気さく吹きすさぶ。

僕の家族はそろいもそろって優柔不断なので、誰かが生け贄になる必要がある。
それはたいがい「どこに食べにいくか」というもので、そのなかでたいがい僕が「なんか分からない、行った事のないとこにしよう」と提案するわけである。
その日は誰かの誕生日で、そうケーキを買ってこようかというとき、またそれが発生した。
どこのケーキ屋がいいのか。
最近我が家で評判のあそこにするか。
あそこはいつぞやのイベントで食べたぞ。
なんてことになりながらも決まらず、結局僕が「なんか分からない、行った事のないとこにしよう」と提案。
目的なく車を走らせたのである。
人間には、どれほどの「よく通るが入った事のない店」があるのだろうか。
それが「よく通るが入った事のないケーキ屋」になると少しはしぼられるだろうが、どちらにせよ多数。
多摩川の河川敷にあるグラウンド数よりも多いだろう。
そんななかの一店にてケーキを所望しようと思ったのである。
僕らが思いついたのはそう、まさに「よく通るが入った事のない店」で、とにかく「よく通るが入った事のない」ことで我が家で有名だった。
喫茶店らしきそこは、ケーキも売っているらしく、とにかくらしいことしか分からない。
今回のようなケースにはうってつけの分からなさだった。
台風の中、我々はケーキが買えるのかはわからないそこへ向かっていった。
道路は水浸しで、なんとなくケーキを買いにいくような天気ではない。
それでもそこに到着した。
そして妙にそこが混んでいることに気づいた。
駐車場が満車なのである。
案外有名なのかもしれない、台風なのにこんなに混んでいるなんて。
搭乗者が雨の中、喫茶店の中へ入っていく。
そしてすぐ出て来た。
なんと、ケーキは先ほどの客で売り切れてしまったのだという。
なんだ、「よく通るが入った事のない店」は「よく通るが入った事のない、ケーキがうまいらしい店」だったのだ。
仕方ないと車を発進させようとすると、店内からマスターらしき人がずぶぬれになりながら走ってきた。
ケーキの買えなかった我々に申し訳ないと思い、売り物ではないがケーキの切れ端をロールしたものを持ってきてくれたのだ。
それは甘さ控えめで、しかも「ケーキの切れ端」という、それだけでおいしさが見出せそうなもの。
実際、非常にうまい。
よって、この店は「よく通るが入った事のない、ケーキがうまくマスターが気さくな店」と、けっこう希有な存在となった。
台風に誕生日の人が家族にいて、よかった。

あやかし

最近のテレビ番組はいつからそうなったのか。
ぼやかしやモザイクがいろんなところにある。
広告的な何かに触れるのだろうか。
町並みの映像でも、メーカーロゴの入った看板などは軒並み見えなくなっている。
人間とはあさましいもので、どちらかというとその消された方が気になるものだが、ともかく消す明確な理由が分からない限りは、なんとも妙な気持ちになるものだ。
しかし、例えばこれはどうだろう。
「グルメレポーターが何かを食べているが、その口元にモザイク」
以前も触れたかも知れないが、ある有名な芸人は物を食べるという行為を恥ずかしいものと考えた。
あんがい、そう感じている人は多いかも知れない。
口元のモザイクを見た場合、そういうことを思い出す人もいるだろう。
しかし一方で、何の変哲もない「口のもぐもぐ箇所」をなぜ隠す必要があるのか、疑問に持つ人もいるだろう。
このグルメレポーターの口は横に開くのだろうか。
舌が二枚あるのではないだろうか。
夢広がるのである。
ぼやかし、モザイクは本来、隠す目的があるのだろうが、このようにむしろ想像を膨らませてしまうこともあるわけだ。
首元にモザイクがあれば、ああマフラーのねじれがうまくいかなかったんだな。
両脇にぼやかしがあれば、ああ汗かいちゃったんだな。
正露丸にそれがあれば、ああどこのやつか判明してほしくなかったんだな。
コーラ状の飲み物にモザイクあれば、ああペプシの提供なのか。
しかしコーラ状の飲み物にモザイクがかかると、むしろ炭酸感が出ていいなだとか。
どうであれ、こう支離滅裂に列挙しているのは、そうまとめる気がぜんぜんないからなの。

たいてい口内炎

口内炎ができていて、もう何を食べても、その50パーセントくらいしか良さがわからない状態だ。
氷で冷やしたりモンダミン的なもので痛みを麻痺させたりもするが、それは一過的な効果しか見出せず、まあモンダミン的なものは治癒にも役立っているかも知れないが、とにかく痛い。
下唇を噛んでしまったのだ。
口内炎は上の歯と下の歯のあととして2つあり、どうも上の葉の傷が悪化してしまったようだ。
こう、口内炎の痛さを実感していると、なぜ吸血鬼が上のキバをわざわざ人に見せるようにしているのかが何となく分かってきた。
あれはキバの収納スペースがないのだ。
そして無理に口の中にしまおうとすると口の中を傷つける。
本意ではないキバ出しなのだろう。
おそらく、彼らのキバから吸血鬼である事を指摘した時、彼らはあわててキバを隠そうと口を閉ざすだろうが、そのとき「つっ」と言うに違いない。
「いつっ」かもしれない。
どちらにせよ吸血鬼には吸血鬼なりの不便なことがあるようで、それなら「口内炎にイソジンを付けると治りが速いよ」とか教えてあげたいところ。
だが、吸血鬼とイソジンを考えた時、これまた「吸血鬼には吸血鬼なりの不便なこと」に触れたりやしないかと、どうも異種間のコミュニケーションは難しく。

来世がいっぱい。

今年の5月ごろに、ある場所で野生のカブトムシの幼虫を5匹ばかりつかまえてきて飼っていて、気づけば4匹は成虫で生まれていて、もう1匹はどうやら成虫後に逃げてしまった。
そしてその4匹もさすがに11月ともなればもう死んでしまっていて、そう今は9月17日ではなく11月10日で僕は泊まり明けだ。
そんなカブトムシたちは、飼育ケースの土の中に卵を産んでくれていた。
これはうれしいことなのであるが、その事に気づいたのは既に土の中にキャラメルコーン状の幼虫が大量に発生していることがわかったときで、結果卵は見ていない。
僕は卵のまま越冬するのかと思っていたのだが、そうではなかった。
まだ成虫が生きているときにもう生まれてしまっていた。
透明なケースからちょい見えする幼虫はおもしろいが、やはりイモムシタイプのやつなので、外気日光には弱そうで、こちらの心情的にもあまり触りたくない。
そんな要因が重なって、いったい何匹いるのか、ぜんぜん分からない。
もう、たぶん来年5月くらいまでわからない。

難解

「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画には「エニグマ」という登場人物がいて、その人は「恐怖した相手を紙の中に閉じ込める」ことができる。
劇中にて主人公のしぐさを観察。
恐怖したときの「くせ」を見せた時、見事に紙の中に閉じ込める事に成功していた。
本当にそんな能力があったら、まあ便利な事は便利なのかもとぼんやりしていると、気になるセリフがあった。
どうも「物」も閉じ込める事ができるらしく、例えばラーメンをファイルすることができるというのだ。
おそらく「物」を閉じ込めるときは「恐怖のしぐさ」なんてものは考えないでいいのだろうが、どうだろう。
もし「物」でもそれが必要だった時、例えばの「ラーメン」。
「ラーメン」が見せる「恐怖のしぐさ」とは何だろうか。
そんなことを考えた時、間違いないのは「ラーメンが恐怖のしぐさを見せるとき」が「すすられるとき」以外には考えられないということである。
まあ、確かに茹でられているときも湯切りも怖そうだが、やはり食べられてしまうときが一番怖いに違いない。
見せているはずなのだ、ラーメンは。
すすられるときに恐怖の仕草を。
おそらく「エニグマ」はラーメンをすするふりをして恐怖させ、紙に閉じ込めるのだ。
したがって、ラーメンをすするときに白目むいて下を見ているやつは十中八九エニグマなので、要注意だ。

こぼれだまシフト その2

昨日からの続きです。
【あらすじ】
「こぼれだま」ってなによ。
=====
「隠し球」が「隠し球」以外の何者でもない点に対して、「こぼれだま」はちょっと気をつけなければならない。
それは一見、たいがいの球技にありそうなところである。
例えば、僕が「こぼれだま」は「サッカー」あってこそ生まれた言葉だと先日記載したが、そのサッカーについて。
一般的にサッカーでの「こぼれだま」は、敵味方がこんがらがってしまったときに、追っていたボールが両チーム意図せぬ方向へ転がっていく。
調べていないがそういう感じのことだろう。
球技において球というのは、得点に絡む重要なものであるから、両チームが意図しない状態というのは、もう「球が球の仕事をしていない」ようなものである。
さて、サッカーをこう、45分とか見てみよう。
このとき、我々は球が「仕事をしている時間」と「仕事をしていない時間」を明確に分ける事ができるだろうか。
要は、どこからどこまでが「こぼれだま」で、どこからどこまでが「芸術的なパス」なのか。
難しいのではないだろうか。
しかし、サッカーにおいてこうも明確に切り分けられない「こぼれだま」であるが、やはり「サッカーが生まれたあとにこぼれだまが生まれた」と僕は考えたい。
ラグビーを見てみよう。
あれはよく知らないが、なんとなくサッカーっぽい規模のスタジアムで、サッカーっぽく大人数で球を抱いたり追いかけたりするスポーツだったと思う。
僕は、ラグビーについては、球は100パーセント「仕事をしている」と断言する。
それは、あの球の形状を見れば分かる。
あっちいき、こっちいき。
そもそも「両チームの意図しない状態」を維持しようとしているのだ。
だから、「球の仕事をしていない」ことが仕事のようなもので、あいつはとにかく全力で仕事をしている。
土曜日も仕事してる感じだ。
で、サッカー以外でのこぼれだまをこう思い出そうとしてみると、ほらやっぱり爆笑問題が思い出されちゃうので、終わりに。

こぼれだまシフト その1

僕が最近、これは確実だなと思えるようになってきたことは「こぼれだま」という言葉は「サッカー」が生まれたあとの言葉であるということだ。
あの、「こぼれだまを誰某がシュート!!」という、あれである。
当たり前なことではあるが、結構意識していないと忘れがちな感じもする。
意識が必要である。
そして同時に、「こぼれだま」の定義はなかなか難しいのではないかという点についても気になってきた。
例えば野球の「隠し球」。
これも「こぼれだま」と同様、「野球」が生まれたあとの言葉であろう。
それはそうだ。
もし、「野球」が生まれる前から「隠し球」というものがあったとしたら、それはどんなものか。
想像すらつかない。
いや、うそである。
想像つかない訳ではないが、想像した多くが、語るにはあまりに爆笑問題の二人に足を向けて眠られないことであり、申し訳ない。
まあそれは置いておいて、「隠し球」はわかりやすい。
まず、人類の半分がね。
ああ、置けていない。
それはひからびて引っ付いたみそ汁のわかめのように、僕の心にへばりついてしまった。
それでも涙をこらえてそれを置き、「隠し球」がいかに定義しやすいかというと。
それは「隠し球の行為」以外に「隠し球」と言えるものがない、というところだ。
野球選手、主に守っている方のチームの誰かが、おもむろに球を隠すのである。
これ以外、「隠し球」に相当する行為は、日本では知られていない。
すなわち、今日あなたがすること全ては「隠し球」ではないとほぼ断言できる。
かなり突飛な事をしてくれてもかまわない。
それも「隠し球」ではないから。
そういう点でも、我々は「隠し球」を「隠し球」以外のものに勘違いする事はない。
ところが「こぼれだま」である。
っていうか、長くね、これ。
次回。

イスラム帽子を探す、西荻窪で。

調べてみたが、布状のイスラム帽が見つからない。
しかし今回の僕はしつこかった。
自分でも感心するほどの調べにより、何なら西荻窪のアラビアンな雑貨を売っている店があることを突き止めたのだ。
ここを知るには多大な犠牲を払ったのだ。
多少の電気料金、睡眠時間。
イスラム帽があってもらわなくては困る。
だがなかった。
きらびやかな雑貨はあったが、イスラム帽はなかった。
しかも店の奥から出てきた店員さんが笑顔だ。
用事のないお店の店員さんがやさしいのは、もう申し訳なさすぎて心が苦しいのである。
すまない異国の店員さんよ。
あなたが僕の求めるイスラム帽をかぶっていてくれたら、「それほしいんだ」と言えるのだが。
僕には彼にイスラム帽を示す手段も思いつかず、店をあとにした。
夏は夜。
夏のいいときにはまだ時間があるので、このまま吉祥寺まで歩く事にする。
そちら方面の商店街を歩いていくと、面白い店があった。
何やら奇妙な形の鞄やオブジェが並んでいる。
それは主に虫をかたどったもので、男の子にはうれしいねえ。
よくできていたので店内をうろついてみると、帽子が売っている。
それは僕の求める帽子ではなかった。
布状ではなく毛糸。
しかも何やらもこものの装飾。
それでもツバのない、かといってニット帽ほど深くもない。
イスラム帽と呼べなくもない帽子。
買ってしまった。
その帽子は全然悪くはないのだが、なんとなく傷心の購入。
センスのいいお店の紙袋が夕陽に照らされた。
布状のイスラム帽探し。
イスラム圏のゲームなら「旅立ちの村」で50Gくらいで売っていそうなのに。
ともかく今回の散策を顧みる限りは、それはどうもライフワークにもなりそうな雰囲気なのである。

イスラム帽子を探す

ディズニーシーのキャストさんがかぶっていた帽子がサイコー過ぎて、これはちょっと本腰を入れて探してみるかとネットで調べてみた。
というのも、その形状の帽子(サムネイル参照、すぽっとかぶるヤツ)の名称が今まで分からなかった。
そしてそれほどちゃんと探していなかった。
調べていくと、名前が判明した。
「イスラム帽」というらしい。
僕がずいぶん長い間かぶり続けていた帽子はイスラム帽だったのか。
少し感慨深い気持ちになっていると、なんと専門サイトを見つけた。
なんてすてきなんだ。
と、かなりすてきなのだが、肝心の「ディズニーシーのキャストさんがかぶっていた帽子」的なものがない。
それは確か布状の素材だったのだが、このサイトにあるイスラム帽は全て手編み状である。
布状のものはないのだろうか。
確かに。
確かに簡単な形状だから、手作りという選択肢もないことはない。
布状のやつを作ってしまえばよいのだ。
しかし、僕には妙な消費者気質のようなものがあり、できれば購入したい。
そして、購入という事は売られているということで、それは需要が複数あったことを示す。
布状のやつが僕の個人プレイではなく、一般的にも認められたものと言い換えられるのだ。
よって購入の過程を踏みたい。
しかしないのだ。

かすかな味

ひとし「なあ、鳩って食べた事ある?」
いやあ、食べた事ないなあ。
外国では食べるんだっけ?
ひとし「そうなんだ。大人の鳩だったけど、おいしかったな」
どんな味だった?
ひとし「そうだなあ。少し乳の風味がするかな」
え?
ひとし「母乳だよ」
え、ちょっと待ってよ。
確か何かの本に母乳の味のする肉の話があったけど。
鳩もそうなの?
ひとし「まあ、そうだった」
それって、あれ?
ピジョンミルクとかけてたりする?
ひとし「えへへごめん。実はそうなんだ」
・・・よくわからないけど、たぶんピジョンミルクって人の母乳の味なんかしないんじゃないかな。
ひとし「・・・まじで?」
あれからひとしは行方不明になり、学校、地域含めて大騒ぎになった。
あまりに突然の失踪だったから、探しようもなかった。
しかし今年。
あれからもう15年が立とうとしているとき、ひとしから年賀状が来た。
「あけましておめでとう。結婚しました。ほんとだ」
あ、あのやろう!!