はたらくのりもの

おさそいを受けたので、飲みに行った。
その場でわかったのだが、僕は乗り物関係に明るいというフレコミで呼ばれたらしい。
これは乗り物酔いをしないとかいうことではなく、いわゆる「てっちゃん」に代表される、乗り物好きのこと。
僕は去年「九州新幹線」に乗っているので、それがキーになったようだ。
しかし、僕はかなり乗り物に詳しくない。
バスにしたって時刻表は見ず、バス停で次来るのが遅いとなったりすると次のバス停へどんどん歩いてしまう。
今の例はあまり「詳しくない」の例になっていないが、とにかく詳しくない。
もつ鍋が出てきた。
梅酒が好きなのでそればかりを注文。
ぽん酢と豚骨ベース、2種類のもつ鍋が出てきたが、「かなりおいしくない」と評されたぽん酢バージョンもいたっておいしく感じられる。
僕は、乗り物は詳しくないが、昔はトランスフォーマーが好きだった。
今のギザギザ動くほうではなくて、アニメやどんくさい感じのロボットの方。
もちろん、これを乗り物の話題のときに持ち出すのはやめた。
「乗り物が変形するのだが、変形後は乗り物じゃない」。
そう考えているから。
もつのどこかの部分は、あぶらっ気のないあぶら身のようで、うまい。
山芋をすりおろして揚げたものが好きなので、「山芋のタツタ揚げ」を注文。
しかし出てきたのは、山芋のぶつぎりを揚げたもの。
残念だったがすごくおいしかったので、よしとしよう。
乗り物の話は引き出しなくてできなかったが、乗り物に乗って帰ったし。

再検査

A「こないだの人間ドック、俺、胃カメラの再検査でちゃったよ」
B「それならまだいいよ。俺なんて胃カメラと肺のレントゲン、2つだもの」
舞の海「そういえば俺だって」
AB「身長の再検査だろ?」
舞の海「いや、メタボ」

ありがとう緊箍児。

椅子に寝そべりながらビーチでのんびりしてると、いつの間にか力士に取り囲まれている。
そんな状況だった。
半径10メートルくらいだろうか。
よくみてみると、彼らは私を中心に、隙間のないくらいの密度で円を描いている。
そして、例の「はっけよいのこった」の直前のポーズなのだ。
この状態が何かの比喩なのならいいのだが、今実際に起きているから困ったもの。
しかし私は、特にあわてることもなく、そばのオレンジジュースに手を伸ばした。
もし、彼らが一斉に突進してきたとしても。
そう、彼らはあのかけ声で突進する性質なのだから、来るとしたら一斉だ。
そう来ても、ある程度接近してきたあたりでお互いが密になりすぎてしまい干渉。
半径が少し減った時点で動きが取れなくなってしまう。
そう考えたのだ。
=====
先生、これは水が沸騰して分子が飛び足す寸前の、びんびん状態を表現したものなのですか?。
いいえ、「おいしさをぎゅっ」の、おいしさのことです。

ついで。

「立ってるやつなら親でも使え」というのは、こう見てみるとそれだけで結構いじりやすいが、僕が主にこれを聞いたのはコタツにまつわるエトセトラ。
たいがいはみかんの運搬係を決めるための言葉だったように思う。
などと言っているが、実は我が家にコタツはないので、一体どこで聞いたのだろうか。
ともかく、それは「ついでにやってもらえ」という意味を少なからず含んだ言葉である事は間違いなさそうである。
さきほど、この「ついで」というものの意味が気になってきた。
例えば「立ってるやつなら親でも使え」。
これに「ついで」の意味を見出しているとすれば、それは「立ってる親に何をしてもらえるのか」という事が重要で、そこが気になったのだ。
まずはみかん運搬係。
これは問題ないだろう。
そもそも運搬系は大丈夫だ。
やってもらえるか、親に対する敬意については疑問が残るが、少なくとも「ついでついで」している。
「ついでにパン焼いてきて」
これはちょっと難しい。
先ほどの疑問もさることながら、「立ってること」と「パンを焼くこと」はちょっと違うのではないか。
そう、少なくとも親は思う。
「ついでに特産キノコがある場所教えて」
モンハンである。
これも「立ってること」と「特産キノコがある場所」はちょっと違う。
ここ、キノコないし。
そんな風に思う。
「ついでにゴッホが自殺にいたった経緯を30字くらいでまとめてきて」
もう全然「立ってること」と関係ない。
むしろむずくなっている。
「ついでにコタツの温度下げて」
親怒る。
このように、「ついで」にしてもらうためには本来の動作とそうかけ離れる事なく。
しかもその動作と同等あるいは簡単でなければならない。
上記の例は、すこし「立ってること」と離れている。
人間の成長過程で、「何かにつかまりながら二足歩行ができるようになる」の次が「コタツの温度を下げる」であれば、上記の「ついでにコタツの温度下げて」は問題なかった。
親は怒らない。
何たって二足歩行の次にやってきたことだから。
しかしそうではなかった。
二足歩行の次はおばあちゃんをより喜ばせる、とかだった。
故にこれらは「ついで」にはなりえなかったのである。
上記のようなことをやってもらうなら、本来の動作のレベルをあげてもらう必要がある。
「ねえ、満漢全席のついでにパン焼いてきて」
やはり親怒る。
「パンが入る余地はねえ!!」

宣言、2012。

「人に気づかれないこと」を憧れ、一種のぜいたくと考える人がいるとすれば、彼は間違いなく時効待ちな人なのであって、一般的にはあまりいないだろう。
だがそれを実現しようとしたとき、どんな方法が考えられるだろうか。
まず思いつくのは「とにかく隠れる」というものだ。
例えば一昨日の「飽きているラーメン屋の店主に顔を覚えられたくない」というものに対してこれを適応するとどうなるか。
仲間あるいはたまたま入店しようとしている人が必要だが、とにかくその人に隠れる。
隠れまくる。
そうすることで、おそらく顔は覚えられることはないだろう。
しかし注意する点もある。
それは店主が「いつも声はしているが、姿を見せない客がいる」と気づかれてしまった場合。
この瞬間、目的の「顔を覚えられたくない」は達成不可になるだけでなく、むしろ強調されてしまう。
それを避けるにはもう、「声はするが姿は見せない」で有名そうな、座敷童の精神を絶えず持っておくことが必要だろう。
「覚えられたくない」ということなら、顔を見られたあと、それを忘れてしまうような事柄が生じる、というのもありだろう。
「入店客を見た後、なぜか必ず店員さんがグラスを落として割る」
どう実現するかはさておき、店主はグラスの対応に追われて、見た顔を忘れてしまうだろう。
もちろん、これにも注意する点がある。
「なんか誰かを見た直後に、何か起こるな」と気づかれてしまった場合である。
先ほどの座敷童の精神のくだりと類似しているが、どちらかというとこちらは「不吉な事柄の前兆のあなた」の意味合いが強い。
ちょうど座敷童のところを「疫病神」に置き換えるといいかもしれない。
「店がすごく忙しいときにしか、入店しない」のはどうだろう。
「顔を覚えられないようにする」ということについては、結構有効だと思う。
しかし、本日の「座敷童」「疫病神」の流れでいくと、ここは確実に「ぬらりひょん」が来る。
確かそういうやつなのだ「ぬらりひょん」は。
勝手に家に入って茶などを飲み、勝手に出て行く。
家の人は「そういえば誰かいたのに」と気づいたようなそうでもないような。
そんなんだった。
「気づかれない」とは、妖怪のことだったのか・・・。
それにしてもちょっと最近、妖怪系が多い。
もういいじゃないか、妖怪は。
楽したい時以外は当分、脱妖怪の方針を取っていきたい。
永田町、脱妖怪宣言!!
超斬新、唯一無二風刺が出ちゃったので、おわりに。

気づかれないことの話。

ステルスでも光学迷彩でもプレデターでもハイパージャマーでもデルトイの居間でも石川雅之の「自分を信じた男2」でも何でもいいが、結構僕は「気づかれない」事が多い。
僕を呼ぶ人の目の前にいたりするのに。
あのときの気分は、たとえ「あまりにラーメン屋に行き過ぎていて、そこの店主に顔を覚えられるのが嫌だ」という今月最高の悩みをもってしても、いいものではない。
挙手よりもすごいことをしているはずなのに。
そう思う。
しかしながら、一方で気づいてほしくないときに気づかれてしまうというのもある。
一時期、おまわりさん関係でよくそういう目にあった。
もちろん気づいてほしくないときとは言っても、犯罪真っ最中であるとか拘束具をバッグに忍ばせているとか。
カラスの死骸を背負っているとか暗視スコープを装着しているとかプリキュアのお面を頭にかけているとか、サンタの格好をしているが工具入れを手にしているとかではない。
理由のない散歩。
このときは、けっこう気づかれたくないのだ。
理由がないから、いわゆる「おまわりさん受けする回答」もない。
よって、例の質疑応答に少々時間を要してしまうのである。
こういったことからも、上記の「気づかれない」事は、解析する意義がある。
原因が判明すれば、それをもって交番前をうろうろしてもいいわけだから。
では「気づかれなかった」僕は、そのとき何をしていたのだろうか。
もちろん、何もしてなかった。
せいぜい、気づかれないことに対して気まずそうな顔をしていたくらいだ。

食欲の飽き

最近は比類なき万能感と、ぞうきんをしゃぶっているような暗澹たる気分が交互にやってきて、いわゆるそれって躁鬱?。
そう言える分にはどちらでもないんだろうけど、とにかく困っていることはある。
「そううつ」も絶対書けないだろうけど、そもそも「あんたん」ってこんな字なの?。
ということではなく、昼ご飯がラーメンばかりなのだ。
あれは困る。
何が困るかって、飽きる。
ラーメンに飽きて仕方がない。
故に冒頭のセリフは、ラーメンを食べない時の万能感。
飽きているのに豚バラチャーシュー追加の大盛りを頼んでしまって、それを前にしたときの暗澹たる気分。
そのことを詠っているのだと、今分かった。
それにしても贅沢な話である。
ラーメンに飽きるなんて思いもしなかった。
大盛り頼んじゃっているのだから、何だ好きなんじゃないという感じもする。
しかし飽きている。
そしていつも同じお店へ、いつもの顔で行っているのもいやだ。
顔が覚えられてしまう。
こっちは飽きているというくらいだから、味を覚えているのだろう。
そうなると、店主がこちらの顔を覚えてしまうのも、時間の問題だろう。
確かに僕はラーメンに飽きている。
だが「あの人最近来ないね」とも思われたくない。
何かいい方法はないだろうか。

母のパラドクス その2

昨日からつづき。
【あらすじ】
「ばいも(貝母)というものが何であるかを知らなかったが、調べてみたら花の事だった」
なんか不満。
=====
不満である。
それは「バイモ」という、なんとも未確認なものに対する期待が、普遍的な「花」だったということの不満というよりは。
知らないままで、その期待を抱き続けていればよかったという後悔に近い。
貝母は花。
そして花言葉は「謙虚な心」だという。
先ほどの不満も手伝って、このことを知っていれば、調べなかったのにと思う。
何事も簡単に調べられるからこそ、知らない事が財産であることもあるのだ。
しかし、このことを突き詰めると、難しい問題が出てくる。
「花ということは知らないが、花言葉は知りたい」
貝母が花ということは知りたくないが、その花言葉「謙虚な心」を知り、知識欲の横暴を阻止したいわけだ。
どうすればいいのだろう。
おそらく確実に必要と思われるのは「誠実な協力者」だ。
彼は僕が貝母のことを知りたがっている事、そして僕の性格を熟知していなくてはならない。
そして「貝母」をサーチエンジンにかけようとするときに、こう言うのだ。
「なんか分かんないけど、謙虚な気持ちって大切だよね」
さすが「誠実な協力者」。
こいつどうしたんだ、の所業。

母のパラドクス その1

小さなころから気になっているものが「うんも」と「ばいも」だ。
「うんも」は「雲母」。
確か国語の教科書で。
「ばいも」は「貝母」。
確か水木しげるの妖怪の本で。
このあまり見かけない「もで終わる言葉」らは、一体何なのだろうと思わせつつも、特に調べない。
そんなカテゴリに属していた。
先日「ときめく鉱物図鑑」という本を見つけた時、雲母のことを思い出した。
このときには「きら」「きらら」とも呼ばれるそれを「なんかわからないがとりあえず鉱物」くらいには知っていた。
それでも、ちょっとこの本には興味を抱いた。
小さな頃の宝物が紫水晶のかけらだった人は多いだろう。
あるいは宮沢賢治の作品で、神秘的な役割を持つ鉱物の描写がやけに印象に残った。
そんな人もいるだろう。
黒曜石の地図は、とにかくいい。
iアプリの元素図鑑も見ているだけで楽しいが、同じような感じで鉱物の写真とテキストを見ているだけで楽しい本だった。
しかし、それよりも「もで終わる言葉」はもうひとつ、よくわからないものが残っている。
「ばいも」だ。
詳細は覚えていないが、なにせ初見が水木しげる。
人間の体にできる妖怪を退治するために「貝母」が効きました、という話だった気がする。
何なんだ「貝母」。
と、ネットの海は広大なので、簡単に調べられるところがすごい。
「貝母」は花でした・・・。
まああるよね、この「あーあ」な感じって。