老人

先日のエビのくだんで思い出したのだが、エビは「海老」と書き、それは「長い髭と曲がった腰が、老人を彷彿とさせる」から「老」という字が使われるのだそうだ。
確かに、エビを人間の「かた」に無理やりはめ込んでみると、どうにか髭と腰に、あの部位はあてがわれそうである。
ただ以前、「カブトムシの幼虫を、蛹になる直前に「クワガタの鋳型」に入れたら、クワガタ型のカブトムシがいけるんじゃないか」と書いたことがあるが、それよりは難易度が高いだろう。
やはり、人間とエビは結構離れている。
そう考えると、人間の「何かにあてはめる力」というのはすごい反面、多少無理をしている能力なのかもしれない。
有名な話だと「点が3つあると、もう人間の顔に見える」という心霊写真関連でよく聞かれるやつがある。
これはそれほど無理してない気がする。
一方、幾人かの風貌を真似たものまね芸人に対して、その能力に無理を生じる可能性は、昨今のテレビ番組をみるからには十分にあると言わざるを得ない。
もちろん、先ほどのエビやカブトムシの話などよりは、無理はないだろう。
ゲノムの差異もゴリラやチンパンジーよりも少ないことを考えると、ある意味全人類は全人類のものまねを完全にこなしていると考えてもおかしくない。
しかも、少なくとも挙動や衣装を真似、おそらく表情も似ているのだから、全人類の中でも、その芸人さんは「生粋の工藤静香(※1)」である。
だが、違う。
マイゲシュタルトを総動員しても、静香枠で彼女らをくくることはできず、結果無理をすることになる(※2)。
ただ、この無理が面白いところでもあることは明白で、例えばバカリズムが昔やっていた「なんとか県は持ちやすい」みたいなやつが面白いのも、こういった人間の能力をうまくあてはめ、あるいは受け流した結果なのだろう。
ところで、一つ明示しておく必要があるとすると、ここでの「何かにあてはめる力」というものの「何か」は、既知のものでなければならない点だろうか。
「エビをシジミオルニチンモドキに例えると、あの伸びた糸はパブリッシャー、曲がった尻尾はスニフ器に相当する」とか言われても、ただ人間性を疑われるだけである。
※1
ものまねされやすさというと一番に「工藤静香」を思い出した。
ある特定の工藤静香を指したものではない。
※2
ゲシュタルト心理学をこう使えるかどうかは、知りません。

メロディー

小さいころから妖怪の図鑑が好きで、今でも時々読んだりする。
気になることはいくつもあるのだが、今回は「小豆洗い」について。
こいつは「小豆を洗うような音を出す」妖怪で、一見無害そう。
「ゲゲゲの鬼太郎」でも、なんとなく鬼太郎サイドにこっそり参加しているという印象で、無害というか存在感が薄い。
ただ、妖怪的にはこの「存在感の薄さ」は重要なもので、科学的に理解されていなかった自然現象が、妖怪のせいにされていた昔、それは言い換えると「周りには怪異を及ぼすものがたくさんいるよ」ということでもあった。
しかし、そんな話を吹き飛ばすことが、僕が幼少より気にしていたことである。
こいつは、歌うらしいのである。
「小豆とごうか、人とって食おうか、ショキショキ」
ある意味妖怪らしい、怪しげな歌詞である。
水に流された砂の擦れる音、動物が砂利を踏んだ音、あるいは「小豆洗い」似の知らないおじさんが実際小豆を洗っていた音。
それだけの、存在感の無さ、無害さは、歌声というやや自然現象とは結びつらいことで薄まった。
そして、妖怪イメージは「人とって食おうか」で一蹴され、危険なやつにランクアップした。
それにしても「小豆とごうか」と「人とって食おうか」の落差である。
「俺とっては小豆を洗うことと人を食うことは同じようなことだ」
「朝飯前だ」
2行目は余計だったかもしれないが、なんだこのハードボイルド感は。
そして一番気になるのが、この歌のメロディーである。
「ショキショキ」が歌詞なのか実際の小豆をとぐ音なのか。
これも気になるが、僕が昔から一番気になっていたのが、メロディーである。
♪小豆とごうか
♪人とって食おうか
♪ショキショキ
水木しげるも、本当はこう書くべきだった。
どんなメロディーだったのか。
そもそも「歌う」というのが、今の「歌う」の感じではなく、句のような、都都逸のようなものだったのだろうか。
どちらにせよ、何か音源残ってないかな、と思う橋のたもとである。

やきとりについて2

【昨日までのあらすじ】
焼き鳥で音階をあらわすことになりました。
=====
笛で奏でられる音階はどれほどなのだろうか。
種類は「ドレミファソラシ」で、確かこれはイタリア語。
どの言語でもこの種類数は変わらないのだとすると、7種類だ。
まず、焼き鳥で7種類を考えてみる。
もも、レバー、つくね、かわ、ハツ、砂肝、軟骨
パッと考えると、これらが出てきた。
あら、ちょうど7種類。
ここで、調べ物をしていると、いいの忘れていた「ぼんじり」。
「ぼんじり」には是非「シ」を担当いただきたいところだ。
他にもいろいろな部位が焼きとられているようだが、ポピュラーなものはこんなところだろう。
は、これらのメンツで「焼き鳥の音階」を考える。
まず見逃せないのは「レバー」で、もう「レ」である。
ドレミの歌で、レモンと変えても遜色ない、生粋の「レ」。
それ以外のものが「レ」を担当するのは少々難しい。
「ドはドーナツのド、レはつくねのレ」
ドレミの歌の、何かの絶対的な概念が崩れているのである。
次に気になるのは、以外にも「ド」で、「度肝を抜く」という言葉から、砂肝をノミネートしたい。
「超弩級」という言葉の「ド」は確か、ドレッドノートという、軍艦の意を持つ英語から取ってきた「ド」であるが、実は「度肝を抜く」の「度」は、音階の「ド」だったのである。
「レバー」も肝臓であるから、ドの資格は持ってはいるが、彼彼女はあまりにレが似合う。
「ド」は砂肝だ。
そして「ファ」。
もう「ハ」と同義である。
したがって「ハツ」。
ここで整理すると、以下のようになる。
ドレミファソラシド
砂肝レバー(ミ)ハツ(ソラ)ぼんじり砂肝
もう全然面白くない。
そして多分、こういう串がきても、美味しそうじゃない。
せめて「ミ」と「ソラ」あたりには、ねぎでも挟んだほうがよさそうだ。
今回のメモ
具を器官順に刺した焼き鳥があったとしたら、それはちょっと遊びすぎなきがする。

やきとりについて

思い起こしてみると、最近「焼き鳥を串のままで食べていない」ことに気づいた。
それはつまるところ「居酒屋で焼き鳥を注文すると、誰か、あるいは自分がばらしてしまう」ということだ。
まず一人では酒を飲まないので、例えば飲み屋で焼き鳥を一人食べながら飲む、というシチュエーションも経験がない。
ばらす行為自体に是非の議論がよくなされるが、僕としてはどちらでもよく、どちらも悪意はなく、ただ結果的にばらすばらされることが多い。
こないだ、「そんなに人いないのだから、別にばらさずに人数分頼めばいいじゃない」
そんなシーンがあった。
確かに4人で、例えば「二次会行くひとー」で15人くらいが手を挙げた時の絶望感を考えれば、4人というその人数は天使。
天使が串をばらさず食べて悪いことはない。
しかし、「いろんな種類をちょっとずつ食べたい」という乙女の小鉢理論が、ないわけでもない。
結局、ばらした。
僕が「最近串のままで焼き鳥を食べてないな」と思ったのは、先日まさに焼き鳥が人数分、横長皿に盛られてきたからだった。
ちょうどな人数だったので、ばらされることはなさそう。
「串のまま食べてない」旨を話しながら、僕はこれを串のまま食うイメージトレーニングを開始してみる。
すると、すぐにそこには「串を顔に対して串を横、水平に。あるいは縦、垂直に食べる」。
大きく分けて二通りの食い方があることに気づいた。
僕は水平のそれを「フルート食い」と言い、ただすぐに何かぎゅーんと考え、「ピッコロ食い」と言いあらためた。
フルートとピッコロの違いはよく知らないが、こういうときは「半濁音はちょっと面白い感じがする」という自己的ルールにのっとり、言いあらためたのである。
一方、垂直のほうはもちろん「リコーダー食い」で、まあお察し。
久しぶりに串状態の焼き鳥を食べるとき、その食い方もいろいろあるのだなと感慨深くなったのだが、この時の僕はもう違うことを考えていた。
「焼き鳥を笛に見立てた、見立ててしまったのならば、例えばドレミはモモ、皮、レバーなのか、あるいは違うのか」
こいつは汎用性が低いと思ったので、黙っといた。
しかし気になってしまう。
例に挙げたように、恐ろしいことに、焼き鳥は具を1つずつ串にぶっさす形状で、音階に見立てることが可能なのである。
やるとしたらどうなるんだ。
過去の推理ドラマなどで、焼き鳥の具を音階に見立てたトリックがあったのなら、ぜひ知りたい。
しかし、調べてもいないがちょっと存じ上げていないため、次回考える。
焼き鳥の音階について。

通り過ぎちゃって。その2

前回からのつづき。
【あらすじ】
無限希釈っていうのがある。
放屁をかましたところで、例えば地球規模で考えると、屁はその圧倒的な溶媒(大気)に無限に希釈されてしまう。
これってなんか、ホメオパシーの考えと同じじゃない?。
=====
で、実はホメオパシーについてはあまりよく知らない。
知らないながらも説明してみると、こんな感じ。
=====

「おかあさーん。机に置いといたんだけど、チュッパチャップス知らない?なめかけの」

「あら、もう捨てちゃったわ」

「えーうそ!。あれ、山本センパイのなめかけだったのに!。まだゴミ箱の中にある?」

「ちょっと!。すごいわねあなた!。いや、それもそうだけど、そもそもあれ、ほぼ棒だったわよ。しかもガジガジしてある」

「そこがいいのに!。もう、どうしてくれんのよ!」

「落ち着いて。もしかしたらそこらへんにチュッパチャップスの香料だか何かの形で、数分子くらいは漂っているかも知れないわよ」

「スーパーバキュームモード、チェンジ!!」
=====
ごめん、上のあんましホメオパシー関係ないかも。
ホメオパシーは「同種療法」とも呼ばれ、「ある症状を引き起こすものは、実はその症状を抑える要因でもあるから、むしろそれ、与えちゃえ」という感じの、よくわからないやつだ。
しかし歴史は長いらしく、ググるといっぱい引っかかる。
ここではその効果の是非を考えるつもりは全くないが、「無限希釈」と絡めたいのが、この「むしろそれ、与えちゃえ」の部分。
ホメオパシーの考えでは、「与えちゃう量が、すこぶる少ないことが必要」らしいのだ。
例えば「殺してしまったたまごっちへの懺悔の念で熱が出る」病気があるとする。
したがって、この人はたまごを食べると、たまごっちレセプターがたまごを捉え、発熱する。
ここでホメオパシーの考えを用いると、「たまごを粉砕し、溶媒に溶かし、さらにその一滴を溶媒に溶かし。」
これを繰り返して「ほぼ溶媒だが、1分子くらいはたまごが入っているかもしれないもの」を作成する。
これは、「無限希釈されたたまご」と言えるだろうが、これが効くというのだ。
効くというのは「目の前にたまごっちが落ちていたのを見て発熱した人に対して服用させる」。
「常に服用し、いざたまごっちが飛んできても発熱がゆるやか、あるいは抑えられる」。
どちらかはよく分からないのだが、とにかく効くらしい。
「無限希釈」というのは、少なくとも前回のバルサンのくだりでは、「希釈されてまくって効果がなくなる」のに対し、ホメオパシーでは「希釈されまくって効果が出る」。
もちろん気になるのが「我が家で無限希釈をもくろんだバルサン、実はホメオパシーとして世界中の昆虫に効いてしまう」。
あるいは「娘、常時きゅんきゅん」。
あるいは放屁による、どこか誰かへの影響。
そういえば去年の今日の放屁。
それが誰かに与える、何か。
ホメオパシーの考えはSF的にも、もちろん効果があればあったで、なかなか楽しいものだ。
しかし、無限希釈とはどうしても相反するものである。
無限希釈で助かっていることも多い。屁とか。
もちろん、いい具合にばらけるかもしれない、「たまご粉砕溶媒は効果があるが、屁は薄れゆくばかりだ」。
あるいは「効果があるのとなくなるの。ちょうどの境界線が、実はある」とか。
ともあれ双方、粒子の流れやカオス理論、時間を含めると、もっと深く考えることができるだろう。
けど、もうそれは、僕は全然わからない。
どのくらい分からないかというと、今回の内容で出てきた「たまご1分子」くらい分からない。
なんなんだ「たまご1分子」。
そぼろ丼を食べているとき、甘いスクランブルエッグみたいなのが少し残っているとうれしいが、それとは関係ないか。

通り過ぎちゃって。その1

ドアの目張りをはがしたあとは、気をつけるのは床に点在する死骸くらいなのだ。
猫がいるものだから、よくカリカリ(猫えさ)を置きっぱなしにしてしまう。
ゆえにごきぶりが繁殖し、結果的には見かけても「また歩いてるわ」くらいのインパクトしか与えない。
そんな状況になっていたのだ、我が家は。
「バルサン」の効用により、部屋は「密室殺G」の様相。
大きく息を吸い込んで、死骸を踏まないようにしながら窓を開放しに向かう。
「バルサン」の取扱説明書に「使用後は窓を開放し、十分に換気する」とある。
「換気する」を「歓喜する」と考えると、どれほど殺虫できたんだとその撃墜数が気になるが、気になるのはそっちではない「換気」の方だ。
「窓を開放し、十分に換気する」というのは、「無限希釈」の考えが根底にあるから実行できるものだ。
ここで言う「無限希釈」というのは、「世界、すごく広いから。うちでやったバルサンを全て掃き出しても、薄まりまくって。結果、バルサン掃き出してないことと同じなんだなぁ。みつを」ということ。
言い換えれば、例えば我が家の居間が地球の大気の50パーセントくらいを保有するキャパシティーを持つ、掃除が大変な部屋だったとする。
そこで「その空間に有効なバルサン」を炊いたあと、換気のために窓を開放すると、これは「無限希釈」にはなり得ない。
双方の差があまりないため、希釈しまくってほぼなかったことにするのが難しいからだ。
窓を開放するとき、僕は「我が家のバルサンが世界の昆虫に与えるダメージ」を考えないわけではないが、感覚的にも「ダメージゼロ」だとも思う。
ただし、「バルサンの無限希釈」にはグラデーションがあり、例えば我が家で飼っているカブトムシの幼虫ケースは、開け放った窓の目の前に存在する。
もしカブトムシの成虫がそこにいるときにバルサン開放を行うとすると、「バルサンは無限に希釈される前にカブトムシに出会ってしまう」ことになる。
ブラジルにいるカブトムシが我が家のバルサンに出会う確率はゼロであるから「ブラジルのカブトムシ聞こえますか」とアッコにおまかせで通知を試みる必要はない。
しかし、無限希釈の考えを持ってしても、局所に目を向ければ、例えばうちのカブトムシはヤバいのである。
幸いなことに、カブトムシは幼虫である。
念のため少し遠ざけておいたから、もう文句なく窓を開け放つ。
これから拭き掃除、食器を洗ったりしなくてはならない。
人間というのは物を飲み食いするが、そのとき食べたものが様々な形で体に取り込まれる。
これは言い換えれば「それまで使っていたやつと交換になる」ということで、そのくだりは毎日、みんな食卓と便所でその様を経験している。
人間を構成するほとんどの物質は、確か数日で交換されていた気がする。
もちろんほぼ交換しない部分もあるが、例えば一週間前に体を構成していた物質は、その多くは今日、すでに交換されていて、その点、中二っぽく考えると「全然別の人」と言えなくもない。
僕はこの考え方と「無限希釈」というものが絡むと結構面白い話ができるんじゃないかとかねてより考えていたが、もう何か誰かやってる気もするし、やってたらもうやっちゃってやっちゃって、という感じである。
しかし今回はそっちではなく、「無限希釈」と合わせて考えてみたいのは「ホメオパシー」。
「同種療法」とも言う、どちらにしても何それ、というちょっと怪しい医療学についてである。
次回へ。

船頭多くして。

先日、いろいろ作業をやっていると「百人一首」という言葉が浮かんだ。
その字面を、この作業や本来持つ意味、それらを除外した状態で考えてみると、結構すごいことになっていると思った。
「百人のデュラハンたちが共有している頭」
まず思いついたイメージはこれだ。
ただ、デュラハンがいまいち汎用性に欠けることくらい、僕はわかるので、違うことを考えてみる。
「百人一首とは逆ヘカトンケイルのことである」
汎用性というのは難しい。
ところで、ここで考え込んでしまった。
「百人一首とは逆ヘカトンケイルのことである」
「ヘカトンケイルとは逆百人一首のことである」
どっちがいいのだろうか。
どちらにせよ困ってしまうのが「この人、百人一首の事知らない」という、日本人としては奇跡に近い状況が生まれなくてはならないという点。
そして「ヘカトンケイル」がどんなものなのかを、逆に少しは知っている。
なかなか難しいが、それらの条件がそろったとき、人は上記のいずれかを口にする。
ただ、人に「百人一首ってなに?」「ヘカトンケイルってなに?」。
どちらがより聞かれやすいかを考えると、おのずと「ヘカトンケイルとは逆百人一首のことである」が有用だと思わる。
ただし、これは質問者も「百人一首のことを、例えばデュラハン共有として認識している」超絶勘違いを発動している必要があり、もうおなか一杯。
作業に戻ろうかというとき、また。
「百人一首とは逆ダンタリアンのことである」
なんだこっちのほうが合ってるじゃないかと画像で確認しようとしてみたら、僕が知っているのと違うダンタリアン、美少女がたくさん出てきた。
誰なんだ彼女は。
ただ、それはある意味、ダンタリアンっぽい気もするのだが。

404-2

続き。
【あらすじ】
「404エラーのセンチメンタルなシチュエーションと何よ?」について。
=====
1.
廃校が決まった中学校のHP
2.
バーチャルお墓参り
3.
おじいちゃんがインターネット接続の設定をしてくれてもしてくれても
ざっと考えてみると、何かセンチメンタルというよりは悲しい感じものが洗い出されてきた。
上記の例どれも、404エラーが発生すると何か悲しい。
もちろん、「好きだった人」関係を持ち出せばもう少しはおセンチが出そうではあるが。
もうおセンチはいいや。
ところで趣向は違うが、こういうのもいいんじゃないかと思うものもある。
「紙芝居の途中で404エラー」
分かりやすいものであるため、既にスケッチブックを所持した芸人さんの誰かがやっているかもしれず、そうだったらごめんなさい。
=====
「キジはきびだんごを手渡そうとする桃太郎に、少し目を伏せながらこう言いました」
404エラー
ページが見つかりません。
こんな感じ。
このとき、どうしてもこの紙芝居者は「けーんけーん」のシーンが描けなかったのである。
その代わりに用意した404エラーの紙。
切ない。
次の場面をめくるとき、つらそうに演じれば接続が危ないのかと、オーディエンスから声援がもらえるかもしれない。
一方、こんなタイミングでエラーが発生してしまう場合もある。
「こうして桃太郎は鬼を退治し、おじいさんとおばあさんのもとに帰ることができたのでした」
「404、404」
404のところは、紙芝居のラストを飾る例の「めでたし」の体で喋れば、いろいろ丸く収まるだろう。
ということで、それほど広げずに404の話は終わってしまった。
ただ、「紙芝居の途中で404エラー」の芸人さんがもしいるのだとしたら、ぜひ「その芸人さんをwikiで調べようとすると404エラー」であってほしいと思う秋の夕暮れであった。

404-1

昔では「封の開いていない手紙」や「メールボトル」。
最近では「アイシテルのサイン」や「別れた彼氏の歯ブラシ」など。
物質的な意味合い以上の意味を持ってしまった「ああ、そういうやつね」「なんかセンチメンタル」というアイテムに「404エラー」が採用されるのは近いんじゃないだろうか。
そんな気がした。
もちろんすでにJKの間で大人気の「404エラーにまつわるキュンキュン話」がすでに存在しているのかもしれないが、僕は知らん。
あったとしても個人的な経験以上のものはないのかもしれない。
ともかく、ちょっと青春な、若者特有の危うさやジュブナイル臭を感じ取ることができるのではないだろうか、「404エラー」は。
「404エラー」というのはインターネットをやっていると、時折見られる。
「サーバはあるけど、そのページ無いよ」というエラーで、Webサーバが教えてくれるものだ。
誰もが、URLの打ち間違いで見たことがあるだろう。
このエラーの、どこにセンチメンタルを感じるのだと考えると、やはり「以前はあったはずなのに、今は無い」という、完全に「思い出がいっぱい」の美味しい部分を網羅している点だろう。
「以前あったエロいサイトが見れなくなっている」
「新製品が出たためか、前のバージョンの製品のページが見つからない」
以前はあったはずなのに、今は無いもの。
栄枯盛衰、二度と戻れない日々、夏祭り。
文化祭、フォークダンス、図書室の相席。
2コンのマイク、預金、6人のころのKAT-TUN。
少しセンチメンタルと違うかもしれないが、要はこういうもの。
こういうものに、我々のメンタル部分は引っかき傷をつけられてしまう。
さらに、「大抵の人に経験がある」という点も捨て難い。
上記の例も、もう全員に経験あるでしょ?と問うて問題ないものばかりである。
どれ一つも琴線に引っかからない、という御仁はあなた、巌窟王か何かでしょうと言わざるを得無い。
あなた、ジョブ巌窟王か何かでしょうと言わざるを得無い。
次回、「じゃあ404エラーのセンチメンタルなシチュエーションと何よ?」について。

失調

kindleの漫画ランキングに九井諒子の「ダンジョン飯」がランクインしている。
この人の漫画は結構前からあるが面白く、僕の中では数少ない「何か発表したら気にする」人である。
ちなみに僕は、美味しいものは後にとっておくタイプなので、買うかどうかというと買わない。
「いつか買うたろ」と日々を生きる、結構損するタイプの人間である。
さて、この漫画を読むと、必ず「エルミナージュ」がやりたくなること。
疑問の余地は無い。
エルミナージュはダンジョン、いわば迷路を一生懸命進んで、出てくる敵を倒しながら、しかし死んだり荷物がいっぱいになったら街に帰って準備を整えて。
ちょこちょこ開拓することを楽しみ、いたって条理なアクシデントをこなす、それを繰り返すゲームである。
さっそく、以前買ったが時間がなくてやっていない3DSのゴシックというやつを引っ張り出してやってみた。
すぐ死ぬのは、発売当時と変わらない。
むしろ前やっていた時のセーブデータは、6人中4人が死亡していた。
すまない、1年くらい死亡で。
かわいそうなのでこのデータで続けよう。
どうにかして街に戻ろうとうろうろしたとき、あることに気づいた。
3DSの「Rボタン」が押しても効かないのである。
確か「エルミナージュ」では「Rボタン」は右に進むボタンで、ユーザがどの方向を向いていても、いわゆる「カニ歩き」のような感じで横に歩くはずなのだ。
しかし動かない。
左へのカニ歩きはできているので、何か設定がおかしいのではなさそうだ。
何回も押していると、びくんと右にカニ歩きすることもあるが、それも何回か繰り返しているうちになくなってしまった。
3DSが壊れてしまった。
この3DSは発売当時に買ったもの。
今では新しいものがあったり、画面の大きい3DSが出ているが、なんとなく買い直すことはしていなかった。
愛着があるのだ。
ということで、僕が今度モンハンをやるときは、レッキングボールを食らったような挙動を示すはずである。