怒れる大躯

僕はあまり背が高くなく、手足のサイズも、それの平均をけっこう下回っていると思う。
※これは、話題が特に無いときにサザエさん関連と混ぜれば、まぁまぁ場が持つっぽいという、長所でもある。
特に足のサイズは、靴選びをやっかいなものにする。
僕が探してもらっていたサイズが在庫に無いことを申し訳なさそうに言った店員さんが最後に。
「お客さん、纏足ですか?」
なかなかあれは、双方(何かの)にとってイイもの(何かが)らしいが、残念ながらそんなことは幼少より行っておらず、そもそもそんなこと言われたことも無いので、色々すいませんでした。
今日の本題は「大きい人の挙動が、なんでも怒っているように見える」だ。
冒頭は、結局「小さい人から見て、大きい人の挙動が?」とつなげる予定だったのだが、それも必要ないだろう。
書いてたら、それほどに謎の確信を持ててきた。
まず、大きい人はなんだか不機嫌に見える。
なぜなんだ。
自分が周りより大きいから怒っているのか。
周りが自分ほど大きくないから怒っているのか。
特に怒っていないのか。
真意を問いただすことはできない。
怒ってるだろうから。
大きい人の手振りが、怒っているように見える。
結局、大きいから質量もある。破壊力もあるし。
彼がボディランゲージで何かを伝えようとでもしたならば、それはほぼ総合格闘技となっている。
そして、それで伝えられることは、コミュニケーションなどよりは、単位がkg/平方cmのものとかになる。
なによりも彼らが一番怒っているように見えるときは、座るときだ。
なぜなのか、どーん!!と座ることが多いように思う。
ちょっと、スローモーションに見えたりする。
彼が座る瞬間の、その彼のお尻と座席シートの空間は、あらゆる制限を受けないだろう。
その空間の次の状態は、確定なのである。
以上、なんらかの理由で大きい人は怒っている。
その体から、怒りが出ちゃってる。
そして、それが原因なのか。
僕は大きい人の優しい面を見たりすると、よりうれしくなってしまうのだった。

でか盛り

「大盛り」と「でか盛り」の差はなんだろう。
そう聞かれたら、大体は「大盛りの、さらに多いのがでか盛り」。
そんな答えになるんじゃないかな。
僕も半分はそう思うけど、一方ではこんなことを考える。
「日本の、でか盛りで料理を出す人の幾人かは、怒っている」ということ。
この考えは、僕の個人的な心象がだいぶ入っている。
それは「でか盛り」の「でか」は量とかではなく、あくまで大きさを表現した言葉なんじゃない?、というところに起因しています。
例えばコロッケ。
僕としては「コロッケの大盛りは、普通のコロッケが山盛りで出てくる」ことであり、「コロッケのでか盛りは、5倍サイズのコロッケが出てくる」がしっくりくる。
この考えでいくと、牛丼大盛りは「どんぶりに茶碗5杯分入れられたご飯の上に、大量の牛丼具がかけられているもの」であり、牛丼でか盛りは「5倍大きいご飯粒たちの上に、厚切りのすき焼き肉が乗っている」ような感じになります。
おそらく「5倍大きいご飯粒」は、作っていく過程にて、ほぼもちになるでしょう。
 
もちろん、上記の牛丼でか盛りは現実的ではなく、実際は「茶碗5杯分入れられたご飯の上に、大量の牛丼具?」となります。
しかし、コロッケの方はありえる話です。
そして、5倍サイズのコロッケを作っている人たちから見れば、「茶碗5杯分、大量の牛丼具?」の牛丼が「でか盛り」を名乗るのに、ちょっといい気はしないのではないでしょうか。
「なんだよ、俺らは大きさも考慮してんのに。量だけ増やして、「でか」言うなや。」
刑事にあこがれる巡査部長か、とツッコみたくなるに違いないのです(※)。
そして、この怒りは他の「でか盛り」シーンに対しても、同じでしょう。
「もっと、ニョッキの切る前みたいな麺を出せや。」
「ひき肉は、ちゃんとサイコロステーキなんだろうな?。」
その遺恨は、僕的には深いと思われます。
そう。
結局、「でか盛り」の「でか」をどうとらえるか、が重要。
日本語って、難しいものですね。
※刑事という階級はないらしいです。でも書きたかったので書いた。

できあがり

ひとたび飲み会に行ってみると、こういう人の出現を目の当たりにするだろう。
「できあがっている人」である。
「できあがっている人」は大抵他の人より、そのように評される。
自らを「はい、たった今、できあがりました」という人は、あまりいない。
そんな彼氏彼女がなんらかの事情を背景に、あたりを徘徊する。
さて、問題は「できあがっている」という点だ。
人は酔うと「できあがる」ものらしい。
ということは、人は酔っていないとき「できあがっていない」ということになり、その差を言い換えると「完全体に近い」と「完全に近くない、不完全体」の差、ということになるだろう。
どういうことなのだろうか。
例えば、先ほどの彼氏彼女のような人が酔っていないとき、「できあがっていない」からといって勉強、仕事ができなかったりするだろうか。
補助する人が3人くらいいても、逆上がりができないのだろうか。
テーブルの上のものを取ろうとするたびに醤油入れを倒し、カレーが袖に付いたりしてしまうのだろうか。
もういいと思うが、そんなことはない。
どうやら、酔う酔わないの話での「できあがる」は、そういうことではないのだ。
では、何が「できあがる」のだろうか。
少し考えたが、「いらない切手を貼っていって、モナリザを描く」ことはできあがらないな、ということだけ、分かった。
要は、何も考えなかった。
ただ、酔った彼らは、確かに「できあがっている」のである。
問われてみよう。
酔った人を連れた安住アナに「この人はできあがっていますか、それともできあがっていませんか」と。
本日挙げたような意図を考えないようにしても、おそらく全ての人が「できあがっています」と答えるのではないだろうか。
「ああ、この人はできあがっていますよ」と。
酔った人のことを知らなくても。
「この人はさらに一歩、完全体に、さらに一歩、近づいています」と。
言ってしまうだろう。
酔いの先にいつか訪れる完全体が何なのか、わからない。
ただ、今は2つ、確信していることがある。
ひとつは、その完全体が何なのかがわかれば、「できあがる」とは何か、が判明するだろうということ。
もうひとつは、酔った人が完全体になることができたとき、たぶん「まだできあがってないんじゃないの?」と言われるだろうということ。

攪拌棒

「上流家庭とそうでない家庭の差とは、カルピスを混ぜるときにマドラーを用いるか、箸を用いるか」である。
また、この後混ぜたヤツの先っぽを舐めるかどうか、もその差分判定で考慮される点である。
この判定方法に対し、一部の熱狂的なファンによる「ポッキーを忘れるな」という声が一度挙げられたが、その詳細が「一部=一人」であることが判明、一人が一度だけ言ったということで、何も言われなかったものとして現在に至る。
上記の例のほか、上流家庭判定方法について、かなり有名な「カルピスの濃度配分が家庭水準に比例する」の件もある。
カルピス原液は、家庭水準をはかる上で、格好の指標材料となるのである。

降雨量更新

昨日のブログを書くにあたり、ASKA「はじまりはいつも雨」を調べる必要がありました。
そのため、検索してみたのだが全然無い。
なぜかと考えてみると、検索ワードが「雨あがりはいつも雨」になっていた。
何か、エンドレス的な、天才バカボン的なものを感じた、雨の日。

まとめ役 2

昨日から。
【あらすじ】
サビに、一番言いたいことを入れるのだろう。
では、そこ以外が反旗翻しまくりの場合、そのサビはどれほど歌詞内をまとめられるのか。
◆今回の歌詞で言いたいこと
「愛は永遠じゃないけど、今は、ここにある!!」
========================
「永遠は いまここに」 歌詞:nimbus7942
<1番>
5月の雨は 6月のよりちょっと甘い
でも舐めるとき 皮膚の塩分により
それを感じられることは あまりに少ない
LOVEマシーン
でも けんだまの玉を 剣先に刺す快感を得るためには
玉を手で静止させることも いとわないのさ
(※)見えないかい ほらここにあるのに
愛は永遠じゃないけど 今 僕らの手の中に
<2番>
寒さにふるえる 孤独な伝説のつるぎ
早く抜いてと くどいくらいの懇願さ
僕が引き抜ける可能性は あまりに少ない
LOVEマシーン
でも まだ可能性のある あの無垢な頃に戻れるのならば
玉を手で回転させることも いとわないのさ
(※)繰り返し
<ラストサビ>
※繰り返し
========================
どうだろう。
サビは、どうにかこの曲、いや文章をまとめることができただろうか。
僕が見る限り、できていないし、そうしようとも思っていなさそうだし、それが一番賢いし、のような感じだ。
昨日、「サビ以外は間を持たせるくらいでいいから、ハミングでいいのでは」

「でも、さすがにハミングだけじゃマズイから、歌詞入れよう」
ということを書いた。
上記「ハミングじゃマズイ」という感じの懸念を今、一番感じているのは、本件を書いているときの僕である、ということは言うまでもなく。

まとめ役 1

多くの歌がなぜ、「1番、2番を歌った後、サビをもう一度繰り返す」形式なのか、気になったことが、全くない。
と、気になったことがないということで、本当に「一番、2番を歌った後、サビをもう一度繰り返す形式」が多いのか、判断しきれない点がある。
でも、まぁ多いだろう。
何か、定石というか、ルールみたいなものがあるのだろうか。
「最後にサビをもう一度繰り返すことで、あなたの曲をより印象付けましょう。」
それとも、人間の、音楽による部分のどこかに「1番、2番で終わりだと、なんとなく寂しい。」といったものがあるのだろうか。
わからん。
ただ、よく考えてみると「一番、2番を歌った後、サビをもう一度繰り返す形式」というのは、要は「ホップ、ステップ、ジャンプ」の形式だ。
当たり前だが、曲を作った人は「サビ」で一番伝えたいことを言っていることが多く、そしてそこが一番、自信があるはず。
それを要所に挿入することは、至極当然と言える。
逆に、それ以外のところは、間を埋める程度でよいのかもしれない。
例えば、「愛は永遠じゃないけど、今は、ここにある!!」みたいなことを伝えたかった。
となると、とりあえずそれ以外(サビ以外)の部分は、最初はハミングだろう。
でも、結局間を埋める程度の扱いなので、ヘタすると完成時もハミングだったりするのだ。
そして「ハミングじゃマズイね」となって、「雨の日、ずぶ濡れになりながらも君の部屋を目指した」。天気の話に。
天気は安全パイ過ぎるね、となって、「僕が今まで会った中でも」。生い立ちの話に。
もう少し何か入れないとね、となって、「もう手の届かない日々」。距離の話に。
お、歌詞っぽい。
・・・と、ちょっと。
最初の話とはかけ離れるが、「2番のあとのサビが、どれほどの、曲まとめ役となれるのか」が気になってきた。
明日、以上をまとめてみる。

そうさこれが僕らの弱点 2

きのうから。
【あらすじ】
学校で過ごした時代は、過去であるにもかかわらず、その存在は多くの人間にとってあまりに大きく、その後も影響を与え続ける。
そしてそれは、ある意味「弱点」と言える。
なんでこんなに影響が?。
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「10代という、人間という生物にとって、色々な意味で一番生産的な時期を、我々はそれ以外のことで費やしているのである。」
別にエロホームラン(?)をかっ飛ばすつもりはないが、まぁ、そういう意図も少なからず含有する上記のかっこ。
こんなことを書いた本をいくつか読んだことがあるし、扱いがやっかいそうな誰かが言っていたような気がする。
もちろん「われわれはその以外の?」あたりは、いわゆる学校生活を指していると思われる。
別に、ここで「じゃあ、明日から校門をくぐらないで、五反田駅の改札をくぐろう!!」とかいうことが言いたいわけじゃない。
単純である。
そんな生産的な時期と学校時代がかぶっているため、僕らに強い影響を与えるんだろう、弱点となってしまうのだろう、ということだけだ。
考えてみよう。
その、生産的な時期とやらに、考えの違う他人との集団活動やら、異性やら、刺激的な音楽やら、面白い実験やら、難解な数式やらが押し寄せるのである。
これは、今にも破裂しそうなデキモノに、消毒していない画鋲を何個もあてがうような、そんな感じ。
これでは、学校時代が人生において、比重が大きくなるのも無理はない。
それが、彼の上腕部に残るBCGの跡と同じように、末永く残るのだ。
ということで、学校時代が40歳から始まります、ということになったら、それは弱点になりえないだろう。
となると逆に、生産的な時期を生産的に過ごしました、それが代わりの弱点となるのだろうか。
生産的なことを弱点として残りの人生を送るのは、少し寂しい。
また、40歳からやっと学校生活を経験できる人生となると、50代で社会になじめないとか感じる、そんなことにもなるのだろうか。
モラトリアムなお年頃の50代が待つ人生を送る可能性を考えるのは、寂しい。

そうさこれが僕らの弱点

以前、「ルナティックドーン」というパソゲーがありまして、だいぶやりました。
これは、なにやらファンタジーな世界に自分の分身ともいうべき冒険者を作成。
そいつで配達やモンスター討伐をしてお金を稼ぎ、家を買ったり。
そして同ゲーム内に作成されているヤツと結婚して、子孫を作り、その繰り返しでずっと遊べたり。
かと思えば、泥棒や暗殺など、誰もが一度はあこがれ、辞書で赤く線を引くであろう悪行を重ねることもできる。
ある程度の目標(子孫繁栄、神になる、世界破滅など)があるが、それ以外は目立ったシナリオの無いゲームだ。
僕は思っていました。
このゲームの「学校モノ」が出たら、面白いんではないか、と。
今。
このルナティックドーンほどの自由度はないかもしれないが、そんな手のゲームはすでにたくさんあると思う。
そして僕は確信した。
僕らの弱点は学校時代なのだ、と。
属性とかの方がぴったりくるかもしれないが、あえて弱点。
そう、それは弱点だ。
例えば、寂しくなったとき、なんだか学校生活のことを思い出す。
ほら、弱点である。
もし、このとき魔法使いが現れて「特技をわしにくれたら、おぬしを学校時代に戻らせよう」と言ったら、100人中98人は、特技である「テレビに、正しくビデオ端子を接続する」を殴り捨て、快諾を示す両手挙げを行うのではないか。
※ちなみに1人は学校をサボりまくっており、もう1人は、特技が「手をかざすとバーコードが読める」である。
例えば、学園モノの小説などが目に留まると、少しどきどきする。
ほら、胸を刺されている。
もし、このとき魔法使いが現れて「メアドをわしに教えてくれたら、おぬしを学校時代に戻らせよう」と言ったら、100人中98人は、メアドを教えるのではないか。
※ちなみに1人は携帯電話が嫌いで持っておらず、もう1人は、やはり特技が「手をかざすとバーコードが読める」である。
僕らは、学校時代に戻ることができるというなら、再生録画能力をかなぐり捨て、迷惑メールどしゃぶり状態を耐える事ができる。
僕は、学校が終わると速攻で家に帰っていた人種だが、それでもそう思う。
それほどまでに「学校生活」は、人のこころに根付くものなのだ。
なんとなくつづく。

笑むのは誰だ

人に、無理に笑顔を作らせるのは、酷である。
UHA味覚糖「シゲキックス」のCMでダンスをする徳井氏を見れば、わかる。
人に、笑顔を作らせるのは、時として酷なものがあるからである。
UHA味覚糖「シゲキックス」のCMでの福田氏の扱いを見せれば、わかる。
と、これらが意図されたものならば。
やはり、僕はこのCMを楽しみすぎなのだ。