あけましておめでおとうございます。

僕はよくゲームをやるのだが、ゲームと言えど衝撃を受けるような物事が、今までも幾つかあった。
「すべてをしるもの」の登場である。
彼はファイナルファンタジー5の中ボスのような感じで、ストーリー途中で出てきた。
調べれば詳細もわかるだろう。
登場当時、幼かっただろう僕でも畏怖したことを覚えている。
「ついに出ちゃったよ、すべてをしるものが」
何せ全てを知っているのだから、こちらの戦力も、この戦いの行方も、ゲームの中と言えどこの世界がどうなっていたのか、どうなってゆくのか、全て知っているやつだ。
それと対峙する結果になるのは心苦しいと同時に、勝ち目なさすぎるとスクウェアブランドの攻略本を開いたものだった。
そういえば、フリーメーソンの三角の目(ちょっと怖い)のやつも全知を示す意味があったと思う。
すごいことだ、何でも知ってますっていうのは。
ただ、ここで全知の悲哀というものもあるかもしれないことに気づく。
全知全能という言葉がある。
それは紀元前、後なんてカテゴリどころか、あらゆる権力者、男女、年齢、専攻、業種、身長、趣味、性癖、出家非出家問わずに誰しも手に入れたいと願うものだろう。
その能力はお金儲けや覇権はもちろん、神と相応するくらいの価値があると考えられているから。
少なくともその名前だけを考えると、「すべてをしるもの」は「全知」らしいが「全能」のほうは触れられていない。
もちろん「全知」と大変威厳のある資格を有しているおじいさんであるため、かなり有能ではありそう。
ただ、「全知」と「全能」は必ず比例関係にあります、と言われるとそうかな?という気もする。
触れられていない以上、「全知だが能力的にちょっと」と、残念な属性がつく、余地があるわけだ。
全てを知っているが、焼きそばソースの粉末をいつもばらまいてしまう。
全てを知っているが、バーベキューの準備に参加しない。
全てを知っているが、球技が全般的に苦手。
「全知」を知識、「全能」を行動と置き換えると、何か啓発本かな?という感じにもなるが、とりあえずFF5のエンディングを、僕は見た。
僕は彼を倒したのだ。
ゆえに、おそらく「全能」ではなかったのだろう。
彼はしかし「全知」であるがゆえ、どうにもならない未来に対して、諦めにも似た感情を持っていたかもしれない。
全てを知っているが、バーサクが効く。
もしかしたら、そんな悲しい感情を持たせることなく戦えていたのかもしれない。
が、どちらにせよ、そんなすごい存在と戦う経験をしたというのに、僕はそこから何ら得ていない。
すべてをしるものと対峙し、勝利しているのにもかかわらず、おじいさんであったことくらいしか覚えていないのである。
知識というものが悪しくないものであるとするなら、全知じゃないものが全知なものに勝利するすることは悪ではないか。
FF5の頃の僕が抱いたのは、もっとシンプルではあるだろうが、もしかしたらそんなことだったのかもしれない。
今でもカートリッジを差し込めば、どこかで彼と敵対することができるだろう。
ゲーム上、仕方がないのだ。
しかしそのときは、せめて知っておきたい。
「なんで僕ら、あなたと戦うことになったんでしたっけ」を。
ということで、あけましておめでとうございます。

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