水のかおり その1

沢木耕太郎の文庫本に、砂漠のある事について書かれていた。
それは砂漠という場所においての「水」に対する生物のことで、それはハエ。
外に出ていると、水を求めて大量のハエが人にたかるのだという。
これがカッパなら全身の粘液を求めてハエがたかり、人型ハエ取り紙のような状態になる。
あるいは頭の皿に、ちょうど小鳥が庭に設置したエサ台に集まるような感じでハエの冠のような状態になる。
このとき、カッパはハエの王ベルゼブブへとキャリアアップしているのだろう。
しかしこの話において、カッパは関係ない。
貴重なカッパを危険な砂漠へ連れて行く必要もない。
人の話だ。
要は、水を求めたハエは、人の目と口に大挙するのだという。
水の摂取が難しい砂漠の事情がよくわかる話である。
思うにたいがいの日本人は、さほど水に困った事はない。
そりゃあ一時的には、困った事もあるだろう。
だが、環境的に水の取得が難しい、例えばさきほどの砂漠などに住む人からすれば、永続的でない水不足はまだましだと思われる。
鳥取砂丘の近くに住んでいる人が水にずっと困っているということもない。
すごく困ってる人がいたら、ごめん。
ただ、「たいがいの日本人は」としているし、すごく困ってるのなら、こんなブログを読むべきではない。
そんな感じで、ごめん。
で、何が言いたかったかというと。
日本で水が貴重になったらどうなるかを書いてみたかった。
もちろん、真面目なことは他方に任せる所存。
カサマシのため、明日へ。

チョロギについて。

何かのクイズ番組で、正月に見かける珍妙な形状の食べ物のことが紹介されていた。
「チョロギ」と呼ばれるそれは巻貝あるいは芋虫、人間の何らかの臓器のような形。
人を小馬鹿にしたような和名。
どちらをとっても、他の多くの根菜と比べてあまりに先見性に富んでいる。
とりあえず、僕はそれを見た事はあったが正直名前は知らなかった。
そんなチョロギの名前が、あるホームセンターの球根コーナーにあった。
あれは球根として育てるものなのか。
チョロギの知識がまた少し増した事に、特に感動を覚えないまでも、どういう風に売られているのかが気になった。
チョロギのパッケージには他の根菜同様、土が入っている。
ここにチョロギの球根が入っているのだろうか。
しかし、パッケージ越しに探ってみても何も見当たらない。
種として入っているのだろうか。
ただ、僕はそれほどよくは探さなかった。
あの白い物体が土の中から見つかったら、それはチョロギであろうと何かの幼虫であろうと「土の中の芋虫的なもの」として見つけたこと触っていたことに後悔するだろうからである。

書庫のような本

俺は、ある本屋でコンシェルジュのような仕事をしている。
自分で言うのも何だが、お客様の要件はほとんど最高の形で答えてきた。
しかしひとつだけ、今でも気になっている要望がある。
「書庫のような本はないですか」
その少年は知り合いに軽く挨拶をするように、俺に尋ねてきた。
え、書庫にあるような本ですか。
「いえ、書庫のような本です」
というと、百科事典のような。
それともその目次を収録したものなどですか。
「すいません。実は僕もよく分からないのですが、とにかくあるはずなのです」
「もしかしたら、図書館のような本、というニュアンスなのかもしれません」
年齢の割にはずいぶん言葉遣いが大人びている。
いろんな本の事がたくさん載っている、そんな本ですかね。
「このあいだ、祖父がぽつりと口にしたのです」
「書庫の本をもう一度だけ、ひらけたなら、と」
おじいさんですか。
その口ぶりだと、確かに本物があるようですね。
「そうなんです。もう亡くなったのですが、ときどきそのことを思いだしていたようでした」
そうですか。
それで、その本をなぜ今、探しているのですか。
「おじいさんが身につけていたロケットに、こんなメモが」
くー2957693・・・
「うしろの方がやぶけてしまっていて」
うーん。
考えようによっては「書庫のような本」のあるページを指している、とも取れなくない。
「そうなんです。そこが少し気になっていて」
「おじいさんがもう一度見たいページだったんじゃないかと」
そうですね・・・。
しかし。
申し訳ありません。
おそらくここの書店にはそのような本はないと思います。
もしかしたら、どこにだってないかも知れません。
「ええ。僕だってそう思っているんです」
とにかく何かが網羅されているものをごらんになりたいのでしたら、どうでしょう。
動物図鑑やヴァンガードのカード全集などありますが。
「ありがとうございます。でもいいです」
「書庫のような本を考えたとき、主に動物図鑑は動物以外、ヴァンガードはヴァンガード以外が手薄です」
「それにもう、僕は書庫のような本という存在自体に魅力を感じているので」
そう礼を言って、少年は去っていった。
この、答えのない要望のことを思い出す時、俺はいつもヴァンガードのくだりが必要だったかどうか、不安になるのだ。

無性生殖産物をちぎっては捨て。

首に「いぼ」が出ていたことに気づいてから、何かあるごとにそれをいじるのがくせになってしまった。
いや、何かあるごとって言ってもね?。
別にそんな特別なことじゃないんだよ。
スーパーでじゃがいも詰め放題をやっていた時、思ったよりもずいぶん袋詰めできたとか。
昼ご飯に入った店がサービスでハーフおそばを出してくれるのにそれを知らなくて、儲けた感じがより強くなったとか。
ぎりぎりまでカサカサになった唇にリップクリームを塗るだとか。
そのくらいなのよ?、ホント。
以上、「微妙にフレンドリーパート」が終了した訳だが、この「いぼ」。
どうしたことがいじっていたら取れてしまった。
取れるものだろうか「いぼ」。
もう、さっきから「いぼ」が「異母」に変換されちゃって少々の憤りと多くの心の高ぶりを覚えているが、とにかく取れてしまった。
もとに戻そうとも、よく見ると取れた「いぼ」。
かさぶたみたいになっていて、いまいち生気が感じられない。
悪い事をした、「いぼ」には。
その善し悪しは気にせず、出芽したとよろこんでいたのに。
これを蒔いたら、来年の今頃には「nimbusの花」が咲くかしら。
弟の血しぶきを浴びたから「弟切草」。
nimbusがその命を分け与えたから「nimbusの花」。
こんな話、さくらももこのエッセイにもあったにゃ。
以上、「さくらももこ&気持ち悪い口調パート」が終了した訳だが。

先週のイモータル

前提:
人は、不死身の間は、絶えずハヤシライスの香りを感じている。
=====
医者「これは人に言った事ないんですけど。私は職業柄、人が亡くなる瞬間に立ち会うことがあるのですが、その時、多くの人はこう口にして息を引き取るのです」
医者「ハッシュドビーフだ!!、と。」

いつも説明。

血液型に限らず、取扱説明書というのはその意義が面白い。
いろいろ思いつく。
過剰な注意書きも面白いし、以前触れたがその書物の厚さも気になる。
しかし単純に、正常な使用方法のところも捨てがたいものがある。
例えば、オセロ(リバーシ)はどうだろう。
「最終的に色の多い側が勝ちです」
これはいい。
ごもっともだ。
しかし、次にこう来たらどうだろう。
「この他にも、自分で新しい使い方を見つけてみましょう」
昔のファミコンソフトの取扱説明書によく見られた記述である。
オセロの新しい使い方とはなんだろうか。
これも以前触れたが、例えば新規ルールを作ってしまうだとか、黒と白を0と1に見立ててビット計算ができるかもしれない。
64マスを利用して、いかに細かい絵が描けるかに挑戦するのもいいし、角が取れそうなゲーム状態のものを路上に放置し、通りがかる人がどれほどそれに興味を持つのかを観察してもいい。
オセロの駒?の裏表に、それぞれ黒字と白字で一文字書き、ゲームを進行。
終了時にどんな言葉ができているかを見てみるのもいい。
しかし、これらは新しい使い方と言えるのだろうか。
僕には分からない。
では、以前流行ったことのある「血液型の取扱説明書」はどうだろう。
あなたは人見知りですね。
でも、正義感がありますね。
自己主張は激しくないですね。
よく知らないのだが、おそらくこんな感じだろう。
しかし、最後にはやはりこう来る。
「この他にも、自分で新しい使い方を見つけてみましょう」
この場合、その新しい使い方とは自分の血液型の事で、ある意味「自分の使い方」と捉える事もできる。
自分の使い方とは何だろうか。
僕はちゃんと正しい使用方法をとっているだろうか。

作りかけ自由研究

どうにかして思い出そうとするのだが、どうしても「自由研究」をやった記憶がない。
というか、たぶんやっていないような気がする。
やっていなくて卒業できるのだろうか、小学校。
もしかしたら「まだ70年くらいかかります」という理由でもつけたのだろうか。
まだ研究中なのだろうか。
卒業証書に仮とでもついてなかっただろうか。
70年かかる研究とは何だろうか。
爪を切らない。
髪を伸ばし続ける。
体を洗わない。
びっくり人間である。
びっくり人間は、人生そのものだった。

生還

物事というのはある周期で回帰するらしく、例えば服装。
ずいぶん前に流行ったものが、今むしろいい、なんてことはよく聞く話だ。
最近において、その最たるものといえばプロミスのカエルなのだが、あれはどうなんだろうか。
ギャグの内核、カエルは回帰してきたのだろうか。
自分の生まれた池に産卵しに来る性質のカエルがいるという。
この場合、その冗談みたいな名前がかわいそうですね。
ちなみにカエルの語源は古代ローマの政治家、カエサル。
英語読みでシーザーと呼ばれた彼は、カエルが大好物だったことが日本に伝わりました。
この場合、そのいまいち面白くない嘘がかわいそうですね。

近くの洋食屋に行ってみる。その2

昨日からの続きです。
【あらすじ】
近くの洋食屋さんに入ってみた。
=====
簡単にまとめると、入店してから45分くらいたって店を出たときには、おいしいビッグサイズハンバーグがお腹のなかに収まっていたんだ。
で済む。
そしてまとめに入れなくてもいいなというものが、以下の通り。
・夫婦でお店をやっていたが、少し奥さんの機嫌が悪かったらしい。
・鬼平犯科帳がそろっている。
・だんなさんは一瞬たりとも姿を見せない。
・常連客らしきおばさんの団体がうるさい。
・毎日、多くの動植物が絶滅の危機に瀕している。
特に5番目は、まとめに入れなくてもいい。
全然まとまんなくなるから。
そして幼稚だ。
「高層ビルなんて、何も考えずに鉄筋組んでいけばいくらでも高くなるんでしょ?」
このくらい幼稚。
「鼻に詰めた落花生を勢いよくふき出すと同時に、舌でそれをとらえて食べる」
結構すごいが、幼稚。
「鼻に詰めた落花生を勢いよくふき出すと同時に、舌でそれをとらえて食べる動物が絶滅の危機に瀕している」
僕、こういうのあんまり好きじゃないな!!。

近くの洋食屋に行ってみる。その1

実家の近くにおいしい洋食屋さんがあるというのは、けっこうなステータスなのだと思う。
どうせ土日にしか行かないのだが「うーん、今日はお昼ごはん思いつかないからそこ行こうか」と言わせてくれる洋食屋の存在は、ふやけたせんべいのようになってしまう休日の人間を一瞬輝かせる。
もちろんそんな洋食屋を知らなかった僕たちは、案外近くに洋食屋さんがあることを知った。
というか思い出した。
以前、とは言ってもずいぶん昔になるが、一度来た事がある店。
そしてその店の前はよく通る。
しかしいかんせん、やっているかやっていないか全然わからない面持ち。
「店のドアを開けてみたら、家族がこたつであったまっている」
初めて行く「ひっそりとやっていそうな店」において、来客の一番恐れるものが、それである。
お店はとっくにやめて、普通に生活しているだけなのではないか。
それとも「準備中」の札がかかっていたのか。
いや、これは準備中にもほどがある。
この店の従業員は変温動物かなにかだろうか。
要は、そのだんらんな感じのところに入店してしまう。
その居心地の悪さは比類ないことを人生において経験しているため、「やっているかやっていないか全然わからない店」に入るのは勇気がいるのだ。
明日。
店に入ってみた。