ちょっとそこまで。7

「あれを越えたら 海が見えるよ」
JUDY AND MARYの「おめでとう」という歌の歌詞にそうある。
生活する上でどうしても視野に海が入ります、といった環境でもないかぎり、やはり海は特別だ。
今年はつらい出来事があり、かつ最中なわけだが、それでも蛇行する道路をつぶしていっているさなかに現れる海というのは、どうしても「あ、海だ!!」と叫ばずにはいられない。
海沿い近くの街中を走行しているのだとわかっていても、それはある。
何かの団体旅行でバス貸し切りで、外なんか見ていないで遊んでいたりしたとしても、誰かの「あ、海だ!!」でみんながそっちに移動、バスが片輪走行してしまうこともある。
一方、海に対して山というのは、あまりこういうのがない。
「あ、富士山だ!!」
富士山レベルならまだいいのだが、「あ、山だ!!」だとどうだ。
天気のいい日なら、島の面積にもよるが日本中どこにいても山は見えるんじゃないだろうか。
いつも見えちゃってるから、その分海よりありがたみが少ない。
残念ながら山、そういう扱いなのである。
その例が、あれだ。
「あれを越えたら 海が見えるよ」の、あれそのものだ。
熊本駅からそこそこ遠くまで運転。
左側、山。
右側、海。
ときどき、山中。
宿まで、そんな感じが続く。
これは山を越えたと言えるのだろうか。

ちょっとそこまで。6

熊本駅で帽子を購入することになったお店のおばちゃんが言うには、そこは田舎でかつ道が1本しかないから、とても混むということだった。
確かに、結果的には牛深市はすこぶる遠かった。
皮の長さを競っているときの、りんごのてっぺんから底の部分くらい遠かった。
とりあえず熊本駅と天草あたりを結ぶ真ん中あたりに宿を取っていた僕は、恐る恐るレンタカーを走らせて、そこへ向かうことにした。
それにしても最近の車は「おそるおそる」を表現するのが難しい。
ほんの少しアクセルを踏み込むだけで、ぶりりと進む。
宿に着くまでに慣れるだろうか。
すると間もなく。
のんびり走らせていると、何となくアクセルの具合がわかってきた。
「やっとアクセルがわかってきました」
そんな状態で車を走らせるなという気もするが、なんせ車がないと不便そうな風景が広がっている。
そりゃ走らせるよ。
と、そんなことを思ったような、思わなかったようなというあたりで、見覚えのある場所を通り始めたことに気づいた。
線路だ。
ここはずっとまっすぐに続く線路と道路が平行しているところで、以前来たときもなかなか感慨深い思いをしたんだったか。
まっすぐに続く線路。
夏、夕暮れ。
麦わら帽子、白いワンピース、線香花火、ユースホステル。
ごめんラスト行、よかれと思って。
二度目の場所は、黄昏どきには行かないほうがいい。
このシチュエーションで、何かに触れることのない人なんているのだろうか。
いるとしたら、ほぼ間違いなく脱獄のへたな巌窟王なので、今後に期待したい。
ipodからJUDY AND MARYの「夕暮れ」が流れてきた。
宿までまだかかるというのに。
あわててヒャダインの「カカカタ☆カタオモイ-C」に変える。
なんだ。
なかなかいい歌じゃないか。

ちょっとそこまで。5

以前、レンタカーを借りたときのことを書いたと思う。
内容は覚えていないが、とにかく「車はみんな仕組みは同じだが、それでも慣れていないやつを運転するのは、たいへん」ということを終始主張しただろう。
それ、正解。
駅からそう遠くなく、珍しく迷わずに見つけたレンタカー屋さん。
車種とかオプションとか何も考えずに予約したのだったが、唐突に気になりだした。
カーナビはついているのだろうか。
カーナビがないと、この地で僕は翼はあるが恐ろしく近視のタカみたいなものになってしまう。
いや、よだかか。
しかし星にはなりたくないので、まあ何かだ。
とにかく、この旅行の数少ない目的も達成できなくなってしまう。
そうなるとサイドミラーはついているのかハンドルはついているのかと、そこまでは思わないまでも。
それでもカーナビがついていないのならハンドルもついてなくていいやくらいの侠気は芽生えてきた。
予約時間よりも幾分早く到着した僕を、元気のいい姉さんが迎えてくれた。
もう乗せてもらえるらしい。
カーナビの件を心配しながらもあないしてもらう。
と、車をみて、僕の心配は不要だったことに気づく。
ついてる。
カーナビついてる。
最近のレンタカーには、普通の奴ならたいがいカーナビは付いているということだ。
いける。
これで僕は熊本のぐねった峠を攻めることができる。
「あ、ちなみにこれ、サイドブレーキはブレーキの横にあるタイプですから」
「エンジンはブレーキを踏んだ状態でスイッチボタンを押すことでON/OFFしますので」
ハ、ハンドル取り外してもらえます?。

ちょっとそこまで。4

熊本駅はなんだか、ダンシングじゃなかった。
降りるところが違ったのか。
大きく「熊本駅」と書かれた白い建物。
その前に商店街。
そんなイメージだった。
ところがなんだか寂しい。
何か他の駅と間違えているのかもしれない。
目の前の噴水で、小さい子とお母さんが遊んでいる。
そうなんだ。
店がないと困る。
今日は朝からあわてて家を出てきたものだから、帽子とサングラスを忘れてきちゃったんだ。
サングラスを現地調達するのは無理だ。
お金もかかるし、度付きはそもそも短時間ではできなさそう。
運転に必須じゃないと判断。
一方、帽子はほしい。
熊本は、日差しが魔法のようだ。
しかしダンシングでない熊本駅。
中心街へ行くには、少し距離があるようす。
帽子だ帽子。
帽子を求めて駅内をうろつく僕の目に留まったのは、なんと個人的にはあまり見かけないと思っている帽子(管理者サムネイル参照)だった。
さっそく2ヶ購入、魔法防御力はアップし、頭はさみしくなくなった。
頭がさみしくなくなって余裕の出てきた僕は、それまで騒ぎになっていた「駅近くでの警察の催し物」を気にすることもなくなっていた。
なんかやっていたのだ。
暑い中を、警察の人が。
まあ警察の人なんだから、暑くなくても何かはやるだろうさ。
やればいいさ。
そのくらい、帽子のおかげで普通になれた。
そして階段の陰に着ぐるみの頭が逆さに放置されていたことも気にならなくなっていた。
そのクマはポリスキャップ(本名不明)をかぶっている。
例の催し物の、何かだったのだろう。
いじりやすさ炸裂の一品である。
しかし気にならない。
むしろ他の階段の所にはないのかと問いたくなるくらい、それは普通だ。
さっきまでは帽子を探していたものだから、「帽子をかぶっている着ぐるみの頭をかぶれば、より帽子なのかもしれない」とか思ってしまったりしていた。
そんなことを思わせるな。
くまの頭部よ。
今となっては、「より帽子状態」ってどうなんだということも、それは特に何もないことでしかない。
熊本で「より帽子状態」になってどうなんだと言われれば、それはやはり特に何もないことでしかない。
次はレンタカー。
熊本駅の近くには、たくさんレンタカー屋さんがあるみたいだ。

ちょっとそこまで。3

正直なところ、僕は駅弁に対してかなり否定的だ。
冷えてるじゃないか。
できて時間が経っているじゃないか。
高いじゃないか。
特に幕の内のやろうこのやろう。
何をかしこまって個室に鎮座してんねん。
豪華そうにしてんねん。
ということで、とにかく駅弁というものは口にしていなかった。
その点、ブルートレインには食堂車両があって、それはそれは楽しかった。
高いことは高いのだが、とにかく優雅だった。
風景が動く。
すごい速さで動いている中を、僕らはテーブルについて暖かい物を食っているのだ。
子供ながらにその特別さは、未だに印象の薄れることがない。誰か同じことを言っていたような気もする。
速い中を食うことは同じなれど、駅弁は優雅じゃない。
それは作業だ。
と、悪態をついたところからもわかるように、新幹線で食べた駅弁がすごくおいしかったんである。
博多→熊本だったから、確か博多駅で買ったのだろう。
「焼き肉弁当」的なやつだったと思う。
これがうまかった。
これなら幕の内のやろうに挑戦してみてもいいかと思わせる。
自分のみならず、仲間の評価もあげかねないうまさ。
焼き肉弁当。
でも、パッケージすら思い出せぬので、さて帰りはどうしましょう。

ちょっとそこまで。2

ブルートレインに乗ったことがある。
今はなくなっちゃったんだっけか。
ブルートレインは楽しかった。
子供にとったら旅行だけでも大したイベントなのに、電車の中で寝ころがってしまうんだもの。
夢心地である。
しかし今回は新幹線だ。
6時間で着いてしまうとのこと。
これをあじけない派は、こう叫ぶ。
「ここは病院か!!」
一方、あじける派は、こう叫ぶ。
「とくに問題なし!!」
博多までは、2度車内販売を逃したこと以外は普通な感じ。
しかし博多から熊本までは、やたら豪華に。
座席は首のあたりがなんだか落ち着かないが、とにかくきらびやかだ。
のちにそれは九州新幹線というものであることがわかった。最近開通したらしい。
そんな話題性の高いものに乗っていたのか。
まったくわからなかった。
だから同じ車両にいた男の子たちとそのおばあちゃんは興奮してイスを回転させまくっていたのか。
男の子は興奮して、椅子の上に立ったりしていたのか。
おばあちゃんは興奮して知らないおじさんの頭をばしばし叩いていたのか。
ごめん後半2つストーリー上のスパイス。
とにかく、そんなホットトピックを知らずに乗ってしまったわけだ。
九州新幹線にとっては、僕はあじけないことをしてしまったのかもしれない。
しかしそのとき、僕は別のことで忙しかったわけでして。
→駅弁がうまかった。

ちょっとそこまで。1

どこか行くか。
思い立ったが吉日という警句を受け、早速手段を探してみることにした。
すると空路は無理。
陸路はどうにかという感じであることがわかった。
新幹線の予約具合の確認も兼ね、JRのその手を一手に扱いそうなエリアに進入。
とりあえず並んでみる。
かわいい受付さんが言うには、奇跡的に空いているという。
恐ろしく高価だったが、本当にかわいいなあ。
いやあ本当に。
うん。
ということでかわいい往路を購入。
ただ、その切符には高いことはわかるが、受付さんがかわいいことの形跡は全くなかった。
旅の内容が全く決まっていない。
でも目的地は決まった。
内容は気がかりだが、特に問題ないだろう。
ノープランでも、それがおもろいものにもなることを、僕は知っているのだ。
何でもその気になれば、たいがいおもろいことにはなる。
僕もこのブログでは何度「その気になった」ことか。
そんな妄想を抱き、なんとなく南へ。

β化

メモしたときは案外面白いと思っていたものでも、後日それを見ると自分が心配になる。
そんなものも数多い。
「かぴかぴの米粒がついていたらいやなものは何か」
かぴかぴの米粒は、その主成分であるデンプンがβ化したもので、炊いて調理した「ごはん」がもとの生米に戻ってしまった状態とも言える。
β化というところだけを見るとなんだかかっこいいが、我々の体験からしても、あまり「かぴかぴの米粒」は歓迎されるものではない。
袖などについていて、気づかず電車に乗ってしまったかと落胆しながらそれを取る。
そのとき衣類の繊維を巻き込んで剥がれるそれを見て、「食べられるかな」とすら思わぬ。
そんなものがついていたらいやなものとは何か。
メモには例が一つもない。
普通に考えると卒業証書やトイレットペーパーの三角に折られたその頂点とかだろうし、本気なら箸先だろう。
しかし冒頭に連ねたように、かぴかぴの米粒は何についていてもいやなものである。
ENTERキーについていてもいやだし、シェフが巻いているストールみたいなやつにもよくない。
歯ブラシのさきにもだめだし、冠婚葬祭のときに着用する黒のネクタイにもいかん。
スマートフォンのタッチスクリーンについていたらもうそれを使いたくなくなるし、ボーリングの球の穴付近でもそうだ。
そもそも一番そういったシーンに陥りやすい「しゃもじ」ですら、いやなものはいやだ。
こうなるとむしろ「かぴかぴの米粒がついていたら良いものは何か」という方向性も考えられるが、ここは当ブログのツンデレなところで、実はさきほど例としてあげたもののいくつかが「良かったり」するわけである。
卒業証書だと、その内容の読点(、)の箇所だけかぴかぴの米粒だったりすると良い。
「あれ俺、服部栄養専門学校卒業したっけ」
そんな気分になる。
シェフが巻いているストールにかぴ米がついていて、それを咎めた客に対して「これが本当の正装なのです」と答えられたら、どれほどの人が反論できるだろうか。
そこまで踏まえると、ストールについているのは良いんである。
いやだ、あるいは良いということなら、今の所は「右頬」とかが僕のなかでは有力だ。
これは出社した重役の頬でもいいし、変な話ミイラの頬でもいい。
「頬」なら、それぞれにいやなドラマ、良いドラマが期待される。

こねる

「モチのつける洗濯機」というものを考えたとき、「モチをつく、あるいは洗濯をするという動作に類似した他のやつはないか」という発想を、普通するものだ。
以前、餅つき機について触れたことがあったと思うが、そのときの餅つき機はパン生地こねも兼ねていたと思う。
要は、作製時の動作が似ているのだ、モチとパンは。
そうなるとハンバーグ生地も行けるのではないか。
カレーを焦がさないようにもできるのではないか。
そして洗濯をすることができるのではないか。
とアイデアが出てもおかしくないのである。
餅つき機に入りそうな衣類は靴下1ペアくらいだろうから、逆に洗濯機。
米粒の抜け落ちてしまいそうな穴をふさいで、餅米と水を少々。
ドラム式ならなんとなく、昔あった「ぽんがし」機にも見えて、効果的だ。
そして「念入り仕上げ、毛布コース」。
乾燥を終えたブザーがなり、中をのぞいた僕たちは無造作に転がっている大福を見るんである。
そしてお母さんが一言。
「内緒で小豆も入れてみたの」
いつも一手先を行く洗濯機業界。
次の標的はあなたかもしれない・・・。

包丁を使わずにイワシを三枚におろす方法。

嘘をついたら、えんま大王に舌を抜かれるというものに、何歳まで恐怖を覚えていただろうか。
そしてそれが薄れるとき、気になりだすのが「嘘をつかない人間はいないだろう」ということだ。
生まれる前、あるいは生まれてまもなく亡くなってしまった場合以外。
幼くして欲しいものを手に入れるための嘘泣きや行きたくないための嘘寝、嘘体調不良。
どれも正直な所、罪悪感を受けずにやってしまっているだろう。
この辺を無垢でクリアしたとしても、まずくてもおいしそうに食べる仕草やお世辞。
えんま大王に「おまえまずいのをおいしそうに食べたそうじゃないか」とにらまれたら、私たちの認識では「そんなあ」となるが、まあ嘘なので舌抜き対象になる。
とまあ、とにかく人は程度善悪あれ、嘘をついているものなのである。
そうすると心配なのが「舌を抜くためのやっとこがぼろっぼろ」というところだ。
亡くなった人が来る度に抜くものだから、だ液によってやっとこが腐食。
すぐに使えなくなってしまうだろう。
こうなると、地獄省(憶測)ではこういう対応をとらざるを得ないことは明白だ。
「えんま大王が「いままで嘘をついたことがあるか」と質問し、そこで嘘を言わなければ舌抜きなしとする。」
そこで嘘を言わなければというのは、結果的には「私は嘘をつきました」というのが正解なわけである。
しかしどうだろう。
えんま大王に「いままで嘘をついたことがあるか」と言われたら、もう人間観念してしまうのではないだろうか。
「すいませんついていました」と。
するとこの対応は観念した人たちの吐露により、たいがいクリアされてしまうのである。
やっとこは錆びずに済んだ。
しかし舌抜きは全く行われず、鬼たちの間で受け継がれていたその技術のほうが、錆びていくだろう。
あるいは舌抜きがなくなるので、鬼たちの仕事は手抜きぎみになる。
それも困る。
地獄の権威とギャグの質に関わる。
ということで、現在の地獄省では「舌抜きは抽選」が採用されているのではないだろうか。
確かめる術ないですけど。