普通、弁慶の泣き所というと「すね」であったり急所の事を指すわけだが、弁慶の事をもっとよく考えてあげてみると、もしかしたらこれも「弁慶の泣き所」と言えるかもしれない。
「グリーンマイルの最後のほう」
勘違いしがちなのは、いわゆる「泣けるもの」の一般論ではなく、あくまで「弁慶の泣き所」を考えたいということである。
すなわち、誰もが認める「グリーンマイルの最後のほう」の「泣き所っぷり」であっても、弁慶が見ていない以上、憶測の域を越えない。
ないのである。
どんなに歴史をたどってみても「弁慶、グリーンマイルの最後のほうで涙す」という事実は。
いけない。
事実と書いてしまったが、僕としては、ちゃんとバックグラウンドを理解してもらい、現代の生活を2年くらいしてもらえば、十分「弁慶の泣き所」に値すると思うのだ、「グリーンマイルの最後のほう」は。
言い換えればあったのだ、「弁慶、すねをうって涙す」が。
話を戻すが、「弁慶の泣き所」を考える場合、当時の資料や本人。
それに着目した研究がおそらくない以上、レパートリーを網羅する事はできない。
ただ、分からない故に、あらゆるものに「弁慶の泣き所」であった可能性は存在し、例えば「寝る」という一見泣く事とは関係ないことでも、我々が知らないだけで「弁慶の枕はびっしょびしょ」ということがあったかもしれないわけである。
なんて広大な可能性なのだろう「弁慶の泣き所」は。
恐ろしいのは、複合技により、擬似的な「弁慶の泣き所」を産み出す事ができる点である。
「葦でカゴを作っている弁慶のすねを叩く」
弁慶がカゴを作った事があるのか、葦でカゴを作るものなのかはわからないが、これでうまくいくと「カゴを作る」ことは「弁慶の泣き所」と伝えられる可能性は十分に高い。
そう考えるともう、「弁慶の泣き所」は全ての事象そのものであると考えて全く差し支えないだろう。
ついでに「弁慶の鳴き所」とかにすると、動物も範疇に入れられて、それはもう色々考えられて面白いのである。
最後に。
「あくび」なんかを「弁慶の泣き所」と表現すると、こいつやるな、という気がする。
月: 2015年5月
流れ星
テレビのチャンネルを変えたくなる時といえば、お色気シーンと相場が決まっている。
今、「流れ星」というお笑いの人が面白いギャグをやるということになったため、チャンネルを変えた時にそう思った。
お色気がトリガーでなくて申し訳ないのだが、ところで僕が別に「流れ星」のことが嫌いであるとか、ギャグが面白くないとかは思っていない。
むしろ思い出すのが、「なんとかレッドカーペット」みたいな昔の番組で、だんとつに面白いことをやっていたことだ。
それがどんなことだったか、あれから今までいったい何をしていたのか。
それはわからないのだが、とにかく面白いことをやっていたことだけ印象にある。
そんな流れ星だ。
で、話を戻すと「テレビのチャンネル」のくだりなのだが、こんな感じではないだろうか。
1位 砂嵐になってしまい、他のチャンネルもそうなのかと確かめたくなる時
2位 正義の味方が一時的に疑われてしまうとき
3位 どんなに待っても貞子が出てこない井戸の映像が続くので、画面が焼け付くのを恐れた時
4位 テレビとゲームを両立させたい時
5位 「カメラのフラッシュに注意してください」とテロップが流れるが、そのフラッシュ量が著しい時
いっけねお色気忘れてた。
もう、これからはテレビのお色気は正座してみることにする。
出瀬潔
ついこないだ、「似ていると言われたら嫌な芸能人ランキング」みたいなやつがやっていたようだ。
タイトルしか見ていないため、どのようなメンツがランクインしているのかは分からないが、芸能という世界は世知辛いものである。
あるいはそんなランキング聞かないでもいいじゃないかと思うが一方、ランクインした人はほぼ人気があることでもランクインしているのはよく知られていることだから、まあいいか。
僕が「似ているね」と言われたら絶対いやなのが「ハイスクール奇面組の出瀬潔」だ。
知らない人もいるかもしれないので補足すると、漫画で非常に特徴的な、絵に描きやすそうな、定規で描くと良さそうな、あたりめを食べたら全歯の隙間に挟まっている、そんなキャラクタ。
性格もあまり良くなく、ただエロへの姿勢が尖っていることだけ覚えている。
正直、幼少の頃に見かけてからずっと恐ろしい風貌であると認識していた。
だから彼に似ているなんて言われたら、全てを否定されているような気分になるだろう。
自分では似ていないと思っているが、他人がどう思っているか分からない。
心配だ。
ついでにもう一つ、これは言われたくないことを思いついた。
僕の顔を見ながら「あれ、奇面組って6人組だっけ」である。
川柳
本日の「けっこううまく言ったつもりだけど受けなかった」川柳。
ボイパかな
ボイパじゃないよ
かえるだよ
フラワー
最近めっぽう暑く、ちょっと困る事が発生している。
「股間に塩が、粉をふく」
そんなに代謝が良い方にも思わないのだが、気付けばふいている。
汗をかいたのだろうか。
塩が貴重な時代だったら、たいそうもてはやされたかもしれないが、現在、股間に粉ふいていることでマイナスになることはあっても、もてはやされることはない。
湿ったハンカチでどうにか払おうとしてもうまく行かず、もうこれは「昼飯食ってたら店員さんがこぼしちゃってさ、フラワー粉」とか言うしかない。
「ほら、知らない?フラワー粉。日清の。それにしてもフラワーって、ね。小麦粉のことだってのは分かるんだけど、ちょっと華やかな感じすぎるよね、日本人としては」
股間にフラワー。
90年代のギャグ漫画過ぎる。
期語2
久しくブログを書いていなかったら、前回「続く」で終わっていた事をすっかり忘れていた。
「期語」とか書いている。
思い出したのは、俳句における「季語」に相当するような、ある期間を表す「期語」というものを新しく考えてみよう、ということだ。
僕が覚えているのは「ボディコン」。
この、バブリーな懐かしい言葉を使って俳句を作れば、「季語」で季節を感じるように、「ボディコンという期語」を用いる事で土地高騰、お札を燃やして暗闇の玄関を照らすような時代を感じることができるのではないか。
そう展開しようとした訳だ。
しかし近頃動いたり歩いたりで、すっかりブログ更新を忘れていた。
故にもうこの「期語」「ボディコン」に熱を上げる事ができなくなってしまった。
では何を書こうかと考えると、「亀をぶん投げる」イメージが出てきた。
これはもうずいぶん昔にやっていたある特番だったか。
干ばつ甚だしいアマゾンだかナイルだかの地域で、ボランティアの人があとは死を待つばかりの魚や両生類、そして亀などの爬虫類を保護。
水豊かな場所へ運ぶというナイスを放送していたものである。
もうお分かりだと思うが、魚や他の生物は川岸から放流されていたのだが、なぜか亀だけがボートからぶんぶん投げられていたのである。
もちろん川に投げているのだから亀にダメージはないのかもしれないが、あんなに亀をぶん投げている映像はスーパーマリオブラザーズ3くらいでしか見た事がない。
普通に放流すればいいのに。
その亀はガメラのように、あるいは水切りの石のように、ギューン回りながら落水していった。
ところで「亀をぶん投げる」が季語であるとすると、それはどの季節だろう。
おそらく「夏」であるが、前回のブログも考えると、最適なのは「乾季」に違いない。
恐ろしい事である。
「乾季」を「亀をぶん投げる」で詠うためには、五七五七七の7文字くらいは固定値なのである。
できれば「投げ亀」とかで少なめにしておきたいが、それを決めるのはあなただ!!。