もっと念仏はって!!

終電間際の電車内には、空也上人がたくさんいる。
しかも、上人よりも念仏大きく唱えちゃってる感じだ。
などといいながらも、僕もよく大口を開けて眠っているかもしれない。
気をつけたい。
なにせ、僕ごときは、あんな崇高な物を出せるとしてもせいぜい1.5体くらいだから、座席に残るのは1体の仏さまと半身の何か。
そして体は消え、ただ衣類が残されることになってしまうからだ。
こんなギャグ、いりませんでしたか。

卒業文集 16番

卒業文集
16番 だじゃれ
誰もが、僕が卒業するなんて思っていなかったでしょう。
僕自身も驚きです。
あ、今のはそれじゃないですからね。
思えばものごころついて、言葉を覚え始めたとき。
そこからもう僕は皆さんと一緒になってがんばってきました。
今のも違います。
そして今、僕は旅立ちます。
実は、僕はこの卒業は、いい機会だと考えています。
だって、どんな人にもそれぞれの「駄洒落ポイント」があって、そのことを意識すると、おいそれと話なんてできないからです。
今のもです。
あれあいつ。
今駄洒落言わなかった?。
ああ、あいつはほら、自身がそうだから。
そう、何度言われたでしょうか。
「駄」とは付いていますが、学校で学んできた僕にとって、多少なりとも誇りがあります。
先日、学会で発表した駄洒落に関する論文「文字数と行数別に発生する、語彙三十七移置換アナグラム法のひずみに関する解析」にかからないような駄洒落には、僕は関わりたくないのです。
僕が卒業すると、「サー」の称号がつくのと同じような理由で、マイナス称号「だ」が取れると聞いています。
街で「じゃれ」を見かけたらそれが僕なので、気軽に声をかけてください。
どうもありがとうございました。

すれちがい、こんにちは。 その2

昨日、3DSの「すれちがい通信」について記したのだが、なんとなく「自分しかいない部屋で突然すれちがい通信が始まる」というのは怖いな、と思えてきた。
確か、「すれちがい通信」が発生すると3DSのどこかが明滅。
通信している事がわかるのだが、それが全く誰ともすれ違わないシーン。
自分の部屋や、深夜で誰も歩いていないアパートなど。
突然ランプが明滅するのだ。
これは怖い。
完全に霊である。
しかし、考えようによってはこう捕らえることができる。
「霊とすれちがい通信の電波?は同じである」
霊がすれちがい通信で「ひっかかってしまう」のなら、もはや3DSがすれちがい通信で出すもの自体が霊のようなもので、3DSは霊ですれちがい通信をしているわけである。
これは3DSの付喪神的な面を想像させるもので、あんがい興味深いが、一方で私たちは次の事に気づかねばならない。
「3DSからは、よく霊が出ている」
3DSこわっ。

すれちがい、こんにちは。 その1

ドラゴンクエストモンスターズというゲームをやっていると、なんとなく「人とすれちがう」ことが気になってしまう。
というのも、3DSには「すれちがい通信」みたいなものがあり、近くで3DSを持っている人がいると、その人と情報がやり取りされる。
ドラゴンクエストモンスターズの場合は、お互いが作ったキャラクターがやり取りされ、それらと対戦できるというシステムになっている。
家に帰ってきて3DSを見た時、こんだけの3DSを持っている人と今日、すれちがったのだなあと感慨深くもなるのだ。
ところで、このやり取りには「相手の作ったキャラクターを仲間に入れる事ができる」というメリットもあるため、気分的にはどんどん「すれちがい」あいたい。
となるとどんな方法が最も良いかという考えが生じてくる。
まずは大規模な駅、空港などが思いつく。
人がたくさんいるところ。
それは「3DSをすれちがいをするために持ってきました」という人もたくさんいるのである。
あとは効果があるか分からないが、以下のような方法もあるだろう。
=====
すれ違う人すれ違う人それぞれに対して一人ずつ、1回周りをまわる
存在しない、しかし大都市が関わっていそうな住所へ、3DSを送付
ゼッケンのように、3DSを衣類表面に貼っておく
岸和田だんじり祭りのおみこしに3DSを隠しておく
東北に暮らす友人に向けて、3DSをぶんなげる
=====
それぞれ、「すれちがい通信」の機会をより逃さない方法、多くの人に接するようにする方法、いろいろある。
ただ、ものによってはすれ違いではなくクリーンヒットの場合もあるためか、すべてニンテンドー非公認だと思う。

本カバーについて。

一昔前は「本カバー」というのはどこに売っているものかいまいち分からず、かといって本屋にあったかというとあまり記憶がない。
間違いない。
けっこうちゃんと本カバーを探し続けてきた僕が言うのだから。
たぶん。
しかし昨今、いろんな場所で本カバーを見かける事ができ、本も一安心といったところか。
本カバーがある事で、本屋でわざわざ紙のカバーを付けてもらう必要もなく、表紙を裏っ返すこともいらない。
まことに本カバーである。
ところでこの本カバー。
その機能は極めてシンプルだ。
それは本をカバーする事。
それで何を読んでいるのか周りに知られなくて済むし、汚れもつかない。
例えば、これに「ボールペンをさすことのできる輪っか」が内側についていたらどうなるか。
それはもう本カバーではないし、それがかぶせられた本はもう本ではない。
多機能なにか、だ。
例えば、これに「まち針をさすためのふわふわしたクッションのようなもの」がついてたりしたら、多機能にもほどがある。
このように、本カバーはシンプルでなくてはならないわけだが、唯一あったらいいのは本を買ったときについてくることのある帯を収納できるポッケだ。
これはいいし、既にあるだろう。
ここには帯はもちろん、購入したときのレシートを入れておいても面白い。
まあ、本カバーは多くの本を渡りある事になるだろうから、ポッケが膨らむ前には整理が必要だろうが。
ただ、このようにシンプルであるが故に、最近の電子書籍ブームには柔軟ではいられないのが本カバーのつらいところだ。
ここばかりはまち針の件が悔やまれる。
「でも、kindleだとまち針しまうところないじゃん?」
こういうのがないのである、本カバーには。

カラフル

初めて入るラーメン店では、一番オーソドックスなものを注文するに限る。
そう考えているのだが、そんな場面のとき、僕はいつも「ぜんぶのせ」みたいなものを頼んでしまう。
こないだもそうだった。
評判らしいエビ抽出のつけめん。
しかし僕はその日、久しぶりだったからか大量の朝マックを食べており、しかもラーメン前にサイダーを飲んでしまった。
その上で「ぜんぶのせ」的なやつを注文したのである。
そうなると、あたりまえ。
もちろんおいしいのだがそれ以上の「もう食えない」感情が発生する。
それは、結果おいしさが薄れるのを意味している。
これだけなら自分で閉じている話でまだましなのだが、重要な「おいしさ感情」が薄れてしまった事で、例えば誰かにその店のコメントを求められた時。
「まあ普通だったよ」となってしまうのである。
これはいけない。
おいしかったのだから。
「あそこのラーメン、どうだった?」
本来はこう言うべきだ。
「お腹いっぱいだったよ」
相手が「あれ、量が多いの?」と勘違いしたとしてもかまうものか。
「いや、それはお前の腹のさじ加減で、それは俺には関係ないから」と冷えていてもかまうものか。
今、気に入っていた白い帽子が、カラフルになって洗濯機から出てきた。
「あそこのラーメン、どうたっだ?」
「カラフルになって帰ってきたよ」
ざんねんである。

コード

僕は「ミセスロイド」という言葉はかなりエロいのではないかと常日頃より考えているが、じゃあ何がエロいのかと問われると困る。
それは回答できないというよりは「回答するものがない、あるいはありすぎる」のどちらかになってしまうから。
であって、要は「回答に最適なひとつ」が用意できない。
誰しも「ミセスロイド」で何かしらエロファクターを見出せと言われれば、いくらかは出てくるだろう。
僕も同じくらいだが、人は人生というものを歩んできた。
そのなかで、他の人には見出せないエロファクターを探し出せる経験もそれぞれ積んでいるだろう。
それゆえに、「回答がありすぎる」というのは十分に考えら得る事なのである。
ただそれを全て示す事。
例えば誰かに詳細に理由を話すのは、「回答がありすぎる」故にかなり個人の濃密な部分にも触れなければならないだろう。
それは自分のQRコードを渡すようなもので、あまりゾッとしない。
どうしてもっていう場合だけ、ささっとすませる程度にとどめておきたいものだ。
「え、何がエロいかだって?」
「いやあ、特に理由は、ねえ」
「でもどうしてもって言うんなら、じゃあ今夜、雀荘予約しておこうか」
僕は麻雀ができないのである。

虫盛り

毎年書いているかも知れないのだが、近くに森林を利用した公園があり、そこに沿う形の小道をよく通る。
秋から冬にかけてあたり、この小道に「お椀一杯くらいの毛虫が山盛りになっている」ことがあるのだ。
少ない年は数回、多い年だと週に一度くらいは新しい「盛り」を見つける。
できたての「盛り」だと毛虫がみんなもぞもぞしていて、戦々恐々とする。
今年は多い。
昨日も、それまでなかった「盛り」ができていて、散り散りばらばらになっていた。
そう、彼らは越冬というよりは自殺行為。
たいがい「盛り」は自然にあるいは雨にうたれて毛虫が散乱。
誰一人助からない「盛り」行為なのであるのと同時に、僕が「虫盛り」と呼ぶそれは我が家の冬の季語にもなっているのである。
あれは一体何なのだろうか。
図鑑でも調べてみたがよくわからず、ごめんそれほどちゃんと調べてない。
ともかく「盛っている」。
翌日「死んで散らばっている」。
理由としてありそうなのは、やはり越冬だ。
何か、その小道には越冬に最適な何かがあったのだ。
それを何らかの形で知っている毛虫達は、それを利用とする。
しかしその「越冬に最適なもの」はもう利用する事ができなくなっており、ただ死ぬのを待つばかり。
それがこの惨劇の背景としてあるのではないか。
惜しむらくは、この繰り返される現象に生き証人に値する登場人物が現れない点である。
例えば、毛虫間で何かしらのコミュニケーションができたとしても。
毛虫達はみんな死んでしまうものだから、誰かが「あそこで盛ってみても越冬できないよ」と伝えることはできない。
虫盛りは自殺行為。
「越冬に最適なもの」は知っているが、虫盛りの惨劇を知らない毛虫達は、毎年小道に大挙するのだろう。
先日も、虫盛りのあとの惨状の上に、新しい虫盛りができていた。
惜しむらくは生き証人がいないこと。
本当に毛虫間コミュニケーションはないようだ。

水換え

いつものようにカメの水を換えようと水槽に近づくと、そのうちの一匹が水面近くで大暴れしている。
これは「誰か近くに来たから、えさがもらえる」と思っているから出る行動らしく、うちで飼っているネコが近づいてきたとしても同じ行動をとる。
飼われているカメは、「何か近づいた」→「えさ」という至極簡単な構図から成っている。
ゆえに、誰もいないときにいきなりカメが水面近くで暴れ出したら、それはもう霊が来ていると考えて間違いなく、こうなると「カメにしか見えない霊」というのは霊としてどうなのか。
あるいは案外幸福を呼ぶ霊なのではないかと考察することもできなくない。
カメは猛烈に暴れ水をかき、もう少しがんばればそのまま宙を泳げるのではないかというくらいだ。
体の半分は水面から出ている。
そのさまをみて僕は、カメが空中を泳げなくて本当によかったと思った。
近づいてきてくれても困るのだ。
これはカメもそうだろう。
近づけても困るのだ。