なんて見たくない。
早急にだるまが必要なシーンである。
ところで、「だるま置き場」って吉田戦車の漫画になかったっけ。
あるいはだるま落としで、トップのだるまが見つからないときなどは、結構急ぎでだるまが必要な気がする。
ルンバやカーリングのストーンの上にだるまを置きたい衝動。
分かる。
早急に必要。
こう考えると、だるま市というのはその雰囲気だけでなく、ちゃんと需要と供給というものが案外成り立っているイベントなのかもしれない。
ところで、ネコのだるま。
最近ネコは注目されているため、ネコ型のだるまで当選を祝うなんてのはどうだ。
なんて思ったが、だめだ、目がもう入ってしまっている。
どこかの猫の願いが、叶ってしまっている。
カメラ撮り終わりました機能
シャッター音やフラッシュなど、ないことはないのだが、もうひと押し必要なのではないか。
よく見られるのが旅行中の集合写真で、地元の人などに撮ってもらうとき。
「あれ、撮れたかな?」
「あれ、もうシャッター押してくれたのかな?」
機械に疎かったり、フラッシュをつけなかったり、雑音でシャッター音が聞こえなかったときによくみられる、もやもや状態である。
現代社会において、ストレスと無縁の生活というものは皆無である。
あらゆる行動、人間関係が強弱あれどストレスを生み出す要因となっている。
また、ストレスがないこと自体がストレスになるなど、人間は必ずストレスにさらされながら生きているわけである。
そんな中でさらに、何をもやもやを増やしているのか、カメラのやろうは。
こないだ、アメトークという番組で「ノックすると電流が流れるボールペン」みたいなものをやっていた。
あれはどうだろうか。
すなわち、シャッターを押すと電流が流れる。
押した側は電流が流れることで確実にシャッターを押したことがわかる。
機械に疎い人でもわかりやすい。
一方、頼んだ側も、相手のリアクションでシャッターが押されたことがわかる。
フラッシュもシャッター音も必要ない。
この方法でポイントなのが倫理的な問題もさることながら「電流の流れるタイミング」だ。
シャッターを押した直後だと、何かぶれそうな気がするので、できれば少しだけ間をあけてから流れるべきだろう。
また、カメラは電流にも、地面に対しても頑丈でなければならない。
これらと、あとまあ倫理的なやつさえクリアすれば、なかなか良い機能ではないか。
それにしても、前述の「ノックすると電流の流れるボールペン」は、ちゃんとペン先は出ていたのかが気になる。
完全ないたずら道具であるはずだから、ペン先が出る必要はないだろう「ノックすると電流の流れるボールペン」。
もちろん、律儀にペン先が出ていたら、腹立つわけだが、同時に「ペン先を戻せば、電流は止まるのか」あるいは「ペン先を戻すときにも電流は流れるのか」など、仕様としてはなかなか面白いボールペンじゃないか。
404-2
続き。
【あらすじ】
「404エラーのセンチメンタルなシチュエーションと何よ?」について。
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1.
廃校が決まった中学校のHP
2.
バーチャルお墓参り
3.
おじいちゃんがインターネット接続の設定をしてくれてもしてくれても
ざっと考えてみると、何かセンチメンタルというよりは悲しい感じものが洗い出されてきた。
上記の例どれも、404エラーが発生すると何か悲しい。
もちろん、「好きだった人」関係を持ち出せばもう少しはおセンチが出そうではあるが。
もうおセンチはいいや。
ところで趣向は違うが、こういうのもいいんじゃないかと思うものもある。
「紙芝居の途中で404エラー」
分かりやすいものであるため、既にスケッチブックを所持した芸人さんの誰かがやっているかもしれず、そうだったらごめんなさい。
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「キジはきびだんごを手渡そうとする桃太郎に、少し目を伏せながらこう言いました」
404エラー
ページが見つかりません。
こんな感じ。
このとき、どうしてもこの紙芝居者は「けーんけーん」のシーンが描けなかったのである。
その代わりに用意した404エラーの紙。
切ない。
次の場面をめくるとき、つらそうに演じれば接続が危ないのかと、オーディエンスから声援がもらえるかもしれない。
一方、こんなタイミングでエラーが発生してしまう場合もある。
「こうして桃太郎は鬼を退治し、おじいさんとおばあさんのもとに帰ることができたのでした」
「404、404」
404のところは、紙芝居のラストを飾る例の「めでたし」の体で喋れば、いろいろ丸く収まるだろう。
ということで、それほど広げずに404の話は終わってしまった。
ただ、「紙芝居の途中で404エラー」の芸人さんがもしいるのだとしたら、ぜひ「その芸人さんをwikiで調べようとすると404エラー」であってほしいと思う秋の夕暮れであった。