リンケージ、アイス。

結局のところ現在9月7日で、ぜんぜんブログが滞っているのだが1月31日の僕よ。
今年の夏は恐ろしく暑いぞ。
ということで、ずいぶん昔行った事のあるアイス屋を思い出した。
確か、そこは住宅地の中にあるにも関わらず那須高原を目指したたたずまい。
そしておいしかったはずだ。
それを、その場所の近くで思い出したからよくできているものだ。
さっそく行ってみる事にした。
幸か不幸か、そのアイス屋はそのログハウス的なたたずまいを残したまま、絶賛営業中だった。
ここで「幸か不幸か」と言ったのは、もちろん「幸」のほうは「お店がやっていた」ことで、この抹茶と枝豆のダブルはなかなか他の物では代替できない。
そこも「幸」に値するでき前なのだ。
一方で「不幸」というのは「アイス屋がつぶれていた場合の、何か面白い出来事」というものが「お店がやっていた」ことで考える必要がなくなったという、本ブログ特有のやつである。
アイス屋がつぶれていて、何か面白い事になるのだろうか。
それだけでも何か不謹慎な感じがして嫌でもあるが、一方で考えるくらいは許されよう。
・アイス屋がつぶれていて、代わりにチゲ屋ができていた。
せっかくアイス屋の機材とかあっただろうに、むしろ熱いものを作りますか、という感じになる。
もっとも、機材を使用して結局アイス屋でも困るのだが。
・アイス屋がつぶれていて、代わりに神社ができていた。
これはかなり考えさせられる。
どうしたのだろうか。
何かを鎮める必要でも生じたのだろうか。
・アイス屋がつぶれてからというものの、そこはヒガンバナの絶えることがなかった。
これもどうしたんだと心配になる。
あんなに、子供たちが楽しそうにアイスを食べていたのに!!とか。
・アイス屋がつぶれてからというものの、そこはソテツの絶えることがなかった。
なぜ似たようなものを別にしたのかというと、「ソテツ地獄」のことを思い出したからだ。
・アイス屋がつぶれていて、代わりに水浸しになっていた。
なんとなく納得。
と、ともかく上記の羅列を見る限り、本当につぶれてなくてよかった。

リンケージ、ヘディングを空振り。

サッカーを嗜むチャンスを故意に逃し続けた僕にとってはあるかも知れない「ヘディングを空振り」。
どうせなら今後生きていく中で「ヘディングを放たなければならないシーン」は極力避けていきたいところではあるが、人生はどこでどうなるか分からない。
「なんか分からないけど、ここはヘディングだ!!」
サッカーではないかも知れない。
両手にアイスを持った状態で天井に設置された自爆回避スイッチを押すことがあるかもしれない。
拘束衣で身動き取れない状態で、脱出用スイッチを押す事があるかも知れない。
こうサッカー以外のことでヘディングを想像すると、何かスイッチを押す事しか思いつかない事に新鮮みを感じ、ああサッカーのボールというのはスイッチみたいなものなのかと妙に納得しながらも、何が言いたいかってそれは「ヘディングの空振りはかっこわるそう」という僕個人的なイメージ。
ということで僕が「ヘディングの空振り」をしたら、そのあとすぐ首を手で押さえながら「あー首寝違えているから振りたくなったわー」とか言う。

リンケージ、サッカー中継。

サッカーのルール、定石がよく分かっていない僕だが、それでもサッカー中継を見ながら酒を飲むという機会を何度か経験している。
メンバの中にはもちろんサッカー経験者がいるわけなのだが、その人たちがすごい。
選手のことごとのふるまいを見て、的確くさい評価をばんばん下すのである。
僕は、自分の陣地の方にボールがより存在しているチームの方が負けると思うので、ボールはすぐに相手陣地の方へ蹴ればいいのではないかと思うのだが、そうではないらしい。
相手を引きつけたり、蹴る振りをして相手を抜かしたり、相手がファウル覚悟で仕掛けざるを得ないシチュエーションを作ったりと、シュート力以外にかなり戦略が求められるものらしいのだ、サッカーは。
くにおくんシリーズという、そこそこの年齢の男性にとっては懐かしいタイトルのファミコンがあったが、その中にサッカーゲームがあった。
くにおくんは不良なのに、なぜかサッカーをするのだ。
いや、なぜかは失礼か。
サッカーか、不良か、あるいは両方に。
ともかく、くにおくんのサッカーゲームにはそれほどの戦略は必要なく、基本的には「かっくんシュート」を放てる選手にボールを集めるゲームだった。
「かっくんシュート」はある選手が放てる必殺シュートで、ゴールに入らないような軌跡のシュートでもその直前で神秘的な力が働き、キーパーを吹き飛ばしながらネットを揺らすという、ある意味おなじみのシュートだ。
このシュートはゲーム内でも屈指の得点率を誇り、より「かっくん」させるようにわざとその選手をはじっこに行かせたりするのだ。
そしてこのゲームでは「ヘディングシュート」が「必殺シュート」になる。
くにおくんのサッカーは、ある選手がライン間際でヘディングを空振りさせ続けるという戦略以外は通用しにくい。
ビールを飲みながら、大きくクリアされたボールをライン際の選手が取る度に、そんなことを思い出していた。

リンケージ、最後まで残るタイプ。

「最後まで残るタイプ」というのがあり、その範囲はミックスベジタブルでのグリーンピースからクイズ番組でのやくみつるまでと、様々だ。
と考えると、では5人で食べているときの6個デフォルトの餃子や、アクションホラー映画での「主人公と友人の熱血漢」などは確かに「最後まで残るタイプ」ではありそうだが、それが「グリーンピースからやくみつるまで」のどこに入るのか。
それはなかなか難しい問題だ。
すなわち、粒入りコーンスープの粒や、テンパると何もできなくなるサッカー大好き少年坂田の、サッカー中継が始まる前まで学校でやっている補習などを「グリーンピースからやくみつるまで」の中に含めるというのは困難で、むしろそんなことをやる意味なんてないということになる。
一方、一般的なゲームのラスボスや警備員さんも「最後まで残るタイプ」の筆頭だが、みんな「最後まで残るタイプ」なりに、より「最後まで残るタイプ」の強さが違う事に気づく。
・より最後まで残る

ラスボス
警備員さん
やくみつる
坂田
コーン粒
熱血漢
グリーンピース

・それほど最後までは残らない
こんな感じか。

リンケージ、ぶつかる。

運動神経が鈍ってきたからか、人が光子のように振る舞う都心部駅構内で、僕は何度かボディアタックをかましてしまったことがある。
故意ではなく、あたるつもりでもないため、双方にダメージはない、あるいは低いと思う。
どちらかというと「避けられると思っていた自分の誤算」のほうが痛い。
僕は一般的に「ドッヂボールで最後まで残るタイプ」だったから、そういうのは得意なはずなのだ。
しかしあたる。
相手がこちらの動きを察知し、妙に避けようとしてくれたときも、それを素早く判断し、みかわしきゃくで華麗に避けていたのに。
どちらにせよ、今後は避ける能力に加えて謝る能力も伸ばしていかなければならぬ。

リンケージ、軽トラ。

ボンネットバスのように、前のでっぱった普通乗用車の運転しかしたことがないと、軽トラの「でっぱりのなさ」は少々運転手を不安にさせる。
それは本来「出っ張り部分がむしろない」ということなので何ら影響がない。
むしろその分、何かにぶつかる事がないわけなはずなのだが。
以前数回、軽トラを運転する機会を得た僕は、その謎に迫る事はあまり考えてなかったが、初めて運転する車だということ以上に何か別の不安を与えてくるこの現象を知らないわけではなかった。
軽トラを運転中、気になる事があったらメモを取、ったりしたわけではなかったが、今思い出してみるとこういうことではないか。
「面前がすぐ道路、というのが気持ち悪い」
結局、「でっぱり」がないのが気持ち悪い、違和感を覚える、という結論だった。
ありきたりだが、本当なら仕方がない。
ただ、気になるのはその「でっぱり」が我々に与える安心感というものがすごい、という点だ。
それは「いつもはあるがゆえに気づかれない安心感」であり、こういう感じのものはもう展開がしやすくてしやすくて!!。

リンケージ、たんす。

たんすというと、あれだ。
よくテレビの問題で出てた「たんすの単位」だ。
確か正解は「棹」で、たんすのことは「ひと棹、ふた棹」と数えるはず。
たんすは「いっこ、にこ」でも「いち台、に台」でも「いちたんす、にたんす」でもないのである。
これがこう話としてあがるのは、単にその「棹」という一見たんすと結びつかないのが変、という点が唯一の理由だろう。
本当は、誰もたんすの単位なんてどうでもいいと思っている。
しかしこの「たんすは昔分解して、部品を棹に通して持ち運んでいた」という点に意外性がある。
今はたんすを分解して持ち運ぶ人はいないだろう。
そのままどうにかして持っていくか、ハードオフに持っていくか。
まあ持っていくわけだが、分解はしない。
故に、もうたんすが「棹」などと呼ばれる筋合いはたんすにはなく、しいて言うならばそれこそ「いちたんす」や、持ち運び手段に注目するなら「いち軽トラ(軽トラで持ち運び)」や「いちひとり(人間で持ち運び)」が妥当なのである。
ということで今でも人々がたんすを「棹」と呼び続けるのは、せいぜいその意外性を知っているか知らないかのボーダーを楽しむためのものであるに過ぎない。
せめて、昔人々が大雨で川に流された時、分解したたんすの板を奪い合ったなんて話があれば、たんすは「あ、このたんすは20カルネアデスの板だね」なんて言えたかも知れないのに。
でも、正直そんな由来や史実、妄想はいらないですね。

リンケージ、すきま。

よく、神経質な人と「ドアの隙間」や「たんすの少し開いた状態」との関係が、「養老乃瀧」で話題となる。
僕は、自分ではあまり神経質だなんて思っていないが、そういった「すきま」は気になるほうで、それはもうフィギュア4レッグロックかけられているときに、かたやロープ、かたや少し開いているたんす。
となるとまずどちらに行くか迷う、なんてことになるわけである。
ともかくこういった特徴の人たちは、たいがいあだ名が「宮内庁」とかなったりして、それはもう宮内庁が迷惑なのである。

リンケージ、トライアングル。

小さい頃、「トライアングル」というお酒のコマーシャルがよくやっていた。
子供ながらに何かかっこよさそうとしているそのCFを見て、何か吉川晃司のことを思い出したものだ。
何か、吉川晃司は三角形だった。
トゲのあるようなイメージがあるのかも知れない。
ただ、形も三角形だったような気がする。
髪型もサングラスも肩幅も。
ここで普通、彼の画像を本来は探すべきなのだが、僕はそうしない。
当時の僕が抱いていた彼のイメージを、これからも大切にしていきたいからだ。
ところで話は変わるが、本当は今回、楽器「トライアングル」にある「すきま」について何か書こうと思っていた。
すごく昔はあったらしいのだ、あの「すきま」のないバージョンが。
でも、なんか「すきま」のことはいいや、と感じてしまった。
故の吉川晃司。
ごめん晃司。

リンケージ、音楽隊。

僕は、音楽を聴くのは大好きだが学問としての音楽は苦手で、今でも僕が経験した最低スコアは中学校の音楽で、9/100だった。
思い出してほしい。
あなたの中学生自体の同級生で、2年生のときに音楽、9点取ったやつはだいたい僕だ。
歌うのはいいのだ。
トライアングルをちきちき鳴らすのもいい。
しかし「音符」が全くわからない。
興味もわかない。
あの、5〜9本くらいあっただろうか。
そんな線の中のどこに位置するかで音の高さを示す方式は、視覚と聴覚総動員という、メンタルローテーションならぬセンスローテーションとでも言うべきか。
とにかく脳が追っつかない。
そんな僕にとって「音楽隊」とは何か。
僕は、音楽隊を見るのは大好きだが存在としての音楽隊はあまり見た事がない。