模索の休日

年末だ。
近所の神社が年明けの準備をし、提灯が照らされるようになった。
日も沈んであたりが真っ暗になったころ、林のなかにその灯りが見えてすごくいい感じだ。
この神社には、除夜の鐘がなるころに自転車で行き、どのくらい人が並んでいるのかを確認するのが年課になっている。
鳥居を抜けて行列を見て「混んでる混んでる」とうなずき、すぐ帰る僕を変な目で見る人もいたが、今年はどうだろうか。
混んでいるだろうか。
神社の近くの水路には10センチくらいの魚がいっぱいいて、その腹がときどききらりと光るのもいい。
しかし今は夜だから、あまりよく見えない。
僕も心のどこかで、あー火竜の逆鱗取りたいなどと思っているため、純粋ではない。
年末年始は休めるのだが、経験上ちょい長休みはむしろ疲れるということを知っている。
せいぜい自転車で1時間くらいうろうろし、一蘭にでも行く感じになりそうだ。
それとも山のほうにでも向かってみるか。
冷えきった空気を吸うのは、肺とその空気との境い目がわかるようで楽しいし。
何か話を考える手もある。
カレンダーも全然できていないし。
でもだらだらしてしまうだろう。
なんたって、僕は火竜の逆鱗が取りたいらしいから。

幻想動物生態・ゾンビ

完全憶測で、いるんだかいないんだかよくわからん生物を紹介する。
◆ゾンビ
和名:
ぞんび
生息地:
本土
ゾンビ職人の一日はカビの生えた紅茶の葉を取り除く事から始まる。
「一日のはじまりは、まじり気のない香りの紅茶が飲みたいのです」
ゾンビを作る人がカビの生えたものをとりのぞくのって、おかしいですね。
「ええ確かに。でも目指すところは同じなんですよ。純粋な、というか。ええ。」
そういって彼女は、ちょうど煙突のように地面から突き出ている金筒に近づき、手をあおいだ。
「まだですね。あの香りがしない」
この世界、無関係の人を勝手にゾンビにし、勇者にあてがう悪徳魔術師もいるが、彼女は生前、ゾンビ希望だった人のみをゾンビにしている。
「死んだらもうその遺体に自身はいないわけです。しかしせっかくだからその体を使って簡単な仕事でもしてこっちの世界に貢献したい。そんな人がわたしのところにやってくるわけです」
彼女の手で施されるゾンビは評判で、ほぼ生前と変わらないとされる。
もちろん生前の記憶はないが、基本的なコミュニケーションですらかわすことができるのだ。
「生前の記憶?。徹底的に排除します。なぜか?。これはわたしの仕事のコケンに関わります。」
「万が一、何らかの形で彼が自分がゾンビとして動いていることを理解してしまったとすると、その悲しみは計り知れないでしょう」
「それに、生前の彼を知る人が、彼の仕草ひとつでもそのゾンビから読み取れてしまったら、やはりそれは同じ事です」
「だから見た目だけです。彼が残っているのは。生前の記憶だけでなく、癖なんかも取り除きます。方法は企業秘密ですけど。」
痛みに激しさを増したゾンビは、その従事期間を終える。
彼女の徹底した仕事のためか、ゾンビたちを従事させていた人たちはそのゾンビに愛着を持つ。
だからそれを手放すとき、あたかも彼が再度「亡くなった」かのように嘆き悲しむという。
「泣きながらそこの碑に従事していたゾンビを埋める彼らを見るたび、悲しいですがこの仕事をしていてよかったと思うんです。そしてゾンビたちに対しても誇りが持てるわけです」
役割を終えたゾンビたちは大きな碑のもとに埋められ永世まつられることになる。
しかしそこから幾人もの腕がにょきりと出ていることは、企業秘密だそうだ。

せんべつ

ゾンビはどのくらい「漬けて」おけば、いいゾンビになるのだろうか。
とはいえ、ここでのゾンビというものを定義しなくてはならない。
まず、ゾンビは亡くなった人を全然本人の意思とは関係なく動いちゃうものであるとしよう。
そしてドラゴンクエストのようなゲーム中におけるゾンビなら、「いいゾンビ」は扱う側からして強いゾンビということになる。
一方、労働力としてのゾンビなら、忠実なゾンビということになる。
となると紐付けをしなくてはならないのが「醗酵期間と強さ」「醗酵期間と忠実さ」である。
難しい。
「醗酵期間と強さ」なら、まだ考える余地はありそうだ。
すなわち「肉が強いのか、骨が強いのか」という点。
肉が強さにつながるのなら、ゾンビはかなりフレッシュなものがいい。
骨が強いというのなら、もう骸骨寸前まで寝かせるべきだ。
対して「醗酵期間と忠実さ」。
これはどういうことが関わってくるのだろう。
脳だろうか。
脳が腐っては忠実も何もなくなってしまうため、その点ゾンビは亡くなった直後のものがいいということになりそう。
しかし、生前の記憶が従順な行動を妨げる、というのなら、そこは考えなくてはならないところにもなる。
例えば生前、ピスタチオばかり食べていた人のゾンビは、ゾンビとして復活しても座って両手の指をもぞもぞさせてばかりいるのかもしれないのである。
それでは労働を選択できる余地は少なく、せいぜいピスタチオをむく仕事しか割り当てられない。
しかも、ときどきむいたピスタチオを口に入れてしまうだろうから、その点を考慮し歯がなく、口腔のどこかに穴の開いているゾンビしか労働させることができない。
難しい。
どうも「生前の記憶が従順な行動を妨げる」場合のいいゾンビは、時として生前から生者を憎んでいたりする人が適任であるようだ。
それならゾンビでなくても良さそうだけど。
次回
ゾンビについてでっちあげ。

たぬきについて

僕はたぬきを見た事がある。
家から10分くらい離れたところにある神社に向かう途中、やせたたぬきが僕の自転車の前を横切ったのだ。
ねこくらいの大きさで、横切ったときはまさにねこと見間違いそうになった。
たぬきとねこが話題になると、どうしても避けては通れないのがポコニャンだ。
ドラえもん系列の何かだったと思う。
しかし、何か呼ばわりしているほどであるから、僕はポコニャンの事をあまりよく知らない。
全然知らない。
そもそもポコニャンには何か特殊な能力を持っているのだろうか。
何か持っていないと、ポコニャンのアイデンティティだけでは物語の続かないような気がする。
思うに、たぬきとねこは結構似ている。
同じくらいだ。
そんな両者が混ざったところで、何か20分くらいのドラマが毎度起きるとは考えにくいのだ。
まず、ポコとニャンが混ざる初回が20分。
次にガキ大将がポコニャンをゆずれと20分。
あとはWiiで2時間くらい遊んだら終わりなんじゃないだろうか。
それともキテレツのように、マスコット以外の方が特殊能力を持っている形式か。
しかしこれだって、コロ助という特化キャラがちらちら画面に映ることでアニメの体を成しているわけで、秀才キャラの横をねこが通っても、ああそうですかという感じ。
どうなっているんだポコニャンは。
僕はポコニャンを見た事がない。

ポチ

以前似た事を書いたかもしれないが、「犬のポチ」というのはくどい。
「ポチ」というのは一般的には犬につける名前であることが認識されているから。
それは「魚のハマチ」と言っているようなものである。
と、こうなると以下の反論が生じる事は想像に難くない。
「うちの猫の名はポチだ」
これは「ポチが犬の名前というのは、一般的ではないよ」を示していそうではあるが、その根底にはあくまで「犬はポチ」という思想が確立しており、それに対する反社会的な行動として猫にポチと名付ける。
その流れがありありと見てとれる。
よって、これは犬がポチであることをさらに証明しているほか、完全な反社会的行動でもある。
日本に秘密警察制度がなくて本当に良かった。

ふり

僕はどうしても「見ぬ見てフリ」というものでひとつ何か書こうとしていたようだ。
メモに書いてある。
もちろん「見て見ぬフリ」があるのだったら、「見ぬ見てフリ」というのもある、ということなわけだが、つまるところそれは「知ったかぶり」と思われ、それほど話は広がらない。
じゃあどうしたらいいん?という気にもなるが、例えば「見ぬ見ぬフリ」だったらどうなるかと考えていくと、なかなか奥深く、ちょうどブログ1回分くらいはどうにかなるんじゃないかという今回である。
「見ぬ見ぬフリ」は、「見ないフリというのだから、実は見ている。よって「見て見ぬフリ」とほぼ同じ意味で、違うとすれば見てない風を装う頻度が比較的高いことだ」と思われがちである。
しかし違う。
「いやよいやよも好きのうち」と完全に同義の言葉だ。
なんかの辞書に載ってた。
「見て見てフリ」は何かを凝視しているさまを表していると誤って理解されている事が多いが、違う。
ぶりっこのことだ。
「見て見て」はそのまま、「フリ」は「フリル」に通ずる。
よって、「見て見てフリル」となり、ぶりっこである。
なんかの辞書に載ってた。
なお、類似語に「フリフリ見て」がある。
「見て聞くフリ」
さぼりのことで、ろくなものではない。
僕はよくやる。
ちなみに「見て言い聞くフリ」もあり、これは東照宮のほうのこと。
「見ぬ聞かぬフリ」
テスト前によく行われている詐欺のこと。
「俺全然授業聞いてなかったよー」で良い点を獲得してしまうこと。
ところでこちらにも「見ぬ言わぬ聞かぬフリ」があるとされ、これも東照宮、いわゆる「見ざる、言わざる、聞かざる」のことであるという説もある。
このことはその3猿がその名に反して、実は指の隙間から見て、もごもご言って、聞き耳を立てて聞いているという可能性を示唆している。
この猿たちは当時の教育理念を端的に表したものとされているが、それは全然関係なく、覗き見している猿は猿らしくてよいということを表しているのだという研究家も多い。
なんかの辞書に載ってた。

シュシュ

シュシュというものがわかってくると「ポニーテールとシュシュ」に見られるような「なんとかとシュシュ」が面白くなってくる。
「おばさんとシュシュ」
おそらく手首に付けている。
「事故現場とシュシュ」
花束の代わりに盛られている。
「掃除機とシュシュ」
確実に詰まる代表としての、名指し。
「冗長なケーブルとシュシュ」
まとめるのに便利で、しかもかわいい。
「開けた砂糖袋とシュシュ」
移す容器がない場合。
「香典袋とシュシュ」
香典袋のリボン?のところがシュシュだったら、たぶん怒られる。
「加害者とシュシュ」だと、どうだろう。
これも「おばさん」のやつと同じ。
やはり手首に付いていてもらいたいところだ。
「NASAとシュシュ」
何か特殊で丈夫。宇宙空間にも耐えられるのだろう。
語呂もいい。
「はげとシュシュ」
一見かなり直接的な冗句だが、よく見ると頭皮をマッサージしている感じが出ていて、いい。
語呂もいい。
僕、シュシュのこと全然分かってないかもしれない。

竹馬

よくわからない店がある。
なんとなく入店意欲を削ぐ。
雑貨屋らしいのだが、そんなたたずまいだ。
喫茶店でも行こうかとそこを横切るとき、前にいた二人の会話がなんとなしに耳に入ってきた。
彼女たちはその店頭にでもあったのだろうか。
「竹馬自転車」なる玩具に対して、こう言っていた。
「竹馬自転車ね、確か・・・」
僕はおどろいた。
「竹馬自転車」というのもよくわからないが、何よりも彼女には何かしらの竹馬自転車知識があることを示す「確か」が非常に気になった。
僕にはそれまで、致命的なまでに竹馬自転車についての知識はなかったのである。
そもそも何なんだ、竹馬自転車。
店先にあるのかもしれないが、竹馬自転車に食いつくのも悔しい。
しかしこれでは何ら好転しない。
今後の僕に、何かしらの形でそれが関わってこないとは言えない訳で、「あのとき竹馬自転車について少しでも知識を入れておけば」ということにもなりかねない。
「竹馬自転車ね、確か・・・」
前の女性はそう言ったのである。
つづきを聞き耳たてて、あとをつければいいか。
「竹馬自転車ね、確か竹馬と自転車のジョイント部分にはマー油を注すのよ」
軽く笑みを浮かべてそんなことが聞こえてきたら、知的な女性として恋をしてしまいそうだ。
いや、そもそも竹馬自転車について何かを知っているってだけですごい。
言ってみたいわー、「竹馬自転車ね、確か・・・」。
と、調べてみたところ、モヤさまで扱われていたらしい。
こ、恋が・・・。

見るよろこび

二度見という文化がある。
同じ物を二度も見てしまうほど、それが理解しがたい何かであるということだ。
しかしこの二度見。
後ろに「それ」があったとしたら、それを二度見れば二度見になる。
しかし、前にあったとしたらどうだろう。
最初に目に入ってきたまま。
二度見るという動作にはならないような気がする。
つまるところ最初から目に入っていたものに対して「二度見」に相当する行動をするのは難しい。
見ていないところで「二度見」に値することが起きた場合、それは「一度目:起こった事を確認する」。
一度目と二度目の間に「問題ないと判断」と目線を外す。
そして二度目の際には「もう一度確認せねばならない緊急の事情」が生じるのである。
一方、見ているところで起きた場合では、そのうちの「目線を外す」が必要ないため、そのままのまなざしが二度見分に相当する。
その二度見分が一見「二度見」とは見なされないのである。
見えていたものに対する「二度見」を成立させるためには、どうすればよいのだろうか。
まんがなら目を飛び出させる、ねこなら瞳孔を大小させる、顔を近づける。
いろいろあるが、実際に実行可能なものはそれほど多くない。
まんがではないし、ねこでもない。
顔を近づけると、自分もしくは対象が異性だった場合、どちらかがきゅんとなるだけかもしれない。
どうしても「俺は今二度見分に相当する驚きを受けているんだ」を確実に表現したい場合は、言葉による補足が必要になるだろう。
結論
「二度見分が一見二度見とは見なされない」というのが結構よかった。