めりはり

「めりはり」という言葉について、「はり」というものが「張り」。
肌などの状態で、「張り」というものがいい意味であることを考えると、おそらく「めり」は良くない意味だ。
「めり」は良くない。
だからといって、「めりはり」のもっといい状態が「はりはり」だとは考えにくい。
「はりはりのある顔立ち」。
アンチエイジングだろうか。
あるいは前日、お酒を飲み過ぎたのだろうか。
「めりめりのある顔立ち」
パンチを受けたのだろうか。
地獄のミサワだろうか。

押せ押せムード

押せ押せムードという言葉がある事を思い出した。
思い出さなければならなかったのは、最近あまり聞かないからのような気もするし、注目していなかったということもある。
しかしそのような状態になった状況は、結構見る。
スポーツやゲームのある場面では、相手が追いつめられ逃げられず、ただ耐えるのみ。
押せ押せムードの前では、そうするしかないのである。
さて、結論としては「押せ押せムード」の反対の言葉である。
まず考えられるのは「引け引けムード」だ。
その場を捨て、引く、そんなムード。
しかし、気になる点がある。
「押せ押せムード」に対している側に、引く場所は果たしてあるのだろうか。
どちらかというと「耐え耐えムード」の方がしっくりくる。
このように反対の言葉を考えると、一方的な展開の試合、ゲームでは2通りの表現ができることになる。
すなわち「日本ハム対オリックス」を考える時、「日本ハム押せ押せムード」あるいは「オリックス耐え耐えムード」となるわけである。
そうなると、一方的な展開ではないときはどうなるだろう。
「押さないムード」
「耐えないムード」
彼女を初めて自分の部屋に呼んだような、自宅介護を行っているような。
そして日々ような。
これ書いてる今。
ちょうどそんなムードだ。

ジャンプして喜ぶ子供達。

藤子・不二雄ミュージアムは川崎にあるものかと思っていたら、南武線の登戸駅からバスが出ていた。
登戸から近いのだろう。
駅前バス停の様子を眺めていると、さまざまな人がミュージアム行きのバス停へ向かっていく。
やはり子供が多い。
そのバスはドラえもんやパーマンなどのキャラクターがいきいきと描かれているものだから、見ただけでうれしそうだ。
ある親子が警備員に声をかけていた。
どうやらバス停の場所を聞いているようだ。
すると、その回答を待つ事なく、そのバスが目の前を横切る。
藤子・不二雄ミュージアム以外は明らかに行かないバス。
それを見た子供はジャンプして喜んでいた。
子供はそのあふれる喜び。
主に語彙量からあふれる喜びを表現するのに、ジャンプする事は有名だ。
僕は久しぶりに「ジャンプして喜ぶ子供」を見て、ミュージアムの力の片鱗を目の当たりにしたのである。
僕が「ジャンプして喜ぶ」ことをしたのは、いつが最後だったろうか。
あるいは最近、「ジャンプして喜ぶ」ことをしただろうか。
さきほど、その行動は「言葉だけでは表現できない」ことから生じる旨のことを書いたが、どうなのだろう。
「ジャンプして喜ぶ子供」に、「すごく」という言葉を教えたらどうなのだろうか。
すっとジャンプするのをやめて「すごくうれしい!!」と繰り返すようになるのだろうか。
=====
あ、あんなに高い所に、宙に浮いた人がいる。
あなた「ちょっといいですかー!?。すごく高いところにいますね!!」
浮いた人「えっ、ス・ゴ・ク?」
以上、両親の方針により強調を司る形容詞、副詞の除去した教育を受けた人がうれしかったときの図でした。

探してみる

もう何度もテストに出ると口酸っぱくして言ってきたからもうわかっていると思うのだが、私はヘビが嫌いだ。
ちなみに私は朝、口酸っぱくなっている。
まあどうでもいいのだが、ここからが変。
一方ではヘビを飼うたろかという気持ちもずいぶん前から持ち合わせている。
確か日本産のヘビは何気に餌付かないので飼育が難しい。
一方で海外に生息するミルクヘビや、うんちゃらヘビは頑丈で飼いやすい・・・。
知識的には小学校で取り揃えているような図鑑までだから、どれほど正解なのかはわからない。
しかし少なくとも、そんな事に目がいくようになっているわけである。
だが、困るのが生き餌の存在だ。
虚弱なのだが、我が家に生き餌の存在を耐えられる人間はいない。
一度、つかまえてきたミズカマキリにあたえるメダカの存在に耐えられない家族がおり、結果的にミズカマキリを逃がし、メダカのみ泳ぐ60cm水槽が玄関前に鎮座していたことがある。
また、秋につかまえてきたカマキリに対し、我が家ではなんと「ささみのゆでたもの」を与えていた。
ここまでくると、なにか宗教的なものすら感じる。
「最終的には、カマキリ、ミズカマキリをベジタリアンにする」
おそらく彼らの寿命が来るのが先だ。
そして私は、水陸両方のカマキリを捕らえた事があるようす。
もちろん、ささみだって元は・・・という話もあることはわかっている。
わかっているんだけど。
そこがまさに虚弱だというわけではあるが、それでもやはり「生き餌」というのは、私には難しいだろう。
だからヘビは飼えない。
生き餌ではないが、冷凍マウスも、おそらく私には敷居が高すぎる。
そこで気になり出したのはカメレオンである。
うそである。
「リューシカリューシカ」という漫画ではカメレオンを飼っている描写があった。
確かにカメレオンは小さい頃から気になっていたやつだ。
あまりに他のは虫類とは違いすぎる。
そして最近、極小サイズのカメレオンが話題になったりもした(現在20120317)。
漫画で取り扱うくらいだから、個体も手に入りやすくなったのだろう。
しかし、カメレオンを飼うには2つの問題がある。
ひとつはやはり「生き餌」の問題だ。
上記のように、生き餌は辛い。
コオロギは虫である上に跳ねるので、なおさら辛い。
そして「飼うの難しそう」だ。
あの細い腕と妙にふくよかな腹部。
ゆっくりな動作と、それに付随してそれほど効率の良くなさそうな捕食方法。
飼ったらすぐ死なせてしまいそうだ。
このような理由により、うそである。
気になり出したのはカメだ。
今、水生のカメ。
初心者にも飼いやすい種類を探している。
あまり大きくならないやつがいい。
例の水槽で飼う予定だから。

干し草積まれる鼻の高さまで。 2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
花粉症の薬の効きがいまいち。
去年くらいまではもらっていた「強めの薬」を要求してみる。
=====
現在処方してもらっているのが、飲み薬と目薬と点鼻薬だ。
このうち、目薬と点鼻薬はよく効いている。
以前書いたと思うが、幼少の頃の点鼻薬はその効果もさることながら、やっているときの間抜けさもいまいちなものだった。
しかし今のは、確かに効いていることが実感できる、ような気がする。
目薬も、さした時は「なんか入れちゃいけないものを入れたような気がする」と思わせる妙な刺激を感じるのだが、徐々にかゆみがひくのがわかる。
ただし、点鼻薬はその使用を「必ず朝に1回ね」と念を押される。
要は1回以上はちょっと、というものらしい。
目薬はそのような作用はないらしいが、一方で物理的に使用回数が制限される。
あまり量がないのである。
ということで「飲み薬」にもがんばってもらいたいのである。
以前は、強めの薬と称して「頓服薬」と書かれたものも処方してもらっていた。
ちゃんとした薬名は控えてなかったのだが、確かにこれは効いた。
それだけは覚えている。
ただし、やはり医者は「とにかくきついときに、1個ね」と妙に念を押していた。
本日、「ちょっと強めのやつを以前は処方してもらっていたんですけど」で始まるやりとりで、わかった。
やはり、その頓服薬も「1回以上はちょっと」というものだったのである。
「ああ、あれ?。飲まない方がいいよ」
そうだったんだ。
まあ何となくはそうなんだろうとは思っていたけど。
アレルギー、免疫系、代謝あたりと。
片方を抑えればもう片方が過剰というような恒常性のことを考えると、デメリットなしの薬というのはなかなか難しいのだろう。
その日は「いつものやつよりも効くらしいが、より眠くならない」という、最初からそっちで頼みたい薬を処方してもらった。
出し渋った理由もあるのかもしれないが。
それにしても、医者にとって僕はいつ「あれは飲まない方がいいよ」ゾーンに加えられたのだろうか。
もう、あれには耐えられないような表情になっていたのだろうか。

干し草積まれる鼻の高さまで。 1

幼少のころは花粉症がひどかった。
あまり詳細を覚えていないのだが、血液検査の結果を見た医者がうなって、周りの看護婦さんをみんな呼び寄せてその数値を見せていた。
覚えていない事を少々逆手に取った誇張術を披露した訳だが、うなっていたのは本当。
なにせ朝、目が開かない。
鼻で呼吸ができない。
目やにと鼻水が固まる。
朝はこれをお湯でやさしく取り除く事から始まるのである。
ある本に、ある麻薬を過剰に摂取したときのことが書いてあった。
起きた時、大量の目やにで目が開かなかったのだという。
花粉は麻薬だったのか。
それを読んだ時、そう思った。
今年は花粉少ないと噂されている。
しかし、これはなぜだか分からないのだが、僕にとって「花粉予測、花粉予想」的なものは信じるに値しないものとなっている。
というのも、一般的には花粉が多くないと目される雨天のときが、よりひどい症状だったりするからである。
そういうこともあるのだろうか。
最近受けた血液検査では、幼少のころほどはスギ花粉に対するアレルギー反応はないという数値が出て安心した。
しかし、それと今年の花粉予測を持ってしても、薬はもらっておくに超した事はない。
ということで薬を飲み始めているのだが、なぜかあまり効かない。
ひどいときは、夜中に目をかきむしっていて朝、充血どころではない、ピンクの目になっていることがあるのだ。
ということで、去年くらいまではもらっていた「強めの薬」を要求してみる事にした。

KILL、殺すという意味じゃ。

また妖怪の話で恐縮なのだが、僕が気に入っている言葉のひとつは、ゲゲゲの鬼太郎の目玉の親父が言ったものだ。
「KILL(キル) 殺すという意味じゃ」
ツイッターにもこの言葉に注目した人がいるらしく、いやあ奇遇ですなの心境。
ちょうど資料が手元にあったのだが、これは「家獣」という家の形をした妖怪の話のこと。
※家獣とくれば悪魔くんだが、鬼太郎のこの話では敵役だった。
鬼太郎に敵意むき出しで迫る家獣の煙突から、何やら煙が出てきる。
そして何やら形を成していく。
どうやら意思の表現を言葉ではなく、煙の形で表現するタイプの文化らしいのだ、家獣は。
そしておぼろげに「そう」見えた時、目玉の親父が説明してくれたのが、上記のセンテンス。
「KILL(キル) 殺すという意味じゃ」
なかなかいい。
相手に隙があるならば、使っていきたい。
しかし、なぜ魅かれるのだろうか。
それはおそらく、もう耳にする事はできない、失われた言葉だからだろう。
そこらの年齢制限のない漫画、ゲームなどに複数触れれば、もうキルなんて言葉はいくらでも出てくる。
残念ながら、私たちは生まれてすぐに「KILLという言葉を知らないこと、が失われている」と言えるのである。
それでも、家獣が襲ってくるときに親父はいつも教えてくれる。
キルは殺すという意味である事を。
そのたびに、僕はこの言葉を知らなかった頃のことを思い出せない事に対して、心締め付けられるような気分になるのだ。

さすらい

昨日の「のりもの」のことで思い出したのだが、僕は夜の駅でホームの端からホームの端を眺めるのが好きだ。
遠いなーと思えるからだ。
特にいいのは端に車掌さんみたいな人が立っているとき。
彼をスケールに、より遠い感じがわかるのだ。
そして電車の到着にまだ時間があるようなら、端まで歩いてみたりする。
遠さが実感できる上に、ゲーム機のすれちがい機能が期待できる。
そんなときに限って、ゲーム機を持ってないことも多い。
僕の机の上で、すれちがわれることなく明滅するランプのゲーム機。
かわいそうだ。
そんなことを思いながら端まで歩いたり、さらに時間があるときは一度改札まで行ったりしてみる。
そして人でにぎわう駅内モールのようなところを、ひとりさまよったりする。
かわいそうだ。