人に何かを薦めたとき、その瞬間に責任が生じるのが、僕はいやなのだ。
例えば僕が「あそこの大判焼きがうまい。」と誰かに言ったとする。
するともう、その大判焼きがまずい、ヘタすると普通の味であったとしても、僕は何かしら負わなければならないだろう。
それは
「あいつが言うことは信用できない」というレッテルか。
「あいつは舌がヘビみたくなっている」という無根の噂か。
「あいつは大判焼きを上下に開き、先にあんこだけをピックアップする」という事実か。
「あいつは大判焼きとチョコパイの区別ができていない」というミラクルか。
結局、もし絶大にその大判焼きがおいしかったとしても、もちろん他の例えだったとしても、それは他の人にはそうでもない、といったことは少なからずあるわけで、見返りを考えるとあまりモノを人に勧めるのもどうか、という気がしてくる。
それは、情報を提供した際の、信頼性を保障する責任。
一方、薦められた側の責任も、僕は負いたくない。
「ねぇ、あの本、面白かったでしょ?。」。
このとき、その本を読んでいなくても「あー、面白かったよ。」と言わねばならない。
しかし、相手はまだ何かを期待して君を見ている。
そうなると「あの、ビアガーデンの舞台で偶然出会う2人のシーンなんて、最高」とか、具体例を列挙する羽目にもなる。
それは、相手の好意を裏切らない責任。
両例えはアレだが、その根源にある責任はやたらまともだ。
だからむずい。
ということで、誰かにモノを薦めるとき、薦められるとき、相手が「人それぞれだよね」という考えを普遍的に持っているかどうかが、いつも気になるのだ。