パンダの親指の話を知っているか。
詳細なことは全然分からんが、パンダには、物を掴むとか、ちょうど人間の親指のような使い方をしている指があるが、実はそれは親指ではないんだ。
親指はちゃんとあるが、それはパンダの手の構造上、物を掴むことが難しい。
そこでパンダは親指に相当するものを進化の過程で生み出した、ということらしいんだ。
いや、どこまで本当か、進化を考える上でどれほど重要なのか。
それはわからないよ。
でも、僕が気になるのは「掴むことを我慢しようとしたヤツはいなかったのか」ということなんだ。
いたはずなんだよ。
葉をしごき取るために笹をなでていたヤツと、葉を取るのを我慢したヤツ。
でも、現在は一方だけ。
さっき言ったとおりだ。
え、何が言いたいかって。
考えてみろよ。パンダの親指について、我慢したヤツはいたに違いないけど、そいつは今はいない。
それが何故かは、重要じゃない。
重要なのは「我慢の跡は見かけ上、無くなる」ということだ。
葉を取るのを我慢したヤツはいたのに。
その痕跡も、そいつについても、今ではもう何も無い。
我慢というのは、最終的には何もありませんでした、ということになってしまうんだ。
な、我慢ってのは、そういうもんだ。
「ということで若菜、我慢なんてものはな」
「なぐさめてるつもり!?」
箸入れが、私の頬をかすめて飛んでいく。
妻にはちゃんとした親指があるようだ。