考えてみると、のどごしを感じるというのは、結構よく分からない。
のどもと過ぎれば、熱さ冷たさに加え、味もわからない。
わかるのはただ、何かが通っているという「触覚」だけじゃないか。
おそらくこれは「飲み込もうとしたんだから、やけどするような温度や、毒々しい味ではない」と「入り口」時点で判断されるという第一関門のおかげ。
せいぜい「今、詰まっているか詰まっていないか」かを察知するための情報のひとつとしての触覚。
そういうことなのだろう。
この点「熱すぎるが飲み込もうとするやつ」「服毒自殺をはかるやつ」などがいることを喉は忘れている。
今後、喉が改善されるとすれば、こういった点だろう。
「熱すぎると判断した場合、口にやけどを負わせない程度に冷却後、口へ押し戻す食道」
「毒だと判断した場合、口にとどまらせないくらいに勢い良く異物を射出する食道」
どちらも、温度や毒物の判定の他に「食道を遡らせる」ことが必要だが、人間には「吐く」という機能があるため、さほどハードルは高くない。
ある本に「インド人は手で物を食べるが、あのとき、指先でも味わうのだ」ということが書いてあったのを思い出した。
指先に味蕾が誕生したとは考えにくいから、あれも触覚を用いるのが主な「味わい方」だろう。
読んだ時、インドの人をうらやましく感じたりしたが、実は自分でも「のどごし」という方法で、似たような味わい方をしていた事に気づく。
ただひとつ違うのは、指先で味わいたくない場合、スプーンなどの食器を用いる事ができる。
一方、「のどごし」の場合、そうはいかない。
人間は喉に何かが通る時、何か疾患でもない限り、それを感じない訳にはいかない。
となると、のどごしを重視する姿勢というのはかなり理にかなっている。
「のどごし」という言葉自体を、そのままでとらえてみると、なかなか大変なことになっているのに。