哀愁の鮮度

先々日、哀愁という言葉を使っていて気づくことがあった。
ということで、何かを失ったことに対する哀愁は、僕らが思っている以上に哀愁を感じなくてはいけないものなんである。
結論を先に書いてみた。
これで「んだんだ」となってくれれば、僕も結論を先に書いた意味があったというものだ。
ちなみにこちら、流れ。
①いつか書いたかもしれないけど、確か人類というのは地球に誕生した生物の平均的な「種の寿命」をけっこう超して、現在に至っているという説がある。
②種の寿命を超している現在の人は、いうなれば人類下降線上にいると言える。
③ものが失われたことに対する哀愁というのは、一般的に後世では認識されないものである。
例えば洗濯板。その存在となくなった時期はわかっているが、「なくなったがそれを懐かしくいとおしむ時期」というのはなく、認識されないはずである。
まだ今はあったとしても、さらに時間が経てば、それは「あったこととなくなったこと」のみの認識となる。
④人類下降線上にいるものが後世に伝わらない悲しみを持つ。これが「何かを失ったことに対する哀愁」であり、その実態はほぼないに等しい。
⑤結論にいたる。
いたっちゃったよ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です