風に飛んだよ

こないだ折り紙について書いたとき。
ベルヌーイの何かを利用して、紙飛行機を遠くに飛ばせるかを試したことを思い出した。
成功したかはさておき、僕らはいったいどれだけ紙飛行機というものを作り飛ばしてきたのだろうか。
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こう見ると、たいがいの紙は一度くらい紙飛行機になったことがあると言え、その点再生紙は経験者だ。
一方、折る側としては紙の経験どうこうはあまり気にならない。
それどころか、飛行機として重要な「よく飛ぶか」ということすら度外視する。
ある種の人々は、作った紙飛行機をおもいくそ投げ、目の前で一回転して足下に突き刺さることを美しいとする。
確かに、ゆったりと長く飛行する紙飛行機は情緒深く、望郷の念を抱かせる。
何かの広告を考える際、普通はないだろうが、そのイメージ画像に困ったとしたら、まず青空に紙飛行機で問題ない。
表紙は青空に紙飛行機で問題ない。
本人が出ていないカラオケの画面も、青空に紙飛行機で問題なく、極端に長い曲だと数100メートル飛んでくれて、やはり問題ない。
代々伝わる掛け軸に、放射状の折り目がついていてくれて問題ない。
話がずれたが、まあそのくらい「ゆっくり飛ぶ紙飛行機」はよい、ということだ。
しかし、「紙飛行機を長く飛ばすための努力」に何かしらの疑問を抱いた者は、その情緒を感じる事にちょい嫌悪を抱く。
何を、先っちょにひとくふう加えることがあるのか。
そう思った瞬間、むしろ紙飛行機の瞬間的な躍動に感動を覚える身になってしまうのである。
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そうした紙飛行機が幾つも突き刺さる光景は、なにげに本当に見た目いいかもという気がしてきた。

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