浅こより その2

【あらすじ】
くしゃみって、嫌われがち。
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昔読んだ本に、こんな一節があった。
「生まれたばかりの雛はか弱く、例えば巣のある木の下にいる人がくしゃみをしただけで、そのショックで死んでしまうこともある」
口の周りがびちゃびちゃになる。
あるいはびちゃびちゃを周りに飛ばす。
適度な湿度は必要だが、あまりにびちゃびちゃだと悪い菌が繁殖しやすくなるという前前前世からの経験則。
もちろんびちゃびちゃの中に、すでにウイルスがいたりする。
あるいはいるかどうかの判断が難しい、他人のびちゃびちゃ。
その辺が、くしゃみが嫌われる理由の最たるもののような気がする。
そして、冒頭の話。
故意ではないにしても、その無差別な破壊力には、子供の残酷さ的なものを感じずにはいられない。
「出ることを制御できない、生理現象」という点も、嫌われる要因にあるそうだ。
一方、「くしゃみのとき、すごい表情になる」という点も見逃せない。
言い換えると、ぶさいくになる。
もちろん本来は「ぶさいくって、嫌われがち」を考えなければならないのだが、めんどうくさく、例外も多そうなのでここでは割愛。
ぶさいくにトランスフォームするのも嫌なのだ、くしゃみによって。
飽きて20分くらい経つので、見方を変えてみよう。
くしゃみ 闇属性 威力20
くしゃみ 聖属性 威力20
あるゲームでこういうやつがあったら、どうなるだろう。
「くしゃみ 闇属性 威力20」は間違いなく巨大な魔王の序盤の攻撃で、正しく表記するとこうなる。
「くしゃみ 闇属性 威力20 毒付与」
一方、「くしゃみ 聖属性 威力20」の方は、これまた間違いなく女性神官の使用回数制限のない体力回復能力で、正しく表記するとこうなる。
「くしゃみ 聖属性 威力20 射程1」
こう考えると、少なくとも他人に対してだけは、くしゃみというのは場合によってはいいことに扱われる可能性があることが分かる。
そして、この詳細を考える場合、先ほど割愛したところが重要だろう。
しかし残念、割愛してしまった。
覆水盆に返らず。
なんとかmilkなんとか。
一事不再理。
うーん残念。

浅こより その1

安すぎたのだろうか。
現在使用している使い捨てマスクの片面が、使用していると「起毛」する。
効果や保温性はともかく、鼻側の面が起毛してもらえると、刺激がすごい。
くしゃみを誘発してしまう。
最近はどちらの面が起毛するか、わかってきたので大丈夫だが、当初は大変だった。
1/2の確率で内側が起毛し、くしゃみが出るのでもう片面を内側にするのだが、以下の点でよくなかった。

いままで外側だった面なので、避けたかった菌やウイルスがいっぱいいるのではないか。

素晴らしく起毛しているので、他の人から見ると「なんであの人のマスク、外側がフリース素材なんだろう」と思われる。
1は「ウイルスいけす」、2は「ユニクロ」と命名。
また、起毛で鼻が刺激を受けていることを「浅こより」と命名、様々な言葉がこの「起毛マスク」より、僕の中で誕生した。
ところで、「こより」とはそもそも何なのだろうか。
あまり考えたことがなく、一生を通じてもガキ使でしかみたことがない気すらする。
しかし「こより」の知名度はなかなか高いのではないか。
wikipediaによると、とにかく紙をよったりひねったりで、細くしたものらしい。
それで髪を結ったりするらしいのだが、現在の「こより」の用途は主にくしゃみ発生具が有名。
プロパガンダは甚だ恐ろしいものと痛感する。
それにしてもなぜ「こより」を使って、こうも人はくしゃみを誘発したがるのだろうか。
いや、どちらかというと「誘発させたがる」のだが、どうもそれは「くしゃみ」がどちらかというと負のイメージ、罰であるところに起因するような気がしてきた。
なぜくしゃみは闇属性なのだろうか。
次回にでも考えてみるが、あんまし面白くなさそう。

超高速!万物流転

早口言葉や回文の、ちょっと無理した感じが好きだ。
それは本来、自分の考えや意図を主張するべきものが、二の次。
言いにくいことだったり、反対から読んでも同じであることが最優先なのだから、無理はしょうがないかもしれない。
ところで、無理が好きなゆえに、どちらかというと反対側。
「心に響く早口言葉」や「泣ける回文」というものがないか、気になる。
巻紙のことを言われても、そもそもそれが何かもわからないから心には響かない。
新聞紙と言われても、取ってほしいのかくらいしか思わない。
以前、だまし絵のことを書いたが、それと似ている。
だまし絵の悲劇
最優先されるものが、その本来の存在意義と違う時点で、一挙両得が難しいのは仕方がないのだ。
一方、二の次であった主張の方を気にしてみたら、こんな気分になった。
「隣の客が柿を持っていないので、渡すべきか」
「えっ、まだ竹やぶ焼けてないの?」
これはこれで面白いのだが、お気づきになられただろうか。
これらは、考えようによっては「心に響く」「泣ける」条件を満たしているのである。
「ところで隣の客、節子に似ているな」
「子どもの頃、竹やぶで火遊びしてたらボヤ騒ぎになりかけて、死んだばあちゃんに叱られたっけ」
結局のところ、相手の感情に訴えかけることというのは人によって千差万別であるから、すべての事柄は誰かの喜怒哀楽の琴線に引っかかってしまうわけだ。
そして、そうしたくない場合というものが人間にはひどく生じたことから「沈黙は金」という言葉が生まれたのだろう。
ということを言いたかったわけではないのだが、となると次に気になるのは「早口回文」の存在で、ここまでくるとロジカルに考えるべきだろう。
とりあえず日本語に限らなくてはならないだろうが、早口言葉を科学的に解析。
ちゃんと早口言葉の属性を帯びた回文というものがありえるものなのか。
ぜひ開発、アナウンサーの発生練習の一環に組み込んでもらいたい。

あけましておめでおとうございます。

僕はよくゲームをやるのだが、ゲームと言えど衝撃を受けるような物事が、今までも幾つかあった。
「すべてをしるもの」の登場である。
彼はファイナルファンタジー5の中ボスのような感じで、ストーリー途中で出てきた。
調べれば詳細もわかるだろう。
登場当時、幼かっただろう僕でも畏怖したことを覚えている。
「ついに出ちゃったよ、すべてをしるものが」
何せ全てを知っているのだから、こちらの戦力も、この戦いの行方も、ゲームの中と言えどこの世界がどうなっていたのか、どうなってゆくのか、全て知っているやつだ。
それと対峙する結果になるのは心苦しいと同時に、勝ち目なさすぎるとスクウェアブランドの攻略本を開いたものだった。
そういえば、フリーメーソンの三角の目(ちょっと怖い)のやつも全知を示す意味があったと思う。
すごいことだ、何でも知ってますっていうのは。
ただ、ここで全知の悲哀というものもあるかもしれないことに気づく。
全知全能という言葉がある。
それは紀元前、後なんてカテゴリどころか、あらゆる権力者、男女、年齢、専攻、業種、身長、趣味、性癖、出家非出家問わずに誰しも手に入れたいと願うものだろう。
その能力はお金儲けや覇権はもちろん、神と相応するくらいの価値があると考えられているから。
少なくともその名前だけを考えると、「すべてをしるもの」は「全知」らしいが「全能」のほうは触れられていない。
もちろん「全知」と大変威厳のある資格を有しているおじいさんであるため、かなり有能ではありそう。
ただ、「全知」と「全能」は必ず比例関係にあります、と言われるとそうかな?という気もする。
触れられていない以上、「全知だが能力的にちょっと」と、残念な属性がつく、余地があるわけだ。
全てを知っているが、焼きそばソースの粉末をいつもばらまいてしまう。
全てを知っているが、バーベキューの準備に参加しない。
全てを知っているが、球技が全般的に苦手。
「全知」を知識、「全能」を行動と置き換えると、何か啓発本かな?という感じにもなるが、とりあえずFF5のエンディングを、僕は見た。
僕は彼を倒したのだ。
ゆえに、おそらく「全能」ではなかったのだろう。
彼はしかし「全知」であるがゆえ、どうにもならない未来に対して、諦めにも似た感情を持っていたかもしれない。
全てを知っているが、バーサクが効く。
もしかしたら、そんな悲しい感情を持たせることなく戦えていたのかもしれない。
が、どちらにせよ、そんなすごい存在と戦う経験をしたというのに、僕はそこから何ら得ていない。
すべてをしるものと対峙し、勝利しているのにもかかわらず、おじいさんであったことくらいしか覚えていないのである。
知識というものが悪しくないものであるとするなら、全知じゃないものが全知なものに勝利するすることは悪ではないか。
FF5の頃の僕が抱いたのは、もっとシンプルではあるだろうが、もしかしたらそんなことだったのかもしれない。
今でもカートリッジを差し込めば、どこかで彼と敵対することができるだろう。
ゲーム上、仕方がないのだ。
しかしそのときは、せめて知っておきたい。
「なんで僕ら、あなたと戦うことになったんでしたっけ」を。
ということで、あけましておめでとうございます。