生きた心地

「生きた心地がしない」という言葉があるが、じゃあそのときまでは「生きた心地」がしていたのかというと、それはやたら日常生活上の根源的な問題なような気がして、困ってしまう。
例えば部屋にスズメバチが入ってきたが、どこに行ったかがわからなくなってしまった。
そんな時、部屋にいるときが「生きた心地がしない」ときであると考えて、全く差し支えない。
全く差し支えなくない人は、スズメバチが好きか、怪人ハチ女かなにかである。
さて、じゃあスズメバチが侵入していなかった頃のことを考えてみると、どうだろう。
「生きた心地」がしていたときはあっただろうか。
パン生地が醗酵してふくらんでいくのを、ちゃんと見ていただろうか。
床の日があたる部分とあたらない部分の温度差を体で感じていただろうか。
1分間息を止めたあとで、大きく深呼吸しただろうか。
3日ぶりの風呂に入っただろうか。
※以上3点、「生きた心地」がしそうなこと上位意見(7942脳内調べ)
おそらく多くの人は、「スズメバチが侵入」した直前まで、寝転がりつつ片手にホワイトロリータ、片手に紅茶。
何作目かのインディ・ジョーンズを見ていただろう。
もちろんインディ・ジョーンズが「生きた心地がする」ことと相対するものであると言いたいわけではない。
インディ・ジョーンズの汗臭そうなシャツ着たい!!と思っている人も多そうだ。
しかしそんな人でも、そのとき「生きた心地」をちゃんと感じていたかどうかというと、ちょっとむずかしいところだ。
何も考えず、だらりとし、一息つくといった面持ちだろうから。
同様にパン生地も深呼吸も、だ。
となると、そもそも「生きた心地」というものがちゃんとあるのかどうかすら、あやしいものである。
しかし「生きた心地がしない」という言葉がある以上、どうやらそれはあるらしい。
そしてそれが失われたとき、忽然とその存在があらわになるっぽい。
どうも「生きた心地」というのは、どうもそれが損なわれたときにしか、人間は感知できないものらしいのである。

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