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最近気づいたことには、「少女A」がある。
「少女A」は確か中森明菜が歌っていたやつだが、そうではなく「名前を伏せる」という意味のほう。
「オバケのQ太郎」は、名前が伏せられて一部イニシャルになっている(伏せ名)ということに気づいたのだった。
名が伏せられているということは、どういうことなのだろうか。
Q太郎は余地なく難しそうなので、周りをまず考えたい。
ガールフレンドのU子さんは、おそらく本名は「うつ子」「うる子」とかだった。
昔っぽい感じだと「牛子」さんや「馬子」さんなどといった、農業やいい衣装を着ていそうな人もいそうだが、ここは「うつ子」さんだろう。
そしてこの「うつ子」さんは、この世に未練がありつつ悪いこともしていたため、オバケかつ「伏せ名」の状態なのである。
おそらく「Q太郎」に登場するオバケはみな、何かしらそうなのではないだろうか。
「うつ子」さんの場合、「廊下の電気つけっぱなし(未練)で、廊下の電気つけっぱなし(悪いこと)」くらいのことをしたのだろう。
P子ちゃんはもういいとして、O次郎。
Q太郎の弟で「バケラッタ」が有名だが、彼の本名は間違いなく「小次郎」であろう。
彼が「伏せ名」なのは例外的に、不思議なことに「一頭身」だからというのが、通説である。
X蔵。
Q太郎のお父さんである。
関数などで未知数を表すエックスであるとも捉えられそうだが、おそらく本名は「ぇん蔵」で、昔ではなかなか珍しい小文字始まりであった。
たぶん「ぇん蔵」は、給食のパンを机の中に隠したりした。
おZはQ太郎のお母さんで、本名っぽいものは「お斬、お尽、お絶、お損」と、かなりパンクな女性像が予想される。
かろうじて「おずん」はお笑いコンビを丁寧に言ってみた感じになり、そういう点では好感が持てる。
少なくとも「伏せ名」になった原因については、「おずん」以外の候補では思い当たるふしあり、といったところだろう。
そしてQ太郎。
本名は「ひとし」なのだが、改名以前は太郎だったため、「旧太郎≒Q太郎」になったのが真相である。
ひとしは、様々な人に対して、座る直前の椅子を引くいたずらをしたため、本名が伏せられている。
このように、Q太郎に登場するオバケたちは生前、罪を犯しかつ何かしら未練があるため、あの状況(オバケであり、伏せ名)なのだった。
そうなると「ドロンパ」。
伏せ名でなさそうなのでたぶん悪いことはしておらず、ただ未練があるからその辺をうろうろしているやつということになり、それはある意味「見たことあるが、名前が出てこないやつ」としては、相応な境遇であるといえる。

不快色と刹那

歩道の草むらにスズメガの幼虫がいた。
たくさんいた。
イネ科らしきその植物の葉が、ぴょーんと歩道にはみ出ていて、そこに「たいがい」いた。
僕は結構幼虫には詳しくて、しかし触れないのだが、一目で「スズメガの終齢幼虫だと思った。
スズメガの幼虫特有の「しっぽみたいなもの」が見えた。
そして大きい。
大人の人差し指くらい。
ほら、この表現だけで自分の手が気持ち悪く感じる。
もう、滅入るほどでかかった。
そして色。
黒と黄色の何とも言えない配色。
いわゆる「警戒色」だろう。
確かに「黒と黄色」のコンビネーションはリゲイン効果だけでなく、工事中を示す標識や立ち入り禁止テープ、踏切バーなどの「警告」を示すものとして知られている。
たぶんこれらは今日見たスズメガから拝借したものなのだろう。
それにしても歩道。
少し足を踏み外せば入ってしまう草むらにその配色の幼虫が、指くらいの幼虫がいるのである。
不快である。
何かの本で、ゴキブリは害虫であるという記載があった。
その理由は「不快」。
カメムシが果樹園にダメージを与える害虫であるように、イナゴが稲を食い荒らす害虫であるように、ゴキブリは不快な害虫である。
もちろん、ゴキブリが不潔な場所から出てきて、遅く帰ってくるお父さんの夕食にたかるとき、不快もさることながら有害な細菌を付着させるかも、という点で不快という理由以上の勲章を得た害虫に昇格できる。
しかしただ「不快」という理由で害虫というのもなあ、という気がしたのだ、その本を読んだときは。
しかし、あえて僕はスズメガの幼虫を「不快」と表現した。
スズメガの成虫、すなわち蛾なわけだが、これは実は、結構かわいい。
すずめの名を持っているくらい、大きいのだが、普通の蛾のようないやらしいぺらぺら感はなく、ぽっちゃり。
いきなり服に留まってきたりするとさすがにビビるが、遠目で見る分には「ふかふかしていてかわいい」のである。
しかし幼虫は「不快」。
それは、たくさんいたことでも配色でも大きさでもなく、 僕がなぜか「何かの拍子で靴の中に幼虫が飛び込んできたらどうしよう」とふと思ってしまったからだ。
一回思ってしまったらもうだめだった。
一体どんな「拍子」が発生すれば、スズメガの幼虫が靴の中に入るのか。
幼虫というものはそんなにアクティブじゃない。
その「拍子」、おそらく一生涯ない。
でも思ってしまった。
思ってしまったら、夕方の歩道を歩いているのが怖くなってしまった。
こうして僕は、スズメガの幼虫がついている手を羽に変え、歩くのが怖くなったので徒歩を捨て、空を飛ぶようになったのです。

次元別

以前は、寝る前に必ず何か本を読んでいたものだが、今はすとんと寝てしまう。
くやしい。
それでもがんばって寝る前に3DSをやっていたりすると、翌日ゲーム機を下敷きにしてしまったりしている。
そうして僕の3DSは、晴れてニンテンドー5DSになった。
確か、3Dにゆがみをプラスすると4Dになったはず。
そして4Dに人間性をプラスすると5Dになる。
自分の誕生日に花火を打ち上げる宗教家の人が言っていた。
間違いない。
5DSだ。
3DSの充電器が使えなくなったし。

ジーニスト

基本的に、何らかの賞を獲得しようと考えるなら、努力が必要である。
しかしその努力をしてはいけなさそうな賞があると言えば、ベストジーニスト賞ではないだろうか。
もちろん一番を目指してもいいはずなのだが、これはどうだろう。
「今までこの賞を取るためにがんばってきました。本当にありがとうございました」
受賞者喜びの挨拶なわけだが、どうしても「うそだぁー」と言わざるを得ない。
それはジーンズが似合うようにする努力が、少なくとも一般的には知られていないこと。
だから、そのものを目指すよりも、例えば運動をたくさんしていました。
その結果、たまたまベストジーニスト賞も取れていました。
そんなイメージが強いからだろう。
となると、何をやっていれば「たまたまベストジーニスト賞」が取れるのかが気になるが、そもそもこの「たまたま」の希少さがとんでもない。
僕が考えるに、以下はかなり「たまたまベストジーニスト賞を取れる何か」であると思う。
有名人
足の長い人
足の細い人
我慢強い人
健康的な人
ファッションデザイナー
天気予報士
お母さんのいる人
こうなると、ほとんどの人は「たまたまベストジーニスト賞を取れる何か」をやっているだろうが、そこから数人しか選ばれないのである。
取るためにがんばってはいけないが、取れたらすごい。
そういう賞なのである、「ベストジーニスト賞」。
ちなみに「お母さんのいる人」というのは、裁縫技術によってジーンズをかっこ良くボロくできる可能性があるからであり、それではなぜ自分でボロくすることを示さないのかというと、以下は「ベストジーニスト選考委員の下田さん」より。
下田
「ベストジーニストとして生きていくというとき、まずはじめにジーンズを痛めつけるというのでは」
もちろんうそであるが、下田の意見を汲み取るなら、夜中にお母さんがジーンズをこっそり切り刻むのがよく、そのときお母さんは「ベストジーニストアシスト賞」や「助ベストジーニスト賞」が得られるだろう。

むかであらわる

家の周辺は木々が多く、人に場所を説明するにはどこそこの建物、街道周辺どうこう言うよりは「近くに森あるから」が最も有力な情報になる。
そんな場所で、休日には謎の猛禽類がどこそこに巣を作ったなどとバードキャッチング達が歩道を塞ぐ。
我ながらバードキャッチングとは背の高い人たちだねと一言突っ込みつつも、緑には事欠かないここが気に入らなくもない。
ところがタイトルの通りである。
僕の田舎は九州の天草で、おばあちゃん家は後ろが山、前が海のような環境。
夜には勘弁してほしい来客が多い場所なのだが、回数は少ないとはいえ、ここもそう。
むかでが現れたのである。
それはトイレで、へとへとの状態で夜中に家に到着。
トイレに入ったらいた。
体長10cmくらいの立派な百足である。
僕は田舎で、むかでにこめかみを噛まれた事がある。
それは寝ている時、つーんと痛みが走る。
起きてみると、まくらにむかでが乗っかっていたのだ。
何かの文献によると、むかでは進行方向上にいる生物全てに対して、試しに噛んでみるとある。
それはないだろうと思いつつも、なんら敵意を持っていなかった僕のこめかみに対して噛んでみた彼を好きにはなれない。
トイレにいたやつも、ちょうど九州で見たやつのようだった。
彼はトイレの本棚を上がり詰め、さらに足場がないかとひょんひょん頭を振っている。
この、頭をひょんひょんする様は非常に気持ち悪い。
むかでがダニやごきぶりを食するという点での益虫だということを差し引いたとしても、むかでには「気持ち悪い」しか残らない。
とてもじゃないが触る事はできず、かといってほっとく事も、殺傷する事もできないわけで。
仕方なく彼が安住の地とした「プルートの人形」ともども虫かごに投入。
近くの森に逃がした。
ということで、僕の家の近くの森には、野生のプルートがいるはずである。

視覚依存

先日、タイタンの戦いとかいう映画がやっていたので見たのだが、その中で本当によかったと思うシーンがあった。
「クラーケンに目があって本当によかった」
物語は、その姿を見た者は誰でも石に変えてしまう怪物メドゥーサを退治。
その首を見せて、海の怪物クラーケンを倒そう!!という感じだった。
映画ではクラーケンの町襲い始めにメドゥーサの退治が間に合い、クラーケンは高野豆腐みたいになってしまった。
その展開もよかった。
町、襲われ始めですんだから。
しかしそれにしても、クラーケンに目があってよかった。
目がなければメドゥーサの首で石にすることはできなかっただろう。
となると、この時代で知られていたのは「クラーケンには目がある」ということだ。
結構詳細知られてたんだ、クラーケン。
それにしても、クラーケンに目がなかった場合のことを考えてみると、ちょっとメドゥーサの役不足が目についてきた。
要は「メドゥーサの臭いを嗅ぐと石になる」だとか「メドゥーサの歌謡を聞くと石になる」だとか。
そういう能力を、怪物なら持っていてほしいという点だ。
一番いいのは「メドゥーサに触ると石になる」で、これは敵対者が視覚、臭覚や聴覚に頼らない相手だったとしても効果がありそう。
一方で「メドゥーサで舌鼓を打つと石になる」は味覚なわけだが、これはあまり実用性はなさそう。
相手に口や味蕾に相当する器官がないといけない。
ただ、食べちゃうくらいまでしたなら、もう今のメドゥーサでもその能力あります、という可能性もある。
精力つきそうだし。
まあ、何がいいたいかというと、たぶん知覚過敏の人がメドゥーサで舌鼓を打つと、他の人よりもちょっと石になるのが早いんじゃないかということで、それは朝の6時に考える事じゃないってこと。

ポツダム

ドイツのポツダムで宣言したから「ポツダム宣言」。
このメソッドは、人に勇気を与える。
・別府島田屋ぬるぬる宣言
背景
たいがいのホテルの大浴場には桶が置かれているが、その裏は温泉の成分のせいなのか不潔なのか、ぬるぬるな事が多い。
ホテル側もぬるぬるにならないように注意してきたが、そのためには随時桶を交換する他なく、入浴時間を制限することになってしまう。
そのような現状を考慮し、全日本温泉教会が別府の老舗旅館島田屋にて「ぬるぬるなのは仕方がない」と宣言した。
・イトーヨーカドー宣言
背景
全国にはぱっとみ「イトーヨーカドーじゃない?」と思わせるハトのマークの看板がある。
しかしよくみると「ヨークベニマル」「ヨークマート」と、一応別のスーパーマーケットなのである。
この違いについて言及を求められ続けてきた伊藤さん(たぶん)がお気に入りのイトーヨーカドー食品売り場にて、ハトのマークの看板は全てイトーヨーカドーあるいはその仲間であると宣言した。
・国会議事堂宣言
背景
一応、たいがい。

車種の特定に至る経緯

僕は、マーガリンは食パンの全面にまんべんなく塗られている方がおいしいと思っているが、その人は「マーガリンはまばらな方がいい」と言った。
そのようにしてみると、確かにマーガリンがあるところとないところが不規則に口に入ってきて、飽きない気がする。
むしろおいしい。
こうして僕は、マーガリンをまんべんなく塗るおいしさとまばらに塗るおいしさ。
両方を楽しめる人間になった。
今朝は昨日降っていた雪がすこし残っていて、水浸しだ。
かすかに残った轍の残りが、ちょうどまばらに塗ったマーガリンのようだった。
本気の轍は危険だが、水を含んでいるものはやわらかい。
僕は、この水を含んだ轍の残りを強く踏むのが好きで、そうすると雪がはじける。
このとき、轍は地面の全面にまんべんなくあった方がいい。
踏むとおもしろい箇所がたくさんできるからだ。
しかしその人は「轍はまばらな方がいい」と言った。
追跡しやすいからだそうだ。

口頭に向くやつ「印象派」

昨日からのつづき。
【概要】
***口頭に向くやつのあけぼの***
大昔、人々はしゃべることで人をおもしろがらせる、いわゆる「口頭に向くやつ」を手に入れるどうこう以前に、そもそもしゃべることが出来なかった。
***初歩的な口頭に向いてるやつの発祥***
哲学者が大声で「おつかれさまでーす」と言ってみたところ、くたびれた格好のくせに何言ってんだ、と受けた。
***初歩的な口頭に向いてるやつ「写実主義」***
それのあるがままを言葉にすることによって、おもしろくする。
もしくはおもしろくなった体でやり過ごす。
***口頭に向くやつ「落差」***
「かすみうまっ!!」
うまくないと思われる霞をうまいと表現する。
その落差を、磁器を愛でるかのように楽しむ。
*****
***口頭に向くやつ「印象派」***
「口頭に向くやつ 写実主義」があまりに流行りすぎていたせいだろうか。
「口頭に向くやつ 落差」が発祥した当時は、その面白さが指摘されるなか「何言ってんのかよくわかりません」という声も多かった。
しかし、「口頭に向くやつ 落差」が受け入れられることによって、むしろその「何言ってんのかよくわかりません」を目指していこう。
そして「口頭に向くやつ 落差」とは別の方向を目指そうとしたものが「口頭に向くやつ 印象派」である。
その経歴上、口頭に向くやつ 印象派」をまとめると「何言ってんのかよくわかりません」であり、芸術のそれよりも抽象的な意味合いが強い。
ポステル
「アジャパー」
何の意味もない。
意味がない、ということすらないというその風貌に、18世紀に生きる人々は畏怖の念を抱いたという。
意味を見いだそうにもその糸口が見つからない。
そんな言葉を考案するのに、ポステルはずいぶん苦労したと自伝「しょっちゅう見舞い申し上げます」で記している。
※ちなみに「アジャパー」考案者ポステルは伴淳三郎の前前世なので、安心である。
ーーーーー
新しい「口頭に向くやつ」を考えるのは大変だった。
朝起きたとき、なんとなく思いついたものを加工してみる。
「アージャパ」
なんか違う。
「アジャーパ」
なんか違う。
「アジーャパ」
発音しづらい。
ーーーーー
「落差」登場からそれほどたっていないころに「印象派」は生まれた。
何はともあれ「意味がわからない」ことが信条であるから、人々にとっては「落差」に比べてとっつきにくい。
しかし、一旦人々に受け入れられさえすれば、「印象派」の口頭に向くやつは新しい言葉の確立すら実現させてしまうものであった。
このように、「口頭に向くやつ」は「写実主義」「落差」「印象派」と遷移、派生してきた。
では今後、どのような発展をしていくのだろうか。
次回
口頭に向くやつの今後