ヒユ プリミティブ

「まるでリニアモーターカーのようだ」
ごめん。
今思いつく最先端のものがリニアモーターカーだったのだが、このように「比喩」というものは例えたいそのもの、ではない何か別のニューフェースが必要だ。
この場合はリニアモーターカーで、おそらくこの人は「えっ、付き合ったり別れたりを繰り返してたけど、こないだ結婚したの!?」みたいな前置きがあったのだろう。
僕が最近気になるのが「原始人の比喩」のようなもので、大きくは「例え対象が人工物か自然物か」。
深く考えると「比喩の例え対象はどこまでシンプルになるのか」というものだ。
例えば、先ほどのリニアモーターカーを、その速さを鑑みての例え対象として使用するとき。
そのリニアモーターカーがなかった時代はどうだったのだろうか。
「まるで未来の列車、名付けてリニアモーターカーのようだ」
「まるで電車のようだ」
「まるで蒸気機関車のようだ」
先見の明ありすぎの例もある。
しかし一つ言えるのは、いつか人工物から自然物に代わる時代的、文明的タイミングがあるはずである。
それは時代をさかのぼればもちろん例え対象はより古くなり、複雑な道具がなければよりシンプルなものになるということ。
「まるで未来の列車、名付けて蒸気機関車のようだ」
「まるで飛脚のようだ」
「まるで未来の職業、飛脚のようだ」
「まるで矢のようだ」
「まるで馬のようだ」
比喩の歴史を追うと、よりシンプルな道具になったり、人工物でなく生き物になったりするに違いない。
となると次に気になるのが「比喩を使うとき、人工物、自然物どちらのほうがナイスか」という点だ。
次回へ。

柿と倫理

うちには柿の木があるのだが、今年もたんころりん発生やむなしの数、実がなっている。
熟して落ちては近隣にも迷惑、枝を落として実を回収、素人ながら干し柿にするのだが、その時思った。
「枝についたままの柿を干し柿にできないだろうか」
干し柿は枝から外して、変な紐につけて干すのが一般的で、うちでもそうしている。
ただ、それが面倒くさくなったから「枝についたまま」を考えたわけではなく、何か芸術作品のように見えるのではないか。
そう思ったのである。
枯れた枝に飴色の干し柿がついている感じである。
干し方によってはもっとみずみずしく見えるようにできるかもしれない。
それが、それっぽい「まな板皿」に供されていたら、あら魯山人。
魯山人じゃない。
さっそく調べてみると、こう説明されているサイトがあった。
「渋柿の皮をむいて干すと、表面に膜がはる。こうして酸素を通さなくすると渋みと結合する物質ができ、結果渋みを感じることがなくなる」
結構かいつまんだが、要は酸素を通さなくすればいいのである。
これはいい。
柿の木全体を食用油にひたせば、柿の木に干し柿が実っているという、桃源郷に生えていそうなやつができちゃうじゃん!。
味と倫理に問題ありそうだが。

ペガ

ペガサスなのか、ペガススなのか、それが問題だ。
調べてみると英語読みなのか、ラテン語読みなのかの違いらしく、これはもう言語間のゆらぎ。
仕方ない差異なのだろう。
でも気になるのがやはり「スス」のところで、なぜかこのせいで「ペガサス」の神話性が失われている気がするのだ。
そう、僕は断然「ペガサス」派で、ペガサスの話題になったときにわざと「ペガスス」と発音、相手が「ペガサス」派なのか「ペガスス」派なのかを見極めようとしたりする。
「ペガスス」派のやつを、俺は認めない。
ところで「ペガスス」と表現している「ラテン語」は生物の学名に使用されている事で有名である。
「ペガサスの学名がペガスス」と言えなくもないが、空想上の生物に学名が付けられるのか。
ペガサスの 飼料にレッド ブル混ぜる 狙うはトンボ みたいな天馬
全然分かんないので歌を詠んでおいた。

メス

やはり手術開始時の一声は「メス」であってほしい。
こないだやっていた医療系ドラマを見ていて、心底そう思った。
その端的な指示は「これから手術をやるぞ」という意気込みを感じる。
もちろん、本当の現場では開始時に「メス」を使わない手術だってあるだろう。
もう、素人には分からない謎の器具を使う事もあるだろう。
また、そもそもドラマの「メス」のシーン自体が実はあまり見られない、ドラマの演出なのかもしれない。
それでも「メス」と言うことは、もう我々の手術シーンから切り離せないものであることは間違いない。
さて、そのとき思ったのが「えっ、これが手術開始の第一声?」と思われてしまうものはないか、ということである。
例えば、昨日行った居酒屋の話をいきなりしだすとどうだ。
「これからXXX手術を行います。」
「で昨日さあ、居酒屋で出された刺身の醤油が薄くてさあ、塩っ気が足らないの」
「普通ある?塩っ気の足らない醤油」
局所麻酔でこの会話が聞こえた、クランケの心中はどうだろう。
・緊張しすぎず、リラックスして手術が行えている。
・ちょっとフランク過ぎやしないか、手術中に。
考えが、この2点を行ったり来たりすることだろう。
しかし僕がこの醤油のくだりはまだ救いがあると思う。
何の話だが分かるから。
僕はこっちの方が嫌だ。
「塩っ気が足らない」
手術開始直後に、ぽつりと医師が言うのである。
まだ開腹もしていないのに、何の話だ。
俺の血の話なのか、あるいは何かの隠語で、すごい事になっているのか。
もう心配で仕方ないのだが、いかんせん手術中なのでどうすることもできない。
生きた心地がしない。
でも、僕が一番嫌な手術開始時の一声は「汗」だ。

坊主の道

やはり、坊主が今何を一番恐れているかと言えば「屏風に絵を描く事」ではないだろうか。
ご存知の通り、「坊主が屏風に上手に絵を書く」早口言葉は認知度が非常に高い。
どのくらい認知度が高いかと言うとほら、お前も「ご存知」だったろう、げへへ。
いくらお前が「坊主が屏風に云々を知っている」ことを隠そうとしても、俺の前では無意味なのだ。
さて、なぜ坊主が屏風に絵を描く事に恐怖を感じるのかとなると、それは「もう絵、上手でもそうでなくても残念」な感じになってしまうからではないだろうか。
例えばこの「恐怖」について分かりやすいものとしては「あれ、坊主が屏風に絵を描いているのに、そんなに上手じゃない」と思われてしまう事が挙げられる。
あれ、あの早口言葉どおりじゃない。
もちろん早口言葉どおりでなくてよいのはかまわないのだが、何となく残念な気持ちになる。
残念感を感じさせてしまう事に、主に「そんなに上手じゃない絵」を書いた坊主は恐怖を感じるのである。
では、上手な絵を書く坊主であればどうかというと、また違う恐怖が生じる。
すなわち「あー坊主が上手に屏風に絵を描いてるよ」「やっぱりね」というやつ。
あーやっぱり上手に書いたかー。
そうだよねー。
もちろん早口言葉どおりでかまわないのだが、意外性のなさに残念な気持ちになる。
残念感を感じさせてしまう事に、「上手な絵」を書いた坊主は恐怖を感じるのである。
このように、今のところ、坊主が屏風に絵を描く事に救いはない。
そして、例えば屏風ではなくキャンバスに絵を描いたらどうなるか。
「えー屏風じゃないの?早口言葉と違くない?」
「えー西洋画なの?坊主と違くない?」
坊主の道は険しい。

扇風機

扇風機の目の前で「あー」という、例のやつがある。
あれを思い出してみると、どうも「あー」の細切れが扇風機の後ろから出ているような気がして、「あー」がかわいそうになってきた。
やはり、「あー」というのはひとつながりだから細切れにされてしまうわけで、「ああああああああああ」と扇風機の羽根にうまく当たらないように「あ」を連続して言えれば、それは扇風機の後ろからは「あ」がたくさん出てくるだけのことで、ある意味、にっこり笑った金太郎あめ。
「あー」の細切れは本来繋がった、切断するべきではなかった箇所だろうから、「ここでは切ってくれるな」と苦渋の表情の金太郎あめ、と言えるだろう。
ところで、「途中で表情の変わる金太郎あめ」というのはできるのだろうか。
以前、太巻きで途中からがらりと絵柄が変わるものを見た事がある。
あれと同じ手法を用いれば、可能な気がする。
金太郎

まさかり

くま
こんな変遷がいいだろうか。
でも、僕は以下の方が好きだ。
金太郎

くま

太巻き
もっぱら太巻きに収束したという、「力つきた」感じが好きだ。
ところで、そもそも金太郎は何をした人物なのか、知らない事に気付いた。
例えば桃太郎は、鬼退治をした。
金太郎は何か。
くまと相撲を取っていたはずだ。
まさかりを持っていたはずだ。
マタギか何かだったのだろうか。
それにしても、「マタギか何か」と、マタギと並べて言えるような「何か」はあるのだろうか。
疑問は尽きる事がなくて、大変よろしい。

二人三脚

なかなかな値段であることを除くと、ピザは素晴らしい食い物である。
そして、その素晴らしさが一番良く伝わるのが「ピザの広告」であることは想像に難くない。
あの、多くのピザが一堂に会した鮮やかさは何だろう。
うちの地域における選挙での、公営の掲示板との差は一体なんだ。
いや、そもそも比べていいのかは分からない。
それに公営掲示板の方も、部分部分には「エビマヨ」くらいのお腹いっぱい感を出す候補者がいるときもある。
しかし、ピザの広告ほどのパーフェクト感はない。
候補者ポスターの下部に「2000円」とか「ハーフ&ハーフ」などの文字もない。
こういった情報量等の点も含めると、ずいぶん公営掲示板の方は足らないものが多い。
この際、「ハーフ&ハーフ」の仕組みくらいは付加してもらいたい。
得意分野がある候補者2人を「ハーフ&ハーフ」制度を利用して採用し、それぞれの分野でがんばってもらうのである。
適当な流れだった割には案外面白いかも。
ただ、二人三脚というのは普通、それぞれが走るのよりも遅いんですよね。

なげだし

最近出たエルミナージュというゲームは、楽しいのだがやたら難しく、なんとなくやる気がなくなってしまった。
一方でドラゴンクエストモンスターズも楽しいが、目標だったスライムつむりを強くする、というのが自分の中では完了してしまったため、なんとなくふわふわしている。
以前書いた事があるのだが、僕はクリア直前のゲームをやめてしまう癖があって、それはゲームが終わってしまうもったいなさもあれば、ここまでやったんだからもういいか。
そんな気もあるかもしれない。
しかし奇妙な事に、エッセイや小説を読むときは、それを最後まで読まない、というのはまずない。
ちゃんと読む。
ゲームと小説にどのような違いがあるのかはわからない。
そう言えばゲームでも、格闘ゲームは違う。
ガイルという当ブログで2年に1回ほど話題になるキャラクタは、必殺技としてソニックブームというのを持っている。
これは、相手とは逆の方向に方向キーを押し、ある程度押し続けたら攻撃ボタンと同時に相手方向へ方向キーを傾ける事でソニックなブームが出力されるものである。
さきほど、クリア直前のゲームをやめてしまうとは言ったが、僕はこの「押し続け動作」を直前でやめたりはしない。
ちゃんと押し続けてからのソニックブームまで持っていく。
しかしこの例は、「クリア直前」という点で冒頭のゲームとは違うだろう。
ガイルはソニックブームを出力したらクリア、要は勝ちというわけではない。
というか、そもそも必殺ではない。
相手には、そよ風程度のダメージしかない。
となると、それでも僕が方向キーを押し続ける理由というのは余計によく分からなくなる。
読書でのくだりを取り上げるなら、それは「ソニックブームがちゃんと画面端まで届くか」を見届けたいがためになるのだが。

敗北の上清

誰しも、負けるとわかっている勝負をやりたくはないものである。
しかしそれがわかったとき、ただふてくされるだとか、投げやりになるだとか。
土下座で終始やり過ごすだとかは、ちょっともったいない。
そこから得られるものを模索するのはどうだろう。
もちろん敗北から得られるものだから、気分のいいものばかりではないだろう。
だから、その中でも重要なもの。
エッセンスを得られればいいのだ。
例えばテトリスの対戦で負けてしまったとする。
このとき、その敗北の原因として重要なのは「ブロックの素材が柔らかければ、あの隙間にねじ込めたのに」や「相手のテクニックがすごかった」。
「ブロックを落とす位置を間違えることが多かった」ではない。
「テトリスの対戦結果は、そうでもない」だ。
これが一番重要だ。
あるいは刑事ドラマで、綿密なアリバイをくずされ自供に追い込まれる加害者。
この敗北で得なければならないのは、「些細な計画上のミス」や「プランにないアクシデント」ではなく、「殺人、よくない」だ。
「殺人、よくない」。
今後、それを行う事ができないだろう加害者がそう汲み取ってくれれば、その敗北の上清はより純度の高いものになるだろう。

Aボタンの実行力

先日購入した「王様と魔王と7人の姫君たち」というゲームがおもしろい。
主人公の王様を動かし、そこらの人に話しかける。
するとその人を連れてまわせる。
人がごちゃごちゃしているのが楽しい。
ただし気になるところがあって、それはまさに、人に話しかけるとき。
話しかけるために◯ボタンを押すのだが、僕は複数押してしまう。
それは「ここなら話しかけられるかな?」という距離がちゃんとわかっていないため、移動しながら◯ボタンをぽちぽち押すことでスムーズに話しかける。
さながら歩きながらティッシュを配る、攻めティッシュ配りのようなスタンスで臨んでいる。
しかしどうしたことか。
このゲームでは◯ボタンは剣を振るという動作も兼ねているため、人に対してこの王様は「話を聞いたのち、剣を振る」という暴君めいた行動をとることになるのである。
暴君とは違う気もする。
「罪をあらいざらい白状させたのち、やっぱり断罪する」
そんな感じだ。
そういえばドラゴンクエストでも「はなす」と「たたかう」その他はAボタンで行った気がする。
もちろん、この話での◯ボタンなりAボタンなりは決定を示すキーであるわけだが、見方を変えれば「話しかけるそぶりで斬りかかる」「話すそぶりで戦う」ということをやっているかもしれない。
そんなことはないって?。
そうか。
そうか。