リンケージ、バッタ。

河原にいるから「カワラバッタ」とは、もう労力ぜんぜん使いませんでした、という感じのネーミングだが、一方でバッタを「バッタ」と名付けたやつはすごい。
もう我々は祖先からの「バッタのことをバッタと呼ぶ情報操作」にやられてしまっており、もはやバッタを「バッタ」以外で表現できない。
無理してやるとしても「緑色で跳ねる」などの連想ゲーム、あるいは「跳ねゆく者」など通り名風のもの。
どちらもバッタの「バッタ」らしさや破壊力が乏しい。
さて、そんなバッタだが、僕にとってバッタは「草むらを歩いている象徴」みたいなところがある。
歩いているとき、少し前の場所からバッタが跳ねたら「ああ、僕は今、草むらを歩いているんだな」と感じるという事。
逆に言うと、どんなに草ぼうぼうな場所を歩いていたとしても、バッタが目の前を跳ねない限りはぎりぎり「舗装されたところ」である。
これは一見、バッタを自然破壊のバロメータとして扱うことができそうな事象だが、いかんせんバッタのことなので、それはちと荷が重いか。

リンケージ、川。

時代劇などで聞く「百万石」というものがどういうものなのか。
サラリーか何かなのか。
分からないが、石がたくさんあるところを想像した時、僕は川を思い出す。
近所の川は水量が少ないのか、かなり近づかないと水が流れているところが見えないくらいだが、そこに到達するまでには石ばかりの灰色ゾーンをやりくりしなければならない。
水かさの多いときは川底になるのだろうが、とにかく石だらけだ。
それが百万あろうが億あろうが、どうにも興味の湧くものではない。
石の裏に生き物がいることもほとんどなく、ときどきカワラバッタという、冴えない色彩のバッタが、こちらは何ら危害を加える気がないというのに、身の危険を感じて素早く飛び去る。
なんて自意識過剰なやつなんだ。
お前に興味はない。
それにしてもこう殺風景だと、確かに三途の川というものがありそうな気にもなる。
そこでは親より先になくなってしまった子供達が、その親の供養のためだか先立ってなくなった親不孝の罪か何かで石を積むのだが、それを崩してくる鬼がいるという。
中学生かこの鬼は。
でも、このような邪魔するやつがいるからこそ、例えば石積みを百万個やりましたという偉業が起き得ないとも言えそうだ。
石を百万個くらいも積み重ねたら地上に戻れそうなものだから。
ということで、少しだけ「百万石」のイメージがついた。

リンケージ、やおよろず。

「やおよろず」と聞けば千と千尋の神隠しを思い出すが、漢字では「八百万」と書くらしい。
よく「八百万の神々」と聞くので、やあ神様はけっこうたくさんいるなと思いつつも、もうひとつのことが気になる。
それは、昔は「八百万」が今で言う「無限大」みたいな意味を持っていたのでは、ということだ。
おそらく江戸とかそのくらいの人々は「八百万の神々」と表す事で神は途方もなくいる。
そんなことを表したかったのではないか。
そう思う。
今ほど、読み書きそろばんが浸透していなかったのだろう。
道行く人々はどうにか800万までを数えられたのだとしても、その次の1を数えられない。
800万の次は恐ろしいまでの長さの空白が存在するだけなのだ。
ということでどこかで「百万石」とか聞いた日には、彼らはその莫大さに畏怖の念を感じずにはいられないだろう。
「えっ、あの八百万の八分の一も、石を!?」
ともかく無限大をいくつかに分けるとそれぞれ無限大という、微分積分的なものを現代人よりも少し身近に感じられたという点では、昔の人は恵まれていた。
ところで、「百万石」の「石」って何?。

見た目が何割か。 その2

【あらすじ】
僕はぜんぜん人を覚えられない。
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昨日、人を思い出すのにメガネがどうとか男女がどうとかを書いたが、それ以前に重要な事があった。
まず「人かどうか」だ。
あれ、この人こないだ会った人だっけ、と考える対象が自動販売機やポストではあまりに間の抜けた話である。
と、この人は何を言っているんだ。
人であることくらい当たり前のように判別できているだろうが。
そうおっしゃる御仁もいるだろうが、ちょっと待ってほしい。
それで済ませていいのだろうか。
それで済ませてしまった場合、特に何も進展しない。
進展、したいじゃないですか。
それに、昔「ゼイリブ」という、普通の人にまぎれて宇宙人が潜みまくっているという怖い映画があった。
「ゼイリブ」によると結構混ざっているらしいのだ、人じゃないやつが。
という2つの理由からも、人と判別する前提は前提で収まってはいけない。
むしろ、ちゃんと「人かどうか」を意識を持って判断しなければならないのだ。
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簡易版 人かどうか判断
・驚かせたときの跳躍力がせいぜい50cmであること
・透けていない事
・鏡にちゃんと映る事
・腕時計に向かって話しかけていない事
・塩気のあるものを食べている事
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簡易版じゃない場合、DNAを検査するだとかが必要で時間がかかる。
これらは僕が考えた時間のかからない方法で、まあもうこの話はやめますかね。

見た目が何割か。 その1

僕は人を覚えるのが非常に苦手だ。
全然覚えられない。
ということでまず「知り合いらしい」人と会ったときは、僕はまず「メガネをかけているかどうか」で思い出しの糸口を見出そうとする。
実は性別より先ということが、回顧してみて判明した。
おどろき。
僕が「あれその人、メガネかけてたっけ?」と聞いた時、まずはこのふるいにかけているのだと考えていただけると幸いである。
次に性別。
名前を聞いたときはたいがい名前で判断できるから助かるが、面と向かってだと緊張する。
それは「性別を間違える事は相手に暴力を振るうに等しい」と考えているためで、何が困るかというと世界には性別の判断に困る中年が多く、心の中では「中性の中年」と読んでいる妖精層が問題なのだ。
妖精のように中性に見えるのは良いが彼ら彼女らは妖精ではなく、まあ妖精であったとしても「暴力」はいけない。
ということで、覚えていない知人に対しては、男女を見た目で判断するという労力を払わなければならないのである。
次回。

グラタン

僕がオニオングラタンスープをあまり好きではない理由は、グラタンと言いつつクリーム的なものがなく、あれではコンソメスープにチーズトーストが浮かんでいる。
ただそれだけじゃないかと失望した経験があるからだ。
同じ理由でチーズフォンデュも好きではなかったが、これは昔食べたものがワインでチーズをといたものだったというのが原因。
とろけたチーズのみを用いる事を期待していた僕は、このまがい物のチーズフォンデュがおいしくなかったこともあり、むしろ嫌いになった。
ワインでチーズをとくものが本格派なのかネイティブなものなのかはわからないが、ともかくだめだった。
しかし近年、カマンベールチーズの外側を器にして、その中身をとろとろにして食べるというチーズフォンデュの存在を知ってから、例えこれが簡易版なのだとしても、人それぞれ自分の好きなチーズフォンデュを創造してよいという事に気づかされた。
愛に色々な形があるように、チーズフォンデュにも色々な形がある。
ということで、僕のオニオングラタンスープを模索するべく、まずはグラタンの作り方を習う事にする。

爽やかテイスト

このあいだ量販店で見かけた「氷砂糖」にはこんなフレーズが印刷されていた。
「心にすみわたる爽やかなテイスト」
「すみわたる」だったか「しみわたる」だったかは曖昧だが、どちらにしてもちょっと「氷砂糖」を過大評価し過ぎなのではないかと思った。
「テイスト」というのも、少々無理がないか。
しかし一方で、「氷砂糖」の持つ無垢さ、清純さにも気がついた。
確かに、氷砂糖は口に含むと優しい甘さのみを出してくる。
他の無用な風味などは出さない、何かの結晶のようなそれは、野球少年がただ野球にいそしむ姿、マネージャーのドラッカーをただ読みまくる姿や逃げ場をなくした猫が全然通れなさそうな隙間に頭を何度もがんがんやる姿。
そんな一途な姿勢を思い出させる。
そう考えると、大げさなキャッチコピーと本人の純朴さから、なんとなく氷砂糖のことが昔のアイドルのように思えてきた。
うろ覚えだが、昔のアイドルは確か全然通れなさそうな隙間に頭を何度もがんがんやっていたというし。

新橋にて帽子屋。 その2

【あらすじ】
新橋駅に出てた路上販売の帽子屋が、最近いない。
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見なくなって一週間あまりが経過し、あの外国人はもう国に帰ってしまったのだろうとあきらめた。
確か、カナダの国旗が飾られていた。
あの、カナディアンマンの顔の70パーセントほどを占める楓の葉。
ホットケーキにかけると魔法のようにおいしくなるメープルシロップ。
僕にとってカナダはこのくらいの引き出ししか無いのだが、もしあそこの帽子屋で帽子を買っていたなら、「カナダ、鹿のもこもこした帽子」。
これが追加される。
それにしても、なぜあの人は路上で鹿の帽子を売っていたのだろうか。
もしかしたら鹿の帽子はカナダでは違法なのではないだろうか。
さすがに日本で鹿の帽子が違法、ということはないと思うのだが母国で違法だから、何となく路上販売を行い、何かあったらすぐに逃げられるようにしていたのではないだろうか。
というか、何かあったから逃げてしまった状態なのだろうか。
そもそも、カナダで鹿というのは、もしかしたらトナカイの事なのではないだろうか。
と、帽子屋がないせいでそんな憶測をしながらそこを通り過ぎる日々に、ついに終止符が打たれた。
知人の話によると、その帽子屋は路上販売する時間を変えたらしい。
僕はその時間にはそこを通らないのだ。
ちょうど知人と出会っている最中がその時間という事で、試しに行ってみるとあった。
鹿の帽子屋だ。
もう次はないと思い、一番気に入った帽子を手に取る。
え、7500円?。
これは、何日節制の限りを尽くさねばならないのかね。

新橋にて帽子屋。 その1

新橋駅の近くで、何だかもこもこした帽子を売る外国人が出没している。
値段は見えず、何か鹿の皮の、ちょうどイヌイットがかぶっていそうな帽子。
今、「イヌイット」を「犬一頭」と打ち間違えて、ああこうやってなぞなぞは生まれてくるんだなと感心しながらも、まあ帽子が路上に並べられている。
そこを通るたびに、気にならない訳ではないが「こんなにもこもこした帽子はいらないか」と考えていたのだが、最近こつ然と帽子が路上に並べられている事がなくなった。
そう書くとそりゃあ普通は帽子が路上に並べられていることなんてそうはなく、あるとすれば帽子屋が転んでばらかしてしまったのが奇跡的に奇麗に碁盤上に配置されたのか。
あるいはたまたま帽子をかぶっていた団体さんがフグ毒にあたってしまい、昔の民間療法を思い出したおじいちゃんの指揮のもと、頭だけ出して体は全部土に埋められてしまったシチュエーションのとき。
そのくらいしかなく、要は「帽子が路上に並べられている事がなくなった」とは、その外国人がいなくなってしまったということなのだ。
こうなると俄然、気になってくる。
なんだかんだいって帽子屋の横を通り過ぎるのは楽しかった。
僕は、あの帽子を要していたのではないか。
そしてその帽子屋はいない。
なんだか、是が非でもあの帽子を手に入れたくなってきてしまった。

お願い致します。

ということで、先日のブログは「以上、よろしくお願いします。」で締めたのだが、これがけっこう気になる。
世間、特に会社の中でなのだろうか。
メールの最後にはこれを付ける事が一種の礼儀だというのだ。
しかし、例えば先日のブログは「以上、よろしくお願いします。」で締めたわけだが、あの内容でどう「よろしくお願い」したのか、僕はわからない。
おそらく相手もわからない。
このわからなさは、一般的なメールにも通じると思う。
例えば「最近寒いっすね。今度鍋でも食べますか。以上、よろしくお願いします。」というメールの場合、まず「っすね」というところから相手が先輩あるいは「っすね」で比較的たやすく操作できる年上だということがわかるが、この場合の「よろしくお願いします。」は一体何なのだろうか。
相手に対して、寒さをどうかしてくれるよう頼んだのだろうか。
それとも、鍋のセッティングをお願いしたのだろうか。
先輩あるいは比較的たやすく操作できる年上に対して、このようなことをほいとお願いしていいのだろうか。
大人の判断となると、「寒いから鍋でも食べますか、という問いがあったことを気に留めといてください」ということにでもなるのだろうが、時としてこの文面は「以上、よろしくお願い致します」などと「致します」がついたりして、ちょっと厳か過ぎやしないかと心配になるくらいの返信もあったりなかったりで、いやいやあなたが比較的たやすく操作できる年上だって言っている訳ではないっすよ先輩。