神社へと続く土手道を自転車で進んでいく。
その先には、昨日ずいぶんきれいに見えたイチョウの木があるのだ。
河原とこの道の間は広場になっていて、少年野球が行われていたり、犬散歩の人が集まったりしている。
通ったときは少年野球がやっていたが、実は広場が見える前から、野球をやっていることは分かっていた。
ずっと不思議なのだが、なんだか少年野球では、外野の選手が「ウェー」だか「ウォー」だが声をあげるのだ。
それを守っている間、ずっと発しているのだが、あれが分からない。
実は僕も少年野球に入っていた。
そしてその当時でも「声出せ」というコーチの答えとして、確かに「ウェー」とか言っていた。
すごく嫌だった記憶がある。
意味がよくわからないから。
バッターを威圧する意味があるのだろうか。
また「試合中に発生する声(オーライなど)を、大きな声で出せるようにするための練習」?。
ならば「意味がよくわからない」というのは僕に足らないところがあったわけで、今なら「今はわかんないかもしれないけど、声出しておくとあとあといいかもよ」と当時の僕に自ら言うかもしれない。
ただ、意味がわからないというのは未知であることであって、それが子供に与える不信感、恐怖は思いのほか大きいと思う。
誰かが教えてくれていればよかったのに。
「あれは外野たちの共鳴反応により、近くの人の新陳代謝がよくなるのだ」
とにかく、声をなぜ出すのかがわからない。
例えばプロ野球で、外野がウェーと大声を出しているところを見た事がない。
たまたま出していなかったのだろうか。
それとも聴衆の歓声でかき消されてしまったのだろうか。
言わなくても済むのは何歳からなのだろうか。
世界で初めて誕生した少年野球コーチとしては、外野は暇なことが多いから、声でも出させて集中力の途切れないようにさせたかったのかもしれない。
要は、声の内容は問わないのだ。
そのとき、初めての少年たちは、本能の赴くままにホーミー(全然違うけど)してしまったのだろうか。
それが今日では「ウェー」と発する事、のようにルールづけられてしまったのだろうか。
そうだとしても、原始の少年たちに罪はない。
我々がウェーでよしとして引き継いでしまっているのが悪いのだ。
ベンチではお母さんたちだろうか。
なぜか何組かのグループに分かれて雑談を交わしている。
まさかお母さんが「声出せと言われたらウェーですよ」とでも教えているのだろうか。
そして反社会的な持論を持つお母さんなんかは「声出せと言われたら、高音でナーと言いなさい」とかみんなと違うようになる事を教えているのだろうか。
そしてそのことがお父さんにばれて、子供が「ナーとウェーでけんかをしてほしくありません」と書いた自分の短冊を、夕方の河原にて、バットで打ちのめしたりするのだろうか。
家族というのは、僕の知らないところですごいことになってんのな!!。
な!!。