「ひとかけのラードをなくすには、あぶらとり紙何枚必要か」
それほど話も広がらなそうあるいは作為的にも、これは一言ネタのようにでも使用かと考えていたが、書いちゃった。
作為的という点は主に下ネタが思いついてしまったからで、男としては全然作為的じゃない、かなり自然発生的な何かだが、まあブログ内容としては何となく避けがちなものである。
「ひとかけのラードをなくすには、あぶらとり紙何枚必要か」
この疑問を解消するためには相応の機構を考えると分かりやすい。
かなり原初的かつ有効なのは、あぶらとり紙製造所に忍び込みことから始まる。
そして、それの製造段階のあるパートを担っている区画を探し出す。
これは「あぶらとり紙は最初でかくて、それを切って商品にする」という憶測が混じっているが、その区画に「ロール上になっている」「でかいあぶらとり紙が1枚ずつ引き抜かれる」いずれかのシーンを期待しているのだ。
そしてロールならそれを回しているときにラードの小片をあてる。
でかい紙なら、引き抜かれる方向とは反対のところに、やはり小片をあてる。
これで、ラードの付いたロール全長あるいはでかい紙枚数分長を、商品あぶらとり紙長で除して答えが出そうだ。
以下、作為的に考慮した方。
一時期、今でもあるのだろうか。
女性、主に中高生の下着を販売する店があった。
いわゆるブルセラ病である。
この下着の大量生産について思ってしまったのだ。
こう、かかったYシャツが流れてくるところに、腕を上げて脇をさらした女子高生が椅子に座ってケータイをいじっている。
これで使用済みYシャツのプロマス実現である。
例はかなりマイルド指向だが、どんな場合でもこのブルセラ病。
実際やっていたとしたらその絵はかなり面白い。
一瞬、何やってんのか分からない。
ずっと見てても分からないかもしれない。
ずっと同じ脇だと擦れるから、そうか。
この午前の絵と午後の絵で座っている位置が違うのは、そういう意味があるんだね。
そんなこと、分かんなくていいかもしれない。
以前触れた気もするが、ほぼ同じ方法で「有名人サイン」なども、ただ一筋の線としてなら、大量生産は可能だろう。
ただ、どれにも言えることは「ありがたみがなさそう」だろう。
大量生産に対して「ありがたみ」がどうこうなんてのは昔からいろいろ話があるわけで今更な気もする。
しかし今回、「ラードの付いたあぶらとり紙がそこそこ出来てしまう」らしいので、ちゃんと言及しておいてみた。
寝ます。