教育

スリッパホルダーからスリッパを手に取る。
そのスリッパを床にほうる。
片方がひっくり返ってしまった。
もう片方を履き、そのついでにひっくり返った方を小突く。
ひっくり返ったままだ。
少し強めに小突く。
ひっくり返ったままだ。
足先を引っ掛けて、元に戻そうとする。
スリッパは1mくらい先に行ってしまって、やはりひっくり返ったまま。
こつんと、蹴る。
ひっくり返ったまま。
さらに、蹴る。
まだひっくり返ったまま。
そうして、僕は廊下の終点まで来てしまった。
結局、スリッパはひっくり返ったままだった。
かがんでスリッパを拾い上げ、上下を直して履く。
「・・・教育ってのは、むずかしいものだな。」

裏目ドリブン

運転手が、事件に関わりのある話をする。
主人公が、助手席からそれを注意深そうに聞く。
そんなシーンのあるサスペンスがありました。
でも、
窓の外を流れる風景は、普通乗用車の車高ではない。
助手席から運転席を見るシーンでは、その車を追い越していく、いくつもの乗用車が見える。
すごく、追い抜かれている。
これでは、視聴者としては事件の真相などよりも「あー、トラックの荷台とかに乗せた車での撮影だなー」ということが気になってしまい、事件は迷宮入りである。
「極力リアルな映像にしようと。よかれと思ってやったのに・・・。」
トラックの荷台での撮影をとがめているわけではない。
しかし、本来表ざたにはならないはずのそれが、より意識されてしまうことになった。
裏目に、出てしまった。
電車にて。
開いてる席の向かいの席に、ミニスカートの女性がいました。
なんとなくそこに座ることがはずかしいので、違う場所に移動することに。
結果、誰かに上着を思いっきり下に引っ張られてしまったんじゃないかと思わせるような服装の女性の後ろで、身動きできないことになりました。
やったね!!
いや。裏目に、出てしまった。
なぜ、裏目に出てしまうのか。
何か、物事を裏目にしてしまう何かが、裏で動いているのだろうか。
とここで、今の「やったね!!」ではないが、周りから「あー、裏目に出ちゃったね」と思われることに対して、当の本人の考えや意図は、全くそれとは別のものである、ということに気付かされる。
電車の僕にしろ、周囲は「あいつ、結局すごい背中の人の前に行っちゃったじゃないか」と思っていたとしても、その人たちには僕の考えを確定することはできない。
心の中でよだれを垂らしながら「やったぜ背中。露出。げへへ」となっていないとは、誰も言えないのだ。
冒頭のドラマスタッフだって、実は視聴者に「ぎりぎりトラック荷台の件を気付かせるような映像」を目指していたかもしれない。
監督「見ろ。撮影中で速度が遅いから、後続車にばんばん追い越されている感じに撮れてるぞ」
スタッフ「やりましたね」
そうなると、こちらの「あらあら、裏目ね」という感想が、彼らにとっては最高の賛辞ということになる。
となると、そんな簡単にスタッフを喜ばせたくはないため視聴者としては、気軽に「裏目だね」と言えないことになる。
裏目に、出てしまった。
発言をするときは、よーく考えるべきだ。
こういうときによーく考えて行動しないと、それは相手の思うつぼになりがち、ということであり、これからの人生、軽犯罪に巻き込まれる可能性が高い、とも言える。
ところで今回、電車の話以降はいらなかった。ちょっと短いから、無理に入れたのだが、面白くないね。
・・・、・・・・・・。

明るい未来

「明るい未来を切りひらく」という言い方がある。
会社のパンフレットなどにありそうだが、少々古臭い感じも。
これを「うまいこと言っているね」とみんなが思うためには、それぞれ1.5リンネくらいを、みんな経験しなくてはならないだろう。
※リンネ:
輪廻転生の単位。
1リンネ=まちまち。
さて、この言い方で、わからないことがある。
それは「切りひらくのは何か」ということだ。
不思議な言葉だ。
言いたいことは「明るい未来が訪れます」みたいなことだと思うが一方、それを切りひらきますと言っているのだ。
・何かを切りひらくと、明るい未来が手に入るのか。
・明るい未来を切りひらくと、何かが手に入るのか。
どっちのことを言っているのだ。
前者の場合、問題は「切りひらく対象」の正体である。
明るい未来が手に入るなら、かなり貴重なものでも切りひらいてよいだろう。
となると、関さばが正体である可能性が、濃厚だ。
やはり、切りひらくと言ったら、魚である。
また、関さばはなにやら貴重と聞いたことがあるし、同様に価値の高い本マグロなどだったら、切りひらくではなく、解体という言葉を使っていたはずだからだ。
「明るい未来を解体する」
うーん。関さばの方だね。
一方、後者の場合、問題点が2つある。
・何が手に入るのか。
・「明るい未来」を切りひらくには、どうしたらよいか。
何が手に入るかは、明言されていないため、なんともわからない。
例えば、会社のパンフでこの言い方が使用されていたとしたら「明るい未来を切りひらいたら、本社がありました」というのが、いいか。
しかし「明るい未来を切りひらいたら、うちの社長がいました」とまできたら、少々めんどくさい。
社長、出たがりすぎるじゃんと思う。
また、この問題については、見方を変えると「とりあえず切りひらくだけで、特に何も手に入りません」という解釈も可能ではある。
だが、こうなる。
「明るい未来を切りひらく」
「とりあえずそれは置いといて」
これでは、彼の明るさが逆に悲しすぎる。
ここでなんと、一つ目の問題が解決しないまま、もう一つに進むが、「明るい未来」を切りひらくというのも、なかなか珍奇である。
どうすればいいのか。
まず、触れるのか「明るい未来」。
これまたどうにもアプローチしにくい問題であるが、その分、色々試してみる価値があると言える。
南蛮漬けに使用する小あじに「明るい未来」を混ぜておく、というのはどうだろう。
※さっそく「明るい未来」が触れるかどうかが超重要になるが、少なくとも文章として表すことはできたので、勘弁してもらいたい。
小あじに「明るい未来」を混ぜておいた場合、知らないうちに以下のような順で切りひらきが行われるはずだ。
小あじ

小あじ

小あじ

明るい未来

小あじ
明るい未来を切りひらいたあなたは、こう思うはずだ。
「知らない間に、切りひらいていました」
方法なんてわからなくていい。
切りひらけたのだ。
素直に喜ぼう。
しかし、このような方法を行う場合、小あじではなく、いきなり明るい未来を手にする可能性も否定できない。
明るい未来

小あじ

小あじ

小あじ

小あじ
そのとき、明るい未来のことを意識してしまうと、思うように手が動かなくなるかもしれない。
極力、明るい未来のことは忘れたほうがいい。
・・・
結局なんら解決しないまま、終わってしまうことが特に残念ではないが、今回の身のない話で、以下の2つの捕らえ方、それぞれにメリットがあることがわかった。
・何かを切りひらくと、明るい未来が手に入るのか。
→関さばさえ手に入れば、明るい未来が手に入る。
・明るい未来を切りひらくと、何かが手に入るのか。
→いきなり明るい未来を手にする可能性がある。
一長一短だネ。

無弦乃奏器

今、思ったんですけど。
自動ドアって、ありますやん。
あれな、上のセンサーから光が出て、その光の反射具合の変化で人がきたかを判断して、開く仕掛けのヤツもあるらしいで。
そんな装置をずらりと横だか円状に並べて、変化したら音が出るようにすると、楽器になりそうじゃない?。
また、ある波長の送信装置と受信装置を対にして、やっぱり並べて。
遮って受信装置が波を受けられなかったら音が出る、とかも面白そうじゃない?。
弦のない弦楽器みたいで。
もうあるかも。
だけど「もうあるかもしれない楽器を探す」って、難しいし。
テルミンっぽいかもだけど、そんなこと言っても、困るし。
何が困るかって。
テルミンがどんなものか、いまいちわからないとこだし。

引き分け言い分 はらたつやつ

神「お互い考えた、腹立つやつを発表してもらいます。」
A
「オセロをしている。相手のターンですさまじく自分のコマがひっくり返されてしまうことが確定していて、それでも自分の番で取ったコマをひっくり返すとき。」
「これ、どうせすぐ変わるに決まってんだけど」とぼそぼそ言いながらコマをひっくり返すやつ。
B
「将棋をしている。ほぼ自分の勝利が決まっていて、ここで最後の一押しのとき。」
「その決定打となるコマをさすとき、そのさすべき場所より少し前に、音を立ててコマを叩き置く。」
そのあと、にやりとして、相手を見ながら、ゆっくりと盤上を滑らせて、所定の位置にコマを移動させてくるやつ。
神「お前ら何言ってんだかわかんね。even!!。」

卒業文集 8番

卒業文集
8番 楠田枝里子
大きな人になりたいのです。
この間、お母さんと買い物に行ったとき。
スーパーの大安売りコーナーで、人とお母さんを押しのけてまで並ぼうとしたとき、思ったのです。
「もっと余裕のある、こころの大きな人にならなくては、だめだ。」
大きな人になりたいのです。
少し前、急いでいるのにホッチキスの針がなかったとき、ホッチキスに怒ってしまいました。
そのとき、思ったのです。
「もっと余裕のある、こころの大きな人にならなくては、だめだ。」
これからは、そうしようと努力します。
フタの開いていない状態のティッシュに、ティッシュカバーがかけられていても、怒らないようにしようと思います。
忙しくても、木に風船がひっかかって泣いている子を見かけたら、風船を取ってあげようと思います。
ケースくんが、私の大切にしていたプラネットマンのキン消しをなくしてしまったことも、許そうと思います。
大きくなって、将来はみんなを楽しくさせる仕事につきたいです。
注:本文いかなるオブジェクトも、全てフィクションです☆

テーブル カンバス

その食べ方で、アイデンティティが存分に表現できる食べ物といったら、何だろう。
例えば、そうめんとスパゲッティを比較し、どちらが「多く表現できるか」を考えてみる。
<そうめん>
普通の
にゅうめん
てんぷらの衣に使用
ビーフン
<スパゲッティ>
ナポリタン
ボンゴレ
カルボナーラ
ミートソース
ぺペロンチーノ
etc・・・
思いつく限りを挙げたが、どうやらスパゲッティの方の種類が豊富そう。
単純なのだが、その種類が多ければ多いほど表現の幅が広い、と言えるかもしれない。
「俺、そうめんは、一口サイズにくるりとまとめられた状態を崩さないで食べるんだ。」
個性である。
「俺、ぺペロンチーノ食べるとき、一本ずつを油取り紙に通しながら食べるんだ。」
個性である。
そうめんや、ぺペロンチーノ部分を他の種類に変えることで、やる人がいるかはともかく、自由度はより高くなりそうだ。
ゆえに、種類が多いものが、アイデンティティの存分に表現できる食べ物になる。
「かに」の食べ方なんかも、色々できそうだ。
「かにの爪は、あとで遊ぶので、稼動部分を破損しないように食べます。」
個性である。
そのほかにも、
「まずは全ての身を取り出してから、それをほおばるようにして食べます。」
「身の細い、ワタリガニ系のものは、殻ごと噛みしだいて、その身をしゃぶります。」
「かにの手足は好きですが、本体は、びろびろがなんだかこわいので、手を出しません。」
「かにしゃぶって、何なんでしょう?」
という点でも、個性が表現できそうだ。
以上を踏まえると、アイデンティティを表現できる食べ物とは、こんな風にまとめられそうだ。
1.種類が多いもの
2.食べるのに過程が必要なもの
ということは、種類が多くて、食べるのに過程が必要なもの。
この2つの条件に当てはまる食べ物が、今回求めているものだ。
この点、一般的にかにと呼ばれているものは、遜色ない。
「俺、ケガニは正座しながら食べることにしてるんだ。」
「タバラガニだと思って食べてたのが、実はタラバガニだったの」
「え、うち、かにの身はストローで吸うよ?」
「僕の食べようとしたかに、タコがとろうとしたんだ。タコだけは許せねぇ」
「近畿地方では、ほとんどの子供がタカアシガニの足をしゃぶっています。ほのかに甘いのです」
「高峠町が毎年行う「スベスベマンジュウガニによる中毒撲滅キャンペーン」にはたくさんの人が訪れ、食べられずに余るスベスベマンジュウガニを用いたゲーム「くずしてがっぽりんちょ」でついにキャプテンブリーダーの獲得者が誕生するなど、大盛況となった」
「たてぶえにかにの身を仕込むというネタを、もう2つも確認しています」
個性の数は、かにの数。

障害物競争の今後

昨日からのつづき。
【概要】
?障害物競走のあけぼの?
原始的な障害物競走の誕生
?体系確立?
穴々越え越え競争の誕生と流行
?転機?
積極的障害競走の誕生
?近代における障害物競走?
積極的障害競走の敗退と障害物競走の誕生
*****
?現代の障害物競走?
障害することを人に依存するのではなく、モノで選手を障害しよう。
そうすれば、ずるは起きない。
「障害物競走」が現在に形に至るまで、障害物の試行錯誤の連続であったことは、よく知られたことである。
【成功のほう】
網くぐり
おたまに卓球の玉
でんぐり返し
跳び箱
etc・・・。
【錯誤のほう】
トラバサミ
開かない自動ドア
まきびし
暗室ゾーン
地面に引っ掛け棒が多数あり、うまく避けないと靴紐がほどける
貴金属を置いておく
焼けた灰
粉々になった蛍光灯
電話の受話器から水が吹き出る
一面にビー玉
一面に千羽鶴
キャプテン☆ドみの
踏み絵
ドアマンのいない回転ドア
こたつ
子供達が大切にしているぬいぐるみを踏まないと、進めない
地雷
もうそろそろひっくり返さないと焦げてしまうホットケーキ
放水
立てかけられていた5?6mの木材がばらばら倒れてくる
トリモチランチャー
このような変遷を経て、現在の障害物競走は完全なものに近づいている。
しかし、その進化はとまらない。
今後、以下のような障害が誕生すると見込まれている。
赤外線
イライラ棒
SASUKE風
ミッション・インポッシブル風
DOORS風
筋肉ミュージカル風
コース上にマインドシーカーを用意し、クリアしてもらう
というか、障害物競走自体をファミリートレーナー(古いほう)で済ます
PTA
このラインナップでは、障害物競走の発展が期待されるばかりである。
未来は明るい。

障害物競走の近代化

昨日からのつづき。
【概要】
?障害物競走のあけぼの?
原始的な障害物競走の誕生
?体系確立?
穴々越え越え競争の誕生と流行
?転機?
積極的障害競走の誕生
*****
?近代における障害物競走?
穴々越え越え競争選手ニギの発案した競技を聞いた委員たちは、あっと何かに気づいたような表情を一様に浮かべたという。
彼の案は単純だった。
「障害物たる穴を、より積極的に障害できる、人にかえる。」
さっそく、詳細な案が練られた。
障害人は選手を体で遮ってよいが、触れてはならない。
障害人は選手を追いかけてよい。
選手からは、障害人に触ってもよい。
など・・・。
人々は、穴々越え越え競争とはまったく違う、ダイナミックなこの「積極的障害競走」に熱狂した。
迫る障害人をいかにうまくさばくか。
追いかけてくる障害人たちを後ろに、ゴールへ駆け込んでくる選手は半英雄化された。
そして、その英雄は、ほとんどの場合がニギだったのである。
この流行に疑惑の暗雲が立ち込め始める。
「どうにも、ニギへの障害人がまじめにやっていないように見える。」
些細な投書だった。
しかし、調査をするまでもなく、問題点が浮上した。
ニギが障害人に賄賂を握らせていたのだ。
そして、その見返りとして
・自分(ニギ)に対する遮りをゆるくすること
・自分以外の選手への障害は、ばっちり行うこと。
・もしやり過ごされても、相手を追いかけていき、あわよくば追い抜くこと。
このような問題点が生じては、もはや「積極的障害競走」に競技としての面白さを求めることはできない。
二ギがその世界から追放されるとほぼ同時に、世界の人たちは「何かいい競争はないか」と探し始める。
「やはり、賄賂で動く障害がまずいのではないか。」
「モノなら、そんなことにはならないのではないか。」
現在見られる「障害物競走」の時代が始まろうとしている。
明日。
現代の障害物競走。
未来の障害物競走。

障害物競走のあゆみ

?障害物競走のあけぼの?
大昔、仕掛けたワナを突破して逃げる獲物を追うとき、破壊されたワナをやり過ごさなければならなかった。
そのワナの多くが落とし穴だったが、それを飛び越えるとき、思いのほか気持ちよかった。
そのため、狩人たちは狩猟の帰りにこぞってその穴を飛び越えた。
これがもっとも原始的な障害物競走の形と考えられている。
図:穴に向かって走っていく狩人と獲物を表した壁画
  ●-      |●| 
     -●      \●ぬ
  ●-        |||ぬ
?体系確立?
16世紀まで、原始的な障害物競走は存在したが「なんだか走って、穴を飛び越えて、面白い」だけの扱いであった。
しかし17世紀初頭、哲学者エトークは「一つの穴を飛び越えるだけでも面白いのだから、複数の穴を飛び越えると、もっと面白い。複数の穴を飛び越える競技が必要である」と提唱。
それを「穴々越え越え競走」と定義した。
それから19世紀末まで、複数の穴がコース上にあるタイプの障害物競走、「穴々越え越え競争」が大流行する。
?転機?
19世紀最大の穴々越え越え競争選手ニギは、ある日とんでもないミスをしでかした。
大会が近かったためか、テンションがあがってしまい、まだ穴を掘り途中なのに、スタートしてしまったのだ。
その結果、4つ目に当たる穴にて、掘っている人と対面してしまった。
掘っている人は驚き、どうにかコースをニギに明け渡そうとするが、ニギを避けようとすると、ニギもそちらへ避けようとする。
何度かそれを繰り返すうちに、ニギはやっとその人をやり過ごすことが出来た。
どちらにせよ、穴掘り途中でスタートしてしまう大失敗。
しかし、このときニギは、普段の穴々越え越え競走では得られない高揚感を得ていた。
「遮られたあと、走り抜けることができると、すげーいい。」
穴々越え越え競走から一歩、現在の障害物競走に近づいた形。
積極的障害競走の誕生である。
明日
?近代における障害物競走?