ウォーミング

なんとなくありそうなウォーミングアップを考えてみる。
1:フードファイターは試合前、白湯で胃をあたためる。
2:カポエイラ選手は試合前、コタツで足をあたためる。
3:会計士はいつも、小2の算数ドリルを携えている。
4:電源を入れて「ジョーン!」となっている時、パソコンはハードディスクを必要以上に回してみている。
5:覆面パトカーの朝は、着脱式赤色回転灯の付き具合を計量的に測定することから始まる。

ポツダム

ドイツのポツダムで宣言したから「ポツダム宣言」。
このメソッドは、人に勇気を与える。
・別府島田屋ぬるぬる宣言
背景
たいがいのホテルの大浴場には桶が置かれているが、その裏は温泉の成分のせいなのか不潔なのか、ぬるぬるな事が多い。
ホテル側もぬるぬるにならないように注意してきたが、そのためには随時桶を交換する他なく、入浴時間を制限することになってしまう。
そのような現状を考慮し、全日本温泉教会が別府の老舗旅館島田屋にて「ぬるぬるなのは仕方がない」と宣言した。
・イトーヨーカドー宣言
背景
全国にはぱっとみ「イトーヨーカドーじゃない?」と思わせるハトのマークの看板がある。
しかしよくみると「ヨークベニマル」「ヨークマート」と、一応別のスーパーマーケットなのである。
この違いについて言及を求められ続けてきた伊藤さん(たぶん)がお気に入りのイトーヨーカドー食品売り場にて、ハトのマークの看板は全てイトーヨーカドーあるいはその仲間であると宣言した。
・国会議事堂宣言
背景
一応、たいがい。

戦いはほら目の前に。

最近、3DSの「パルテナの鏡」というゲームを買ったのだが、たいそう面白い。
しかし酔う。
それはよく言われている3Dに見える機能によるもの、というよりは、単純にめまぐるしく視点を変える事ができる。
それに弱くなったようだ。
思えば前にも書いた気がするが、アーマードコアというゲームも得意だったのに、酔うようになってからは1日1時間くらいしかできない。
小学生が許されたテレビゲーム時間をいやおうなく守っている状態である。
と、気づいた。
最近のゲームはクリア後のおまけも含めると50時間くらいかかるものもある。
モンハンはあれもこれも欲しい感じになるため、100時間とか、もっとかかる。
それを考えると、僕らが幼少の頃言われていた「テレビゲームは1日1時間」というのは一体、何だったのだろうか。
考えるに、お父さんとお母さんとお姉さんのみたいテレビが各7.7時間弱あったんだと思う。

生存競争その2

昨日からの続き
【あらすじ】
パン食い、白い粉から飴玉を探す運動会の競技。
あれって、何?
=====
先日の白い粉からの飴玉獲得競技と比べて、パン食いは「競技を成功させたか」の判断がやさしいだろう。
パン食いにはかじりあとという、証拠が残るから。
例えば、「競技の直前、前もってパンをひとくち食べておく」
これにより、ゴール時にもぐもぐしたり、判定員に口の中のパンを見せる事ができる。
だが、この不正に対する確固たる証拠は、トラック途中にぶら下がっている。
かじりあとのないパンがそれだ。
くわえて、そもそも「競技の直前、前もってパンをひとくち食べておく」というのも、周りの人は不思議に思うだろう。
「宗教的な何か?」
「ワインもいかが?」
パン食いの判断は簡単だ。
むしろ、パン食いは遊び部分が多い。
例えば競技前、有名店のパンであることを放送するのは、結構ナイスだ。
また、焼きしめた大きいを用意するのもいいだろう。
選手全員が吊されたパンの前で池のコイのようにぱくぱくし続けるだろうし、固過ぎて吊す事ができないかもしれない。
砂利の上に置かれたパンが置かれている。
誰も競技の一部とは思わない。
二つの糸に渡ってバケットを吊すのもいい。
コロネが地面に落ち、釣り針にチョコがこびりついているなんてのもいい。
まず釣り針のところから、学校側が謝り始めます。
と、ここまでで分かるように、パン食いも白い粉のも、ちょっと競技として特異である。
そして、僕たちは宙づりになっているパンをそれほど食べたくないし、白い粉の中に落ちている飴をそれほど食べたくないのである。

生存競争 その1

運動会の障害物競走において、とにかくよく分からないのが「パン食い」「白い粉の中から飴玉を取る」という障害だ。
これは今までも触れた事があるだろう。
とにかく「触れやすい」点が多い。
例えば「手を使わないで懸命に口を開けるところが面白いと思われる点」。
これは、考えようによっては差別的な問題に発展しそうな気がする。
そして人が必死に物を食べようとする点。
誇れる点かどうかはさておき、近年の日本においてはあまり見られない光景だけに、上記「面白いと思われる点」のひとつを担ってしまう。
今日、考えるところとしては「上手くいったのかどうかの判断が微妙」という点だ。
例えば白い粉から飴がどうしても見つからなかった時、あたかも見つかったかのような動きをして競技を進行した場合。
それを正確にジャッジできる人材が小学校教員陣に存在するのかというと、すこぶるあやしい。
また、競技直前に前もって飴玉をなめておくという不正も簡単だ。
「あ、青りんご味ですね。あなた、ずるしましたね?」
こんなことはないのである。
「今から不正がなかったか、白い粉の中の飴の数を数えます」
こんなこともなく、むしろその確認作業を、やはり手を使わずにやっていたら、おまえらセンスよすぎと誉めたくなる。
もちろん、悪意がない場合でも、単純に競技中に飲み込んでしまうアクシデントも十分考えられ、とにかく「上手くいったかどうかの判断が微妙」なんである。
次回はパン食い競走。

四季仕分け

冬が終わったのか、春が始まったのか。
ちょいちょい発生していた「昨日は暖かかったのに今日はくそ寒い」という気の利かない気候は落ち着きを見せ、ほんのり過ごしやすくなってきた。
これはどうなんだろう。
冬が終わったのか、春が始まったのか。
これだけ考えると、こんなことが気になったりするものだ。
「冬は終わったのだが、春がまだ来ていない。そのあいだは一体何なのだろう」
学校は終わったのだが、バスがまだ来ていない。
そのあいだと言ったらもうケータイでリバーシをするくらいしかなく、仕事は終わったのだが、なんとなく他の人が忙しそうだ。
そのあいだと言ったらパソコンで何か難しそうなことの書いてあるドキュメントを開いたり閉じたりするくらしかない。
そんななか、冬と春のあいだとは何なのだろう。
そんな利便性に欠けることを考えるのは、四季と分けているせいだ。
冬のひとつまえ

冬のひとつあと
逆冬
これでいいじゃないか。
全部冬の関係のやつと考えれば、今で言う「冬と春のあいだ、の隙間」なんて気にする必要はなく、「冬と冬のひとつあとのあいだ、の隙間はまあ冬の仲間だよね」と納得できる。
英語の教科書で出てきそうな「サーフィンをするサンタクロースの切手」も、なんとなく「逆冬」という言葉を使うと説明しやすそうだ。
最近、暖かくなった。
逆冬に近づいたんだから、それは暖かくなるよね。
前後もいらないな。

厄よけ

こんな感じのことを聞いた事がある。
「神主の投げたこんぺいとうを食べると、厄よけの効果があります」
あくまで「こんな感じ」であり、この例は今考えた事なのだが、要は「厄よけの効果があること」。
主に祭りなどで、言われていないだろうか。
「神輿を担いできた男達に触れると、厄よけの効果があります」
「祭りへ協賛金を払うと、提灯に名前が入るのと、厄よけの効果があります」
「身内の墓の卒塔婆を燃やした灰と、塩を練り込んだものをこめかみに付けると、厄よけの効果があります」
すべてうそだが、どうだろう。
なんとなくそれっぽくないだろうか。
うそなのにそれっぽい。
そこが重要で、ならばどんなことにでも「厄よけの効果があります」でいいじゃないかと思えてきた。
「朝食を取ると、厄よけの効果があります」
「元気よくあいさつすると、厄よけの効果があります」
「笑顔で会社に行くと、厄よけの効果があります」
がんばれ新入社員。

銀河の赤潮は遠浅の砂浜から。

あさりの酒蒸しを食べているときに気になった。
火を通すと殻が開くのである。
当たり前だが、不思議な点もある。
それは「火を通す→ピンチ→より殻を閉じようとするはず」という考えだ。
これはそう間違っていることを言ってないように思えるのだが、実際は開く。
開いたあさりには見事な貝柱があることを思い出した。
殻と貝柱がはずれてしまう事で、あさりは開いてしまうのだ。
となると、ひとつの事実が判明する。
「あさりの殻は、開くのがデフォルト」
物が開閉するには、一般的には以下のようなしくみが考えられるだろう。
1:開いたり閉じたりを全て能動的に行う
2:基本開いていて、閉じたいときにだけ閉じる
3:基本閉じていて、開けたいときにだけ開ける
勝手ながら、僕はあさりについては3の印象が強かった。
それはその機構、貝柱の構造に特に注目していなかったというものもあるが、何よりも防御。
食事など、防御を捨ててまでも必要なことをやるときだけ開ける方が生存率が高そう、というイメージからだった。
しかし思い出してみると、例えばスーパー。
トレイに入れられているあさり達は、薄く口を開けている。
ものによってはモモヒキのような水管がでろーんとしている。
あれは必要な事ではないだろう。
おそらくあさり自身が弱っていて、しかも殻、デフォルト開くわけだから、ちょい開きしてしまっているのだ。
いわば油断。
そんなやつはつついてやるといい。
店に人に怒られるが。
殻のデフォルトが開くか閉じるか。
どちらにせよ、少しあさりへのイメージが変わった。
開くでも閉じるでも、弱ってきたら致命傷になりえることには違いない。
開くのがデフォルトだったら、弱ってきた事でちょい開きが多発。
あさり本体を捕食者にさらすことになってしまう。
一方で、閉じるのがデフォルトだったとすると、弱ってくるとモモヒキが出せない。
密室での死を迎えることになる。
どうやらあさりは、蠍の火になる素質を十分に持っているんである。

ミッキー

【実録!! ミッキーの誤った使い方】
=====
「ちい散歩、今日はミッキーの本場ディズニーランドに来てみました」
「映画ファンタジアは稀代のエンターテイナー、ミッキーの子供とのふれあいと通じて揺れ動く人間性を描いたものです」
「ミッキーの地元、浦安市の閑静な住宅街」
「ディズニーリゾートラインは、いつもミッキーが見える路線です」
「十二支をディズニーのキャラクターで言ってみましょう。ね、うし、とら、う、たつ、ミッキー」
「ミッキー算式にディズニーのキャラクターが増えてきている現状」
「うらにわのミッキーのおはかに花束をそなえてやってください」
「バリウム検査の結果、残念ながら悪性の隠れミッキーが見つかりました」

不養生

「りんごが赤くなると、医者が青くなる」というのを聞いたことがある。
りんごの有用性をうまいこと言いたいのだろう。
トマトだったかもしれない。
一方、こんなことわざがある。
「風が吹けば、桶屋がもうかる」
これらは、本来の意味はまったく異なる。
だが、後者はその意味が意味であるから、こう述べることもできるだろう。
「りんごが赤くなると、桶屋がもうかる」
桶屋の方は「結びつかないようなことでも実際は、思いもよらぬところに影響があるよ」という意味だから、風が吹こうがりんごが赤くなろうが、桶屋と関係なければそれでいい。
ことわざは失われないのである。
そうなると考えなくてはならないのが「桶屋儲かる要因多すぎ」である。
桶に関する事以外のことをすれば、桶屋は必ずもうかる。
もう桶を作らなくていいくらいになる。
もちろん、とたんにもうからなくなるが、浪費しなければ大丈夫だろう。
桶屋ばんざいである。
ではこちらはどうだろう。
「風が吹けば、医者が青くなる」
白衣の下に何か着ればいいのに。