さえずる価値 その2

完全憶測!!
うちのインコが人のまねをしない理由
一位
インコの世界では「おはよう」が「バルス」みたいなもの
二位
インコの世界では人の言葉を喋るのは人間に対して迎合し過ぎだと敬遠されている
三位
完全にコピーできているが、まあ人の前でさえずることでもないしな、と考えている
四位
人の「おはよう」の「は」のときの表情が大好きなので、人まねをすることで「おはよう」の顔をしてもらえなくなることを恐れている
五位
実はよく喋っているが、人には聞こえない音域
六位
一度、ご主人の前で喋ろうとした瞬間にご主人がどこかに行ってしまった事があり、それを今でも気まずく感じている
七位
ちゃんとインコ語で「おはよう」と何度も言っている
八位
ちゃんとインコ語で「今そういう気分じゃないんで」と何度も言っている
九位
ちゃんとインコ語で「私はカゴの中の小鳥。大空への飛躍を胸にそのときをただひたすら待つ」と何度も言っている
十位
インコの世界では「おはよう」の概念が無い
以上、よろしくお願いします。

さえずる価値 その1

インコやオウムなどを見かけると、うちで飼っていたインコを思い出す。
「インコちゃん」と名付けられた彼女は少々畸形で、それが原因かは分からないが売れ残っていた。
かわいそうということでもないが、我が家は以前も小鳥を飼っており、まあカゴもあるしと購入。
足が変形しているため止まり木に移るのが大変そうなのだが、それ以外はちゃんとセキセイインコなのだった。
さて、セキセイインコというものはコロコロとかわいい声で鳴くが、一方で人の言葉のものまねもよくする。
「インコに何を喋らすか」
ある人種ではそれだけで一日のうち二食をまかなえることで知られる、コストパフォーマンスあふれる議題である。
我々はよく、インコちゃんに向かって「おはよう」だの「こんにちは」だのを、口の動きが見えるように話しかけた。
どこかで聞いた話によると、インコというのは最初相手がどのような音を発するのかを覚えるため、じっとそれを聞く、のだとか。
自然下では集団で生活する彼女らとしては、さえずる事、相手のことを覚えるのは必須のコミュニケーション能力である、のだとか。
口の動きも見られるのなら、より覚えるのも速いのではないか。
そんな我々を、インコちゃんはさえずらずにじっとこちらを見ていた。
しかしインコちゃんは一向に言葉を喋らなかった。
ただ、じっとこちらのことを見ている。
しばらくはただ覚えるのに時間がかかっているのだとばかり思っていたが、あるときふと思った。
「おまえら、うるさい」と思っているのではないだろうか、と。
そんなはずはない。
あんなカラフルでごまのような目をした生き物がそんなことを考えるか。
しかし一方で、何も喋らない事により、飼い主に自分の意志「おまえら、うるさい」を伝えようとしていたとするなら、それはインコちゃんの恐るべき才能である。
「無い事で、何かを表す」
「雄弁は銀、沈黙は金」というのがあるが、インコではより効果的なのだ。
次回、他の理由を考えてみる。

のりしろ時代

実は、スコーンが大好物である。
甘くないのが好きであるが、一方で結構甘いのも大丈夫なので、かなりの範疇のスコーンが好きである。
「あれこれ、甘食じゃない?」
そのくらいのも平気だ。
スコーンと紅茶があれば朝食は四半世紀は持つと思うが、僕は朝食を摂らないので、実質生きているずっと、スコーン紅茶で朝食はまかなえるはず。
その上死んでしまったら朝食はいらないのでこれ、永遠に僕の朝食はスコーン紅茶でよいことになり、最近生まれた赤ちゃんで既にスコーンと紅茶をたしなんでいる者がいるとするならばそれはもう僕の来世で、前世が生きているのに来世がいていいのかはよくわからないが、今まで隠していたが本当は、僕は甘食も好きなのです。

気持ち

今、これを書いているログイン画面内にて「いぬのきもちクイズ」というバナー的なものが見えており、そこには「体をブルブルするとき、犬はどんな気持ち?」と問うている。
僕としては、それには「体をブルブルしたい気持ち」と答える他ないが、それは「成人男性がたばこを吸っているとき、彼はどんな気持ち?」という問いに「たばこを吸いたい気持ち」と答えているようなもので、それでは超絶コミュ生物、人間をやっていくには多少こころもとない「気持ち判断力」と言わざるを得ない。
できれば「今日は何となく早く帰ろうかと思っていたが予想外の仕事が発生した上に結婚記念日がおとといだったことを思い出した。さらに20年ほど前、幼なじみが引っ越しするときにちゃんとさよならを言えなかったことなども思い出した。そんな状態でエクセルで資料を作成しようとするが、何かの拍子でカーソルが65535行目に移動してしまう事が、もう3回も起きていて、もう全てがいやんなる気持ち」という事くらいは、知れたらいいのにね。
ほんとにいいのにね。

泡を抱いて眠る

絶えず正解を選択し続けていきたいとは僕の口癖のようなもので、イメージではそれに成功し続けていればもう資産家で7人の妻がいてトイレが黄金でできているはず。
今そうなっていないのは少なからず正解を逃してきたからなのだろうがこの「正解」。
それは周りにとっての、自分にとっての。
常に2つ存在している事に、遅ればせながら気づいてきた。
例えば僕は、周りにあまり話題がなさそうだと判断すると、恐ろしく喋るのだが、これは少なくとも僕としては「周りに対する正解」を目指している。
この喋りで何か話が転がれば、多少の傷はご褒美のようなものである。
しかし一方で、この状態は自分にとっての正解と言えるのか。
そんなことを考え出すと不安になってしまう。
正直、恐ろしく喋りはするが、その内容は充実しているとは言えない。
それは複数人に対する話題であるから、あまり立ち入った話であるとかローカルものは汎用的でないと判断しているからであるが、それにしてもあーた、僕のそういう話は虚空過ぎていて。
多分叩いたら結構いい音する。
もしかしたら、「周りに対する正解」を求める事が多くなりすぎて、自分の正解が分からなくなってしまったのか。
そう思わないでもない。
そこにきてこの「自分に対する正解」というのは恐ろしい事に、羞恥心や鈍感さなど、自分のせいによって邪魔されてしまうことが多い。
それに気づいた時、取り留めのない、取り返しのつかない気持ちを胸に秘めて眠るしかないわけだが、これまた恐ろしい事に、今「僕に対する正解」というのはその「寝る」ということに他ならず、それは最近帰る時間がおそ過ぎで睡眠時間が4時間ほどしかないことと、そんな地獄のミサワのセリフのようなことを吐いてどうするん?というこれまた恐ろしいもうひとつの正解もどうにか回収しようとする欲張りな僕。

プロビデンス その2

僕の目は、もうジャニーズジュニアはみんな同じ顔としか認識できない。
みんな、男前の男子達だ。
いいのか、こんなに男前の男子達がいて。
しかしそれの区別ができないのである。
男前A
男前B
男前C
男前で因数分解、あるいはギラで一掃できてしまう。
こういったことを考えるとき、別の観点で物事が見られたらなあと常々思う。
そうすれば、物事はよりはっきりと区別できるのではないか。
例えば、ちょうど昆虫の持つ「複眼」。
いくら高性能とはいえ、2つの目では確証が得られなさ過ぎる。
人間は何をやっているのだ。
2つで何もかんも済ませようとしやがって。
ともかく、そのくらい目があれば、ジャニーズジュニアも区別し放題ではないか。
昆虫という事で、可視光の幅も増えそう。
「あ、あの子はちょっと体温が低いので、体調が優れないのだろう」
「あ、あの子は胸元が紫外線を吸収して黒く見える。胸元に自信があるのだ」
この調子なら、フリーメイソンっぽい「全てを見通せる」こともできるんじゃないか。
そんな気もする。
だが、一方でこんな考え方もある。
ある作家は、ゾウの考えている事をアリが理解してしまった時、そのアリは狂ってしまうのではないかと考えた。
最近のインディジョーンズのネタバレでは、最後に膨大な知識を教えられてしまった人がうっきゃあってなってた。
どちらも、何か許容量を超えるものがどっと来た時、大変な事になってしまうことを示唆している。
僕の望んだ複眼は、その視覚情報で僕を狂わせてしまうのではないか。
そう感じた。
そういえば、ムカシトカゲを思い出す。
彼らの頭頂部には光が感受できるらしい感覚器が、目とは別に存在している。
しかしそれは、生後半年くらいで鱗に覆われてしまうのだ。

プロビデンス その1

僕は、人並みには「目」を信じているが、必要以上には信じないようにしている。
言い換えると、あまりにおかしな事を見てしまったときは、錯覚として「まあそんなこともありますかネ」とふわふわさせる。
例えば今、DASH島でTOKIOが楽しそうにキノコを嗅いでいるが、これは「ああTOKIOがキノコを嗅いでいるな」と信用する。
しかし空に葉巻型の巨大な宇宙船状のものが浮いていたり、夜の山道を下半身だけの人が車の前を横切ったり、モニタからツインテールの少女が出てきたりという場面に遭遇したならば、もしそれが本当だったとしても信用しない。
「目の表面に極小の葉巻型のゴミがついてるのではないか」
「そりゃあときどき、夜の山道を下半身だけの人が横切る事もあるよな」
「いやあ、住民票どうしよう」
錯覚としていることもないようだが、ともかくふわふわ。
必要以上に信用しないというよりは、事の重大性に気づかないようにするだろう。
とまあ、ありえないことを例に出した事を申し訳なく思うが、とにかく目というのは信用ならない。
僕の目は、もうジャニーズジュニアはみんな同じ顔としか認識できないから。

はい、レッドブル。

今思ったのだが、あるゲームの敵が「エナジードレイン」という技を使ってきて困ったことがある。
それはせっかくプレイヤーが一生懸命に敵と戦ってあげたレベルを下げてしまうという、再度レベルを上げる手間を考えると、現実の生活にも少し影響を与えるというもの。
これは困った。
この「エナジードレイン」というものはゲームではレベルを下げるというものだが、ゲームやその怪物の伝承的には「年齢を取らせる」という意味合いを持つものであるらしい。
「その敵に触れられると歳を取ってしまう」
何の映画かは分からないが、そんな感じのをいくつか見た事ある気がする。
となると気になるのは「その敵がカブトムシの幼虫をお手玉したら、どんどん成虫になって飛んでいってしまう」ということで、これは何だか楽しそうだ。
お手玉がどんどん飛んでいってしまうわけなので、敵に手下に絶えずカブトムシの幼虫を供給してもらわねばならないが、それはそれで楽しそうだ。
あるいは「ワインがおいしくなった」や「赤ちゃんに触ったら大人になって返り討ちにあった」などもあってたいへんそうで、それなら敵にタイトルのような声でもかけてあげたくなる事、まあ必至ではないけど。

やる気スイッチ、ジャンプ。青春。

幼児向けの玩具として「電車の模型」がスーパーのレジ横スペースに売られていた。
模型とはいっても、細部にこだわったようなものではなくディフォルメされた、ちょうど「プラレールの電車」のようなそれは、JR中央線のものだった。
今では銀色の、なんか冴えない電車色になってしまったが、3年ほど前は軽快なオレンジ色で、その模型はそのときの色をしている。
そして厳かも大胆に「中央特快」をうたっていた。
ある種の人々にとって、中央線の「中央特快」の存在は日々の生活において最重要キャラクターのひとつであり、それは意味合い的にも用途的にもちょうど「マリオのBダッシュジャンプ」くらいの重要度。
違うのは「日々の生活においては「Bダッシュジャンプ」で超せない穴はまず空いていない」ことくらいで、そういう点では僕が知らないだけで案外空いているのかも知れないし、空いていてもすぐ誰かが埋めてくれるので日本のインフラは非常によく整っているのかもしれないし、やはりまず空いていないもので、人間にBボタンがないのはそういう穴が空いておらずBダッシュの必要がなかったからだとも言えそう。
それはさておき、「中央特快」のあの速度。
あれは多少寝坊してもそれをカバーできるという魅力を、主に大人達に秘めさせている。
しかし、なぜ幼児向けの玩具で「中央特快」なのだろうか。
幼児にはその最たる部分である「寝坊をカバー」のことは、少し難しいのではないだろうか。
そこがセールスポイントにはならないのではないか。
ともかく、僕はひとつまた、気づかされる事になった。
「中央特快」
なんとなく、強そうなのである。

黒衣の男達

「ごめんね」
と書かれたノートを残して、彼女は姿を消していた。
これはかなり辛いが、一方でこれはどうだろう。
「同性愛者の人が一緒に温泉につかる事は「混浴」なのだろうか」
と書かれたノートを残して、彼女は姿を消していた。
何か難しいことを言っている。
そして姿を消した事について、考えてしまう事が複数あり、困る。
・本当に「混浴」なのかどうかの現地調査として、旅に出た
・彼女は本当は「彼」だったのではないか
・「とうとう気づいてしまいましたね」
謎の組織に拉致されてしまった。
あるいは、自分が知らず知らず「混浴」状態の温泉につかっていた可能性のあることに、彼女は我慢できなかったのかもしれない。
どうであれ、自分で書いたというのなら、ここはとりあえず「ごめんね」とか残してくれればいい。
かなりゆずっても「結果、ごめんね」だ。