こんなことを聞いたことがある。
「海外では、うま味という味覚は確立していなかった。一方、日本人はダシなどでうま味を味覚として既に重要視していた」みたいな。
もちろん全てがそんなことないのだろう。
しかし日本人がうま味成分を単離、味蕾にもその受容器官の存在がわかったということで、なんとなく「日本人、うま味のこと知ってましたぜ」的な誇りが私たちにないとは言えない感じではある。
この感じをどこからか受ける度に、僕は「ロマンティック」という言葉を思いだす。
「確かに、俺らの国ではうま味という考え方はなかった。しかし、日本にはロマンティックはあったか?」
今ですら、ロマンティックを日本語に訳すと「ロマンティック」なのではないだろうか。
確かに、当て字や他の言葉で置き換えたりもできるだろうし、しているだろう。
しかしそれも、もしかしたらロマンティック発祥国(フランスとか?)での「ロマンティック」の全てを網羅できてはいないのではないだろうか日本の「ロマンティック」。
「ロマンティックの、あの体温のような心地よさがちゃんとわかっているのかねえ。いや、そもそもこの日本の文章でちゃんと表そうとはしているんだけれどもね」
そう言われたら、僕は今後ロマンティックという言葉を使っていく自信がない。
うま味は分かっているが、ロマンティックのない国。
うま味は分かってないが、ロマンティックのある国。
双方はこういう関係なのだろう。
どちらがいい、いけないということはないが、なんだか原初的な選択ですね。
グラスの底にさらさら光る、MSGの砂浜とワインの残り香。
あー確かに僕にはロマンティックないわ。