「串」という漢字が、かわいそうだ。
あまりに「くしに具ささってます、から生まれました」が出すぎているからだ。
例えば「心」という漢字。
この誕生も、「串」と同様の流れでできたはず。
そのものの形状から生まれた漢字ではなかったか。
心臓。
生あるときは脈打ち、その鼓動が途絶えたとき死を迎えることを知った古代の人々が、心臓にバリバリ興味を持つのは仕方のないことだ。
それを観察しまくったに違いない。
そして、それはどこも同じで、この心臓の形を由来とし、「心」としての漢字が誕生したわけだろうが、ここで「心臓」の形状と「心」のそれを見比べてみると、それほどお互いが似ている、という感じはしない。
「心臓」と「心」。
「心臓」の形状から簡略的な象形文字が誕生。
その後、いくらかの変遷を経て、現在「心」に至る。
要は、「心」という漢字が洗練されるのには、年月がかかってる気がする。
その点、「串」ときたらどうだ。
実際に誕生が最近だったりするのかもしれないが、その形はあんまりじゃないか。
なんだ、この漢字が生まれたときはもう、ねぎまとかちくわぶがあったのだろうか。
確かに「くしにものが刺さったもの」がどう描写されるかといえば、ほぼ「串」の形だろう。
だからといって、あまりにそのまま。
しかも、どうしたことか。
くしにささっている「具」に、大小が表現されている。
なぜ大小が表現されているんだ。
この漢字が誕生したとき、大きい田楽と小さい田楽があったのだろうか。
その細部を表現する必要があったのだろうか。
父親はちゃんと大きい方の田楽を子供に与えたであろうか。
子供は遠慮する母親を気遣い、大きい方の田楽を食べなかったであろうか。
何か、すごくよく飛ぶように設計された竹とんぼみたいな形だが、そのせいで親子が田楽を味わえなかったということはないだろうか。
あーもう。
それほど気にならないな串!!。
おわりだ、おわり。
ということで今回、ひとつ言えることがあるとするならば、「串」の具は、うなぎではないな、ということだ。

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