景観

「景観を損ねる」という言葉を思い出したとき、普通浮かぶのは、吹けば飛ぶよな楳図かずお氏だろう。
しかし景観というものが経時的に可変で、しかも近年になって重要性が激増したことを考えると、どうも「景観を損ねる」という言葉は「その対象を否定する形だけのもの」な気がする。
その実際は「その対象が景観に溶け込むまで、我慢できない」ということだろう。
先日行った公園は、多くの自然が残されたところだった。
樹木も多く、フィトンチッドを体中に、脇とか股間にも浴びた。
そんな清々しい気持ちで歩いていると、唐突にソフトクリームのオブジェクトが現れた。
巨大だ。
一見、森にソフトクリームというのは変だが、特にそれに対して「景観を損ねる」という気持ちにはならなかった。
色あせてコケが付着していたから、何となく周りの樹木に溶け込んでいたし、その後ろにはお店があった。
「ソフトクリームを提供しているお店のある、森」
当初の、ぴかぴかしたソフトクリームに対して「景観を損ねる」という懸念は無かったろうし、そもそもそういう考え方が欠如していたかもしれない。
どちらにせよ、ソフトクリームは「景観に溶け込むまで、ほっておかれることができた」わけだ。
これが例えば「ときどき爆発するドラム缶」だったらどうだろう。
「景観を損ねる」という考え方がなかったとしても、それは許されるものじゃない。
「それが景観に溶け込むまで、我慢できない」
「というか、景観どうこうの前に、危険」
「景観を損ねる」なんて言葉だから、楳図氏の件ではテレビショーに取り上げられるまでになってしまったのだ。
「景観を損ねる」だと、景観って何だ、お前んちはどうなんだ電線はどうなんだとなるし、「景観に溶け込むまで、我慢できない」だと大人げない。
反対派の人はちゃんと「景観は関係ないが、楳図ハウスはいろんな意味で爆発の危険がある」と指摘するべきだった。
そうすれば、楳図氏としては「そりゃいろんな意味で爆発する家を作るよ」と言うことができ、より美しかった。

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