ひどく退屈な一週間 2日目

光が速度というものを持つということが分かってからそう遠くないとき、見えているものは全て少しだけ過去のものだということに気づいただろう。
誰か、あたまのいい人が。
そんな話をはじめて聞いたときや、見上げた夜空の星々のいくらかは既になくなっているだろうことを考えるとき、どうにもしんみりムードが出てしまうのは仕方のないことなのだろうか。
過去の遺産。
終の感触。
エピキュロスとかいうグッと来る名前の人が昔「生きている間に死は存在しない」みたいなことをグラス片手に言ったらしいが、この言葉だけをそのまま考えるなら、先ほどの「終の感触」というのはそれに反する。
過去だけを見る、感じることしかできないことで「だから自分が生命最前線だ!!」と感じることもできそうだが、それは同時に、いやおうもなくいずれは自分も過去モノ(例:ジュリアナリアン(勝手に命名))になると思い知らされことであるわけだから。
今ちょうど、クロノトリガーの曲が流れてきた。
以前書いたかもしれないが、昔クロノトリガーというゲームがあって、すごく面白かった。
曲も好きで、僕はCDを買っていたのだ。
それにしてもだいぶ古いゲームだ。
10年どころじゃないだろう。
しかしこれ、ハードを変えつつプレイステーションとDSでも出ている。
そしてそれを全て僕は持ってしまっているのだ。
内容は正直、どれも当時のものとあまり変わりなかったと思う。
気になるのは、「なんで前にやったやつを買っちゃったかなー」だ。
ゲームだけではない。
本もずいぶん前に読んだが、なんか最近また買っちゃったとか、へたすると4巻が2冊ある。
そんなことになっている。
正直4巻のくだりは単に買っていたことを忘れていただけだが、まあそんな回帰なことが多い。
「覚えていないわけではないが、あれをもう一度」。
どうにも過去モノに自分がなりはじめている気が、しないわけにはいかない事柄じゃあないですか。
昔やったから、まあ今度はやらんでもいいか。
DSのクロノトリガーを買うときにそう思わなかったのは、既に僕が「つよくてニューゲーム」のぬるま湯に侵され過ぎていたからで、どうも光が速度を持つせいだけというわけではなさそうなんである。

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