だまし絵の悲劇

だまし絵は唐突である。
「はい。これまで、だまし絵の歴史についていろいろ考えてきました。それでは実際に見てみましょう」
このような、だまし絵にとって幸運な流れはなかなかお目にかかれない。
「この中に猫は何匹隠れているでしょうか」
いきなりこう来る。
それまで猫なんか探していなかったのに。
あるいはこう来る。
「この絵の人は若い女性に見えますか、それとも老婆に見えますか」
それまで中野のおいしいラーメン特集だったのに。
そして、だまし絵は沈黙である。
「よく見たら骸骨でした」
「よく見たら別の人物が描かれていました」
「よく見たらありえない交差をしていました」
だまし絵は絵だから動く能力に乏しく、いわば出落ちなところがある。
その瞬間から、結果が見えている状態なのだが、その結果は基本的に隠れている。
そしてその隠れた結果を探す。
この一連の流れは、かなり静かだ。
「どうだ?隠れていただろう!?」
だまし絵としてはそう言いたいのかもしれないが、そうであったとしてもこちらは「うん、そうだね」以上のものはなく、会話が成り立ちにくい。
「うっひゃあーだまされたー!!やったー!!」
だまし絵冥利に尽きるだろうこのようなセリフを吐く人を、僕は見たことがない。
最後に、だまし絵というものは「生まれが卑しい」。
もちろん、たまたま描いていた絵の中に、他の人の顔のように見える部分ができました。
ありえなくはないだろうが、大抵のだまし絵は、書かれているときから、もうだます気で書かれている。
生まれながらにしての詐欺師である。
なぜいきなりだまし絵のことを考えてしまったのかというと、「だまし絵の芸術的価値」が気になったからだ。
おそらく、芸術というものに、生まれの質は影響しないだろう。
僕はよく知らないが、だまし絵に属するような絵でも、芸術的価値が見いだされることも存分にあるだろう。
しかしだまし絵からしてみれば、そんな価値はその存在を否定されるようなものかもしれない。
「ここのタッチが素晴らしい、大胆だがそれでも緻密で、女性の若さゆえの危うさが表現できている。で、ここがだましているところで。」
これではだまし絵がかわいそう。
そんなこんなで、だまし絵には芸術的価値は似合わない。
だが、これなら少しは救われるかも。
「ここのタッチが素晴らしい、大胆だがそれでも緻密で、女性の若さゆえの危うさが表現できている。で、ここが老婆ゆえの危うさのところで。」

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