益城町

うそ旅のスタンスについて
「益城町前」
熊本県益城町に野生のくまモンがいると聞いてやってきた。
この町は外来種のピグモンが田畑を荒らすということでも有名だが、一方でくまモンとピグモンの生息地が重なっている、希有な場所でもあるのだ。
4文字であること。
「モン」と付くこと。
そして生息地が同じであること。
くまモンとピグモンについて何らかのことを知りたければ益城町である。
バス停はかなり立派で、ちょっとした家屋が隣接していて、そこには益城町の観光パンフレットが置いてある。
それをひとつ手にとってみると、どうだ。
やはり、くまモンのこととピグモンのことが多い。
「くまモンは生い茂った森の中をすごい速さで移動するが、その通り道は強烈な漂白剤の臭いがする」
「2リットルのワインと地中海の潮風に、わんぱくこぞうが加わった。それがピグモンである」
それも、知らない事ばかり。
大仰なバス停を出ても、あたりは民家、コンビニサイズのお店ばかりで、くまモンがすごい速さで移動できるような森が見当たらない。
漂白剤の臭いは、すると言えばするかも、と言ったところだ。
一方、ピグモンがよく落としていくという赤いかさかさしたものも落ちていない。
体がかゆいとき、木に体をこすりつけるはずなのだが、その木がない。
2つめの踏切を越えても、町並みは変わらない。
密集という言葉では足らないくらい、家々がおせちのように詰められている。
まるで、くまモンとピグモンが通れる隙間を許さないかのように。
急な坂を上りきると、初めて少し開けた場所があるな。
そう思ったらそこは、どうやら町役所の門前広場らしい。
玄関に置いてある、剥製か着ぐるみかのくまモンの横を通って町役所に入る。
何かくまモンとピグモンについて分からないだろうか。
玄関横にパンフレットがあるのを見つけた。
それはバス停のそれとは違った表紙の色をしている。
開いてみると、はらりと一枚、わら半紙が落ちてきた。
「お詫び パンフレット第一版のピグモンの写真は、全てガラモンでした。関係者ならびに町民の方にお詫び申し上げます」
いるんだ関係者。
続いて「ちなみにガラモンとは」とある。
「2リットルのワインと地中海の潮風に、わんぱくこぞうが加わった。それがガラモンである」
出生は変わらないんだ。
ま、どうせ、うそだって分かってるんだけど。

近所

うそ旅のスタンスについて
「近所前」
今ではもう整備されて公園のようになってしまったけど、実家のまわりがどんなだったかはよく覚えていた。
その頃は僕のうちの他には石川さんちくらいしか近くに家がなくて、その周りは林ともろこし畑ばかりだった。
坂途中には石川さんち横に抜ける道があって、そこを進むともろこし畑を眼下にした土手になる。
夕焼けどきはかなりきれいだった。
その土手を進むと大通りにつながり、そこには木目が本当の人間の目のような大木、向かいには店を閉めた駄菓子屋があって、そこには壊れてケースに穴があいたガチャガチャが放置されていた。
あきらんちもあった。
石川さんちの壁には、よくボールをぶつけて遊んだ。
そして猫がよく逃げたので、無断で侵入した。
亀が逃げた事もあった。
石川さんちの物置に入っていくヘビを見て母親が大声を出した事もあった。
石川さんちと林は抜け道を挟んでいて、林にはちょうど一台分の駐車スペースと、林の中へ進んでいく小道があった。
駐車スペースにはたいがい石川さんが車を止めていて、ぬかるみにタイヤの跡がいつもついていた。
林の中は朽ちた木がずいぶん細かくなって散乱していて、よくキノコが生えていた。
晴れの日にはほどよく日光が林床を照らした。
一度だけ、僕はこの林の中を「鳥の声を聞くためだけ」に入った事がある。
それ以外はカナブンをとるためだけだった。
林ともろこし畑は隣接していた。
もろこしは、上の方は細長くて薄い葉が多く生えている。
そこで遊ぶといつもどこか切り傷を作った。
でも、根元の方は茎みたいで葉がなく、くぐって進む分には問題なかった。
猫は逃げ出した時、よくもろこし畑に入った。
僕ら親子は、子供は小さい体を生かしてもろこし畑をくぐりまわり、猫を見つけたらもろこしを揺らした。
親は俯瞰的に揺れたもろこしを確認し、どのラインを攻めるかを的確に僕らに支持した。
もろこし畑は、もろこしを栽培していないときは灰色の土ばかりが盛られたつまらない場所だった。
でも、そこに牛フンが盛られると、そこに石を投げて遊べるアミューズメントパークに一変した。
今、僕は灰色の畑に入って、湯気の出ている牛フンを前に大きな石を抱えている。
これをフンの中に投げ込むと、ぼふんと鳴ってフンが飛び散るんだ。
でも、ごめんなさい。
これ、うそなんです。
僕は石を下ろした。

西町

うそ旅のスタンスについて
「西町前」
広島県三原市の西町には謎のスローガンをうたったモニュメントがあると聞いている。
それはバス停からさほど遠くない広場に立っていた。
「あなたが紅茶を飲む時、角砂糖は2個である事を私は知っている。西町」
結構長い文章で、モニュメントもかなり巨大に見える。
しかしこれは一体何を意味しているのだろう。
興味を持った僕は近くにいた、「第一村人」と書かれた名札を付けたおじいさんに聞いてみた。
あれってどういう意味なんですか。
おじいさんはずいぶんくだけた感じで話し始めた。
「あー、あれの意味?。うんと分かんないんだけども、それよりどこから来たの?」
「東京?。すっとあれ、スカイツリーとか見たの?。いやこっちにも高い建物はあるんだけれどもね」
「あれなの?。東京の町はいつも美人アナウンサーが歩いてるってのは本当なの?」
要は、こちらの質問にはなぜか答えてくれない。
しかし、仕方ないので切りよく立ち去ろうとすると、こうくる。
「あもう行くの、そう。でもね、あなたが紅茶を飲む時、角砂糖は2個である事を私は知っているからね」
えっ、何ですかと聞く間もなく、おじいさんは近くのおばあさんともう話し込んでいるものだから、その確認はできずじまい。
一体どういうことなんだろう。
西町は区画がカオスに整理されていて、バス停近くの近隣地図を見てみると、ひび割れた厚化粧を思わせるような不均一な図形が所狭しと描かれている。
現在地点を示す赤い点から右に向かって歩いていくと、どんどん道が狭まっていくようだ。
コンビニを目安に、そちらに向かって歩いていく。
その道の両側は民家が続いていて、その壁にはずいぶん多くのホーロー看板が付けられている。
どんどん細くなっていく道の周りにたくさんのホーロー看板があるのは奇妙に見える。
そして道は鋭角をもって行き止まりになった。
来た道を戻ろうと振り返ると、たくさんの由美かおると水原弘がこちらを見ている。
お前らが俺の紅茶の角砂糖の数なんて知っているものか。
どうせうそなんだろう?。
かおるが目を伏せてみせた。

クリーブランド

うそ旅のスタンスについて
「クリーブランド前」
バスから降りると、ニッチョン像の周りに咲いている花がまず目についた。
クリーブランドはオハイオ州最大の農業の町として、アメリカ全土にその名前を知られている。
ニッチョンはその立役者として、町の人に親しまれているのがよくわかる。
1924年、特産品であるホワイトアスパラがまれに見る不作。
そのとき代替品を産み出したのがニッチョンだった。
ニッチョンは普通の男の子だったが、左手がフォークだった。
そのフォークで畑を耕し、わらを運び、そろばんをはじき。
現在、彼が作り出したスナップエンドウはホワイトアスパラと肩を並べるほど、有名。
フォークがすり切れてスプーンのようになってしまっている像は、地元の人の誇りでもあるのだ。
ニッチョン像を横切り、大通りに沿って歩く。
それほど高い建物はないので空がよく見えるし、なんとなくのんびりした雰囲気だ。
そんなことを思っていると、その通りの袋小路に奇妙な三角形の池があることに気づいた。
その角のひとつは噴水が隣接していて、びちょびちょだ。
なるほど。
昼ののんびりした時間を池近くで過ごす人たちにとって、残りのふた角は座りやすい格好のポイントなのだろう。
角には老人が折り重なって座っている。
池の中でも、タニシが角に詰まっていた。
池の横に狭い道がある。
幾何学的な形をした石畳を進んでいくと、民家がいくつか集まっている場所に出た。
ほとんどが茶色をした家材、石で作られているため、その集落全体がひとつに風化物のように見える。
窓やポストがむしろ無理矢理押し込められたように見えて、奇妙だ。
おそらく夕方は、目も開けていられないほどの赤に、染まりそうな場所だ。
その家のひとつから、ナイル側上流に住む民族のおみやげのお面みたいなおばさんが出てきた。
見た目は怖いが、こちらに気づく事なく洗濯物を収納していく。
ふと、こちらに目をやるとにこり、こんなところまでよく来たねと笑いかけてくれる。
でも、ごめんなさい。
これ、うそなんです。
僕は石畳を引き返した。

うそ旅のスタンスについて

残念なことに、たいていの人にとって「旅に出たいわー」と思った時、旅には出られない状況である事が多い。
あとさきを考え過ぎ?。
いやいやそういうことではなく、根本的な解決にならないことを知っているからである。
と、ここまでは逃避の意味で使われる「旅」であって。
そんな意味ではない「旅」に出たいときだってままある。
僕はよく、前に行った場所にもう一度行きたいと考える事がある。
前に見たものがあるのかどうか、確認したくなるのだ。
しかし、やはり残念なことに、そんな「旅」であっても実現しない事が多い。
面倒くさいから、実行までたどり着かないのである。
「うそ旅」では、ある土地に行った気分になり、その状況をレポートすることを考えている。
センスのいい旅番組や旅情をふんだんに取り入れた小説エッセイは、その場所へ行った気分にさせるものである。
また、ある場所の名物や名所、歴史に触れるのは旅の楽しみのひとつである。
そんな感じを、うそ。
行っているらしい感じもうそであるし、レポートはすべてうそ。
うそでいってみようと思う。
うそだから、面倒くさくない。
いや、そうでもないか。
ただし、土地名以外はほぼ無知な場所について記載するつもりであるため、極めて低い確率で微妙に本当の事を書いてしまうかもしれない。
まあ、純度の高いうそというのはそういうものだよネ。
実際喋るときに、はたして「そういうものだよね」と「そういうものだよネ」は言い分けられるのだろうか。
そんなことを考えつつ、僕はうそ旅に出るため夜中の窓を開ける。