整然とデペイズマン

ある文庫本を見ていると、こんな旨の指摘があった。
「常套句というか紋切り型の文章が気になる。
例えば、大雨はいつも「バケツをひっくり返した」ようなものであり、広大な土地は「東京ドームの何個かぶん」。
ホームへの返球は「矢のよう」であり、重いものは「小錦の何人かぶん」。
美しい柔肌は「ゆで卵のよう」であり、ツンデレの形容は「カレーうどん」である。
あんまりこればっかでもなあ。
もっともだと思う。
僕もこれをいやがる傾向にある。
しかし考えてみると、この文章を考えた人は、本来の内容以外の視点でこれを評価してもらいたいとは思っていないだろう。
大雨のことを書いた人は「バケツをひっくり返した」ところではなく、大雨のところに注目してもらいたいはずなのだ。
ここで「夜空に浮かぶみずがめ座のところから溢れ出た水のような」なんてアイデンティティを出そうものなら、それは芸術家のやることであり、大雨を伝えるという観点からするとどうなの?という気にもなる。
注目も「みずがめ座からあふれる水」のほうへといってしまうだろう。
少なくとも大雨の件での常套句というのは、それを変えることに意味がないどころか弊害の生じる可能性がある以上、そのままでもけっこう美しいものなのだ。
しかし何となく文章を考えていると、やはり「この文章のキモはここね」というものを考えてしまう。
例えばさきほどの「常套句をちょい替え」や「いいかたちょい替え」のたぐい。
当ブログでも「今回はココがいいからね!!」という気持ちでそういうことをやったりする。
しかし反面、その「はいココ注目ー。オリジナリティだねー」と思われる、あるいは思わそうということにひどく恥ずかしい気にもなる。
この感じは小学生のころ、国語で作文を書くときの「こう書くと子供らしいのではないか」「やさしさが出るのではないだろうか」という子供的なずるがしこさにも似て、誰しも心当たりがあるはず。
僕も冒頭、そこそこのキモになる予定のところを、実はかなり恥ずかしがっており、精神的には芽吹きのように縮こまっていて、これも。
まあ、そんなことを考えるとどうも書きづらく。

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