「このほど、度重なる政府の不祥事を鑑み、明日午前7:00より修正パッチが適応されることになりました」
そんな緊急ニュースが流れた翌日。
いつもはうるさい電車の音も聞こえず、静かな朝だ。
月: 2010年8月
いわく
「ゲーテ曰く」
これだけで何となく言いたいことはわかるだろう。
「曰く」とつけられる人の存在だ。
一般的に、有名な人でないと「曰く」はつけられない。
斉藤さん曰く「絹ごしではなく木綿のほうがいい」
誰なんだろう。
ただし、ここで注意したいのが、その「誰なんだろうか」感が、別に豆腐のくだりのせいではないというところである。
なんか深さげなことを言ったとしても、有名な人でない以上、「誰なんだろう」感はぬぐわれない。
斉藤さん曰く「究極の節約は究極の浪費に等しい」
誰なんだろうか。
一方、有名であれば「曰く」がついても違和感がないし、さらに「ありがたみ」のようなものが増大する。
川上哲治曰く「優れた打者は、打席に立ったときに打球の描く線が見える」
そしてお察しの通り、特にどうってことないことを言っているときであれ、有名な人は「曰く」の恩恵をいけることになる。
川上哲治曰く「3倍モードで録画せずにはいられない」
なにそれ録画に値することだと言っているのか、逆にそうでないのか。
考えてしまう。
我々は、どうにも有名人の言うことには何かしら隠された意味があると考えがちなのである。
まさに「曰くつき」ってやつだ。
劣化する代替案
ある、おいしい中華屋さんに入った知人から聞いた話である。
注文したラーメンに箸を入れたとき、金たわしのかけらが入っていたという。
それとなく指摘したところ、それを詫びた店員さんは帰り際、腐ったみかんをくれたのだそうだ。
「腐り」の件が故意であるのなら、これは人類文化にとって大事件なのではないだろうか。
それは「代替が代替をなさなくていいという思想」。
代替が必要となった時点で、被代替者の不利益が決定しているのだ。
「家の天井、発注内容よりもだいぶ低いじゃないか!!」
「じゃあ、かがみながら生活してください」
「イ・ビョンホン似ってメールにはあったのに、全然違うじゃない!!」
「まずはランチにでも行こうか」
「ピザ、注文したのと違うんですけど」
「これ超おいしいっすよ」
その後いろいろあって、むしろ代替以上のものを得られました、ということもないことはないだろうが、たいがいは不利益となってしまうはずだ。
そんな思想がこの町から発祥するとはね。
隻眼の色気
いま、ミニものもらいができている。
もう少しひどくなったら、眼帯が必要になるだろう。
ところで僕たちは隻眼というものに、妙な魅力あるいは色気のようなものを感じることがある。
実は例が鬼太郎氏と綾波氏くらいしか思いつかないのでごめんなさいなのだが、アニメなどで登場するミステリアスな少女は、たいがい片目が髪の毛で隠れていたりする。
そして海賊や先日も登場した伊達政宗も、単に「眼、怪我しちゃってます」なアイパッチがなんだか魅力的だったりする。
一般的に目は物言う器官らしくて、当然それはより「見えている」方が外見上いいはずだ。
しかし一方で、それが片方隠れていることがナイス、というのは面白いところだ。
母性本能のようなものが生じるのだろうか。
不謹慎かもしれないが、畸形へのあこがれを持っているのだろうか。
後者については、古今問わずいろんな見解が既に提示されているようだ。
それに当ブログではちょっと手に余る内容でもある。
僕が一つ目小僧というものに怒りを感じるのは「お前確実に人を驚かそうとしているだろ」が出過ぎているためだ。
もう上記にある、一種のわびさびなんて、あったもんじゃない。
どうも最初から一つ目という状態では、僕らはいまいち魅力を感じ得ない。
それに「ばあ」とか言って出てきてみろ。
人を驚かすときに「ばあ」って、もう久しすぎる。
ただ、じゃあ他に言うことあるのかと考えると、なかなか難しい。
「わっ」とか「がおー」だろうか。
「ひとつめー」は怖いだろうが、ちょっと驚かせるタイミングを考えると長いか。
「明朝、命もらい受けるー」も怖いだろうが、長い。
「あまり自信ないですけれどー」と言われたらかなり怖いだろうが、これも長い。
驚かすという行為は、一瞬なのである。
彼らの存在意義は、その驚かせる一瞬であることは間違いなさそうだ。
そしてそれは「40年に一度しか花を咲かせない植物」や「100年に一度のご開帳」よりも濃密だ。そしてしょうもない。
そういった意味でも、単眼となってしまった羊が誕生した時点で短命であることを約束されているのは、仕方がないのかもしれない。
・・・今日って何の話だっけ。
追記
一つ目小僧が眼帯をして登場してきたら、なかなかこいつはスジがある、という気になりそうだ。
そんな状態でものにぶつかったり(電柱がベストか)していたら、それは別の魅力、愛着が出てくるだろうし、あるいはそんなそぶりを見せないようなら、結局彼はその単眼で環境を認識しているわけではないことを露呈していることになり、なんやその単眼はやはり驚かせるためだけの機能なんだろと問いただすことができる。
いつから夜は、黒くなくなった?
美術の時間、何かのテーマを持ってポスターを作成することになった。
そのとき、僕にはとにかく夜のシーンが必要だったのである。
僕はポスターを丹念に、真っ黒に塗った。
その後、要所要所にテーマたる部品を配置。
基本的に絵のざんねんな僕だったが、それなりに満足だった。
しかし誰かが、こんな指摘をした。
「背景が真っ黒いと、ほかの部分とバランスが取りにくくない?」
「全体のイメージが重くない?」
書いているときにもなんとなく感じていたが、確かにどんよりだ。
そしてぱっとみ、幼稚な印象も受けた。それはバランスどうこうに起因したものだろうか。
ともかく、ポスター作成をやりなおし、背景を濃い青で表現してみたところ、確かに真っ黒のときよりもよくなったような気がした。
しかし、一方で僕はこんなことも考えていた。
僕にとって、夜は黒一色の世界だった。
日も沈んでいるし、一見外灯や月明かりなどで照らされているところはあるけれど。
突き詰めればそこは不可侵の世界と思っていたのだ。
それゆえ、見栄えは悪くともその時間を表現しようとするのならば、全体のイメージやバランスは気にするべきではなかった。
夜にそれらは無意味だし、無意味ということすらないはずだ、と。
ポスターがどうなったかは全く覚えていないが、この夜の印象について思ったことはよく覚えている。
今、夜を書けと言われたら僕は何色に塗るだろうか。
もし黒ではなく、紺に塗ったとしたら、それは深夜のお笑い番組とかが原因かもしれない。
もし黒ではなく、うす桃色に塗ったとしたら、それは深夜のお色気番組が原因だ。
もし黒に塗ったとしたら、それはなんら番組は関係ない、とだけ言えそうだ。
ディスプレイ
喫茶店にある、コーヒーのディスプレイが気になる。
コーヒー豆を入れていることはないだろうか。
確かに、液体を表現した素材がぴかぴか。
それのほこりがかむっているのを見ると、忍びない気もしてくる。
しかしだからと言って、コーヒーの原料そのままをどっさりカップに入れることはないと思う。
伝えたいことはわかる。
「コーヒー」だ。
この店はコーヒーを出す能力のある店です、だ。
「豆、挽いてます」だ。
これは僕だけかもしれないが、おいしいんであれば、インスタントだろうが消化不良の産物であろうがビーカーで作ろうが、コーヒーはそれでいい。
豆どうこうが直接、入店意欲をそそるわけではないのである。
そういうお客さんが多いと考えたとき、豆ディスプレイは対象に「ああ、豆」と思わせるくらいしか効果がないと言えるわけだ。
もし豆がとにかく重要なお客さんをターゲットとしているのであれば、そんなお客さんは「ディスプレイに豆をなみなみ置くな、もったいない」と起こるのであり、やっぱり豆ディスプレイはどうか、という感じに。
「これがコーヒーの原料です」だ。
それはたいがいの人はわかっているような気がする。
しかし、「本来お前は、この豆を得るために農場を作り、汗をふきつつ収穫しなくてはいけない。その豆だ」ということまで伝えたいというのなら、なんとなくプランテーションという言葉を思い出すだろう。
このへんから、たぶん伝えたくないこと。
「この店に入ると、まずはカップに入ったコーヒー豆が運ばれてくる」
「そこで客の判定をもらい、承諾されればその豆を挽いてコーヒーをいれる」
ディスプレイは嘘をついていた訳でなく、実際にそういうシステムの店なのかもしれない。
「勝手にコーヒー豆が湧くカップ」
喫茶店垂涎の聖杯。
「現在の生活に不満を持つ奥さんが夜中にこっそり仕込む」
特に、旦那が自分の話をちゃんと聞いていないことに不満を持っている奥さんが「カップに何も入れないなんて」と些細なことに執着、夜な夜な入れてしまうのである。
つまりだんなとしては、ちょうど聖杯を手に入れた気分。
・・・
まあ、せっかくのコーヒーなんだから、香りが漂ってきさえすればディスプレイに頼ることはないような気もするのだが。
眠れぬ夜は誰のせい
消化不良を起こしているのか、気持ち悪くて眠れない。
僕は少々にんにくが苦手なのだが、吐息からやたら、その臭いがする。
なむさんはかられた、という気分。
夜眠れないというのは、そのまま次の夜まで継続されるというのなら、それほど問題ではないのだが、たいがいは日中にその余波が来ることになっている。
今日の日中は眠たいこと確実なようなので、何かイベントでも用意しようかと思い立った。
10:00?
目覚めよ、からだの儀式
11:00?
トイレ探訪
12:00?
ラ・ンチ
13:00?
ウルトラ全開パワー
14:00?
キッチン用具で野球をやってみよう!!
15:00?
野球賭博じゃなくて、野球をやればよかったのに
16:00?
至4時の報告
17:00?
トイレ探訪
18:00?
夕焼け
19:00?
デ・ナー
20:00?
最長ためいきに挑戦
21:00?
おうちに かえれるかな?
寝てた方がましとの意見も。
アドリブ
本日のディスカッション
「アドリブについて」
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中略
?お笑いを芸術にしようとしたやつは誰だ?
========
「アドリブに強い人と、弱い人っていますよね」
「確かに」
「アドリブに強い人は、逆に台本あったり、道筋がひらめいちゃったら、逆にぎくしゃくする感じらしいよ」
「アドリブ・ヒトラー」
「この話題ふったあげくにそんなこというんじゃ、なんだか2重にだめですね」
「ダブルパンチですね」
「・・・」
「ほら、例えばお前すわってるいす。その背もたれに何をセットしていたら面白いと思う?」
「ああ、確かにこういうのもアドリブと言えますかね」
「八宝菜」
「ホヤ」
「足で踏むタイプのつぼ押し」
「アポジモータ」
「程よく水切りしたい豆腐」
「ただ俺、思うんだけど、アドリブを「要求するって形で表現するとき」には、もっと広く、自由でなくちゃいけないんじゃないかな」
「制限は最小限にするんだ」
「というと?」
「いすが制限だとしたら、さっきの背もたれの件は、アドリブをたしなむ上でちょっと過多な制限なんだよ」
「けどそうなると、さっきのお題はどうなっちゃうんです?」
「うーん。例えば、いす自体を使って面白いことをする、とかかな」
「バランス芸しか思いつかないですね」
「しかも面白いというよりは感心ですかね」
「新しい形のいすを自由にデザインしてみる」
「なんか課題じみてますね」
「きゆづきさとこの漫画でありそうですね」
「難しいな」
「こういうのはどうでしょう」
「うん?」
「いす!! あはははははははははははははははは!!」
「お、なんか自由だ」
「なんか、いすを見てすぐに思いついたことがあって、それをかなりシンプルに表現している感じですね」
「説明ありがとう」
「いす!! いーすいすいすいす!! いーすいすいすいす!!」
「さも何かが鳴いているかのように、いすだ」
「なんかアドリブと違う気もしますが」
「そりゃお前、さっき言った「アドリブを要求」の前提が、ちょっとへんだからだよ」
「今日はいすばかりになってしまいましたが」
「まあいす、たくさんあるしな」
「でもアドリブって、そう意識した時点でなかなかその場では再生しないですね」
「まあそうだな。じゃあ帰るか。でも、寄り道しよう」
「どこですか?」
「学校の前の民家だ」
「ああ、木のたくさん植わっている」
「あそこのおじいさん、朝に打ち水するよな」
「ええ」
「外に置いてあるバケツの水を、塗料に入れ替えておく」
「はい」
「それだけで次の日、アートができるって寸法さ」
「それもアドリブとは違うんじゃないですかね」
わきまえる血族
血液型で性格はたまた運勢というのは、なかなか面白い。
しかし、特に日本人はこれをいろいろ気にしすぎ、と指摘する話は多い。
「私、えりなです。うお座のB型です☆」
さすがに初対面、あるいはすれ違いざまにこう切り出されることは、まあないだろう。
せいぜい献血のときか、救急車内である。
=====
「出血がひどいな」
「あんた意識まだあるか」
「おい輸血の準備!!」
「私、えりなです。うお・・・座の・・・Bが・・・」
=====
老婆心が出てしまった。
ただこの台詞が意図的だとすれば、彼女はかなりデキる子である。
話がずれた。
「私、えりなです。うお座のB型です☆」
とはいえこのような言葉は、全く聞かないという感じでもなく、そして3番目である。
プロフィールのランキング3番目が血液型なのである。2位の星座もかなりふわふわしているが。
もっと3番目にふさわしいプロフィールは、人にはないのだろうか。
「私、えりなです。うお座で、一番好きな四則演算は÷です☆」
どうかという意見もあるだろうが、僕は血液型などよりも「ひととなり」が明確にされている印象を受ける。
「お、こいつみんなと仲良くなろうとしているんだな」というのも感じる。
そして展開がある。
血液型でも「俺はAでさー」などの派生ができるが、四則演算でも、いける。
「俺は×(かける)が好きだよ!」
経験則からしても、相性がいいに違いない。
「私、えりなです。うお座で、毎日30分の仮眠を取ることが健康の秘訣です☆」
健康は大切であるため、こういった切り出し方もあるかもしれない。
毎日30分行っていることと言えば、プロフィール3位であってもよさそうだ。
そしてやはり「お、こいつみんなと仲良くなろうとしているんだな」というのも感じる。
しかしどうして「それを聞かされても・・・」という気になる。
それは血液型だって、そうだったはずなのだが。
さてここまでくると、血液型が担っていたもうひとつの意味を知ることができそうだ。
ひととなりを明らかにしたくないということ。
それは、あたりさわりないことでして。
つまり礼儀ってやつだ。
家に通ずる
帰り道、自宅前の坂をかけ流れて川の方に向かうのが好きだ。
へばっているからさっさと家に帰ればいいのだが、その坂はなかなか長いので、自転車でつっきると気持ちいいから。
その誘惑に負けたとき、僕は夜な夜な、下った先の田んぼの真ん中で深呼吸することになる。
ひどく弱った外灯があって、なかなかにいい感じだ。
と、ここに来るとまず注意したいものが「なんだかエンジンをかけたまま停車している車」だ。
なんか怖い。
何が怖いかって、本来車は走っているもので、そのためにエンジンがかかっているものだから。
よくわからん田んぼのそばで胎動しているその車は、停車しているにもかかわらず、僕の考えを超越しまくっている。
そうそれはシティコネクションのように。
圧倒的に効果的な空白のあとで恐縮だが、注意したいものがもうひとつある。
ある民家なのだが、そこの新聞受け兼塀の灯りに、無数のあまがえるが集まっているのである。
これが楽しくてしょうがない。
田んぼに来る度に、この家の玄関前に寄ってしまう。
そしてあまがえるを見つける。
「おっ今日もあまがえる」
かえるの集まる家ってのは、なんだか縁起が良さそうな気がする。
何かは全然わからないが。