俺の屍を飛び越えてゆけ。

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2012年カレンダーの回想です。
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圧倒的な結果を目の当たりにしても、人はまだあきらめない、あるいは何か違う事で代替しようとする。
例えば、育てていた花の上に、飼い犬がおすわりしてしまったとき。
押し花は避けられない状況だとしても、あなたは犬をどかすのではないか。
「何おすわりしてんねん!!」
あるいは楽しみにしていたシュークリーム。
子供に使って食べられてしまった。
あなたは子供をこう叱るのではないか。
「何舌なめずりしてんねん!!」
例がよかったかどうかは分からないが、9月で気に入っているのは23日。
「跳び箱が自爆スイッチなのは仕方がない。せめて飛び越せる奴で押してくれ。」
「何自爆スイッチの上でどっこいしょってなってんねん!!」
飛び越せない奴の場合。
そう叫びたくなる事必死だ。
それはガス漏れした部屋でタバコを吸おうとするような、お葬式でマナーモードを解除しておくような、電車内でたくあんを背負うような。
無頓着もいいところの雰囲気。
叫びたくもなる。
しかしそもそも叫べるかは、また別の問題。
爆発しちゃうから。
ただ、とにかく無頓着すぎるのだ。
それならばまだ、飛び越せる奴の方がいいというのも分かる。
ところがやはり自爆するのは変わらない。
だから、飛び越すだの飛び越さないだのは、ただの一種のこだわり程度のもの、とも言えなくない。
飛び越せたかどうかも分からないわけだから。
「跳び箱は自爆スイッチだが、その先のマットはその爆発動作を解除する」
これならより、飛び越せる奴で押してくれと言えるのだが。

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