目は口ほどに

ものを言う、っていうことわざがある。
これがよくあてはまるのは「犬猫」だろう。
まず、このことわざを数式で表すと、ものを言うことについては「目≧口」になり、犬猫は「口=0」だから、「目<0」にでもならない限り、必ず「目≧口」が成り立つ。
もう、このことわざの代名詞といっても過言ではない。
※ここでの0は、「ものを言うことがゼロ。あるいはものを言わない」ということになる。
今、「口≧口」が顔っぽいなと思ったが、それはさておき気になるのは「目<0」はどういったことなんだ、ということである。
申し訳ないのだが失礼を承知で言えば、視力が著しく低い場合や失明というものが浮かぶ。
だが、それは目の能力を視力としてとらえる場合で、一方でこのことわざは視力のことを言っているわけではない。
おそらく、形なのである。
目と、その周辺の様相、表情が「ものを言う」わけで、「目<0」は、「表情<ものを言わない」と言い換えられる。
さて、やっと「目<0」というものは、「ものを表現しようとしていない表情」で収まった、と考えるのはちと早い。
それでは「「表情=ものを言わない」であって、「表情<ものを言わない」ではない。
負の「ものを言う」は、日本語に直すとどうなるのか。
普通に考えると「ものを言ってもらう」になるか。
それは「ものを言ってもらいたそうな表情」ということで、それはいきなりありそうすぎる。
しかし再考してみると「それがもの言ってるじゃん」という気もし、もう全然わかんない。
「ものを言う」ことを出力と考えると、入力がそれにあたるか。
「ものを取り入れる表情」
「感化されやすい表情」
「師匠の講演を真剣に見つめるまなざし」
とりあえず、今回の内容はばかっぽい感じがいつもよりすごい。
疲れた。
ただ、メガネを普段かけている人の目が言っているのはわかりやすいから書いておく。
33だ。
33としか言っていない。
追記
このことわざって、「口よりも目の方がものを言う」ってわけでもないか。。。

だまし絵の悲劇

だまし絵は唐突である。
「はい。これまで、だまし絵の歴史についていろいろ考えてきました。それでは実際に見てみましょう」
このような、だまし絵にとって幸運な流れはなかなかお目にかかれない。
「この中に猫は何匹隠れているでしょうか」
いきなりこう来る。
それまで猫なんか探していなかったのに。
あるいはこう来る。
「この絵の人は若い女性に見えますか、それとも老婆に見えますか」
それまで中野のおいしいラーメン特集だったのに。
そして、だまし絵は沈黙である。
「よく見たら骸骨でした」
「よく見たら別の人物が描かれていました」
「よく見たらありえない交差をしていました」
だまし絵は絵だから動く能力に乏しく、いわば出落ちなところがある。
その瞬間から、結果が見えている状態なのだが、その結果は基本的に隠れている。
そしてその隠れた結果を探す。
この一連の流れは、かなり静かだ。
「どうだ?隠れていただろう!?」
だまし絵としてはそう言いたいのかもしれないが、そうであったとしてもこちらは「うん、そうだね」以上のものはなく、会話が成り立ちにくい。
「うっひゃあーだまされたー!!やったー!!」
だまし絵冥利に尽きるだろうこのようなセリフを吐く人を、僕は見たことがない。
最後に、だまし絵というものは「生まれが卑しい」。
もちろん、たまたま描いていた絵の中に、他の人の顔のように見える部分ができました。
ありえなくはないだろうが、大抵のだまし絵は、書かれているときから、もうだます気で書かれている。
生まれながらにしての詐欺師である。
なぜいきなりだまし絵のことを考えてしまったのかというと、「だまし絵の芸術的価値」が気になったからだ。
おそらく、芸術というものに、生まれの質は影響しないだろう。
僕はよく知らないが、だまし絵に属するような絵でも、芸術的価値が見いだされることも存分にあるだろう。
しかしだまし絵からしてみれば、そんな価値はその存在を否定されるようなものかもしれない。
「ここのタッチが素晴らしい、大胆だがそれでも緻密で、女性の若さゆえの危うさが表現できている。で、ここがだましているところで。」
これではだまし絵がかわいそう。
そんなこんなで、だまし絵には芸術的価値は似合わない。
だが、これなら少しは救われるかも。
「ここのタッチが素晴らしい、大胆だがそれでも緻密で、女性の若さゆえの危うさが表現できている。で、ここが老婆ゆえの危うさのところで。」