苦手なジョア。

ジョアが嫌いだ。
たしかヤクルトみたいな飲み物だったはず。
僕はそれの、果実の入っているのが嫌いだ。
残留物が入っているのだ。
そしてそれが「売り」のようですらある。
だめなんだ、残留物が入っていちゃあ。
ある人はそれを「つぶつぶ」「プチプチ」という。
あれはそんなやさしい、かわいいものじゃない。
ジョアのオレンジ味だったか。
果汁の入っていたらしい皮が、残留しているだけじゃないか。
いくら整えても焼くとき丸まってしまうイカに腹を立てた犯行
今のは全然関係ないが、とにかく「残留物」と「つぶつぶ」はだいぶ違う。
「はっけよい」と「ハッピーバースデイ」くらい違う。
ジョア、ノーサンキュー。
はっけよい、トゥーユー。

電池その2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
電池に何をすると、少しくらいは復活するのだろうか。
=====
1.神棚に置く。
2.モーツアルトを聴かせる。
3.遺影の前に供える。
4.先端のぽっちだけだして、土に埋めてみる。
5.人差し指と親指でつまみながら、激しい運動をする。
これで行こうと思っていた。
5番なんて、「逆につまんだらむしろ運動するためのエネルギーをもらってしまうので注意」みたいに書けるし。
しかし、寒くて手がかじかんできた。
手がかじかむと、まず困るのが格ゲーのコマンドの精度が落ちることだ。
ごめんあまり困らない。
やらなければいいのだ。
6.新品の電池と混ぜておく。
7.似顔絵を描いてあげる。
8.水の入ったコップの上に縛りあげておく。
9.下敷きと下敷きのあいだでころころさせる。
10.弱火で軽くいためる。
こんなのもあるなと思っていた。
8番なんて、理科の実験みたいに書けるし。
それにしても寒い。
11.水の入ったコップの上に縛りあげてある状態の、絵を描いてあげる。
電池のやつって、何考えてんのか分かんないのな!!。

電池その1

ワイヤレスマウスの電池が少なくなってきた。
さっそく単三電池を探してみると、見事にない。
今このとき、電池がなくなったらマウスは言う事聞かず机上に見えない弧を描き、パソコンは反省エネの筆頭となる。
電池、電池が必要だ。
ところで、この世に生を受けたほとんどの人がおのおのの「電池がなくなったときの応急処置法」を持っていると思う。
いわゆるその場凌ぎ。
ただし、その有効性は定かではないがうまくいった、あるいはうまくいったと誰かから聞いたわけで、あまりないがしろにもできないだろう、その民間療法。
有名なところで言うと「あたためる」「冷やす」などの温度療法だろうか。
全然調べないで書いている。
この療法の優れているところは、その場で手軽に試せるところだ。
なんたって、電池はそこらにないのである。
手軽なのがいい。
また、この方法を試すために電池を取り外すことも重要だろう。
ただ取り外すだけでも効果がありそうだし、単に接触不良だった場合なら、この外す行為自体が絶大な効果をもたらすはずだから。
接触不良系の療法と言えば「電池をくるくる回す」も外せない。
電池をセットしたまま、くるくる回すのである。
これもだめでもともと、お手軽お試しがいい感じだ。
これで少しの間でも動いてくれればいいのである。
長時間放置。
一見「買いにいったほうが・・・」という気もするが、実はみんなやったことあるはずだ。
そう、「前に切れた電池をあてがってみる」だ。
それはだいぶ放置した電池に違いなく、またそれで動いてしまったりするものだから、電池がなかなか捨てられないという文化も生まれそうである。
電池を捨てられず、繰り返し繰り返し交互に切れた電池を使い続けた結果、単三電池が単四電池になってしまったという話もなくはなく、この単四電池のくだりはまず話として誰にも言わないな、という感じ。
ということで我がマウスの電池が切れて久しい。
どうしよう。
次回、こうしてみたらまた電池復活するんじゃね?

おまえスペシャル。

本当にずっと、絵が苦手である。
中学のころに書いた人物画は全て同じ方向をむき、ほおづえは手刀となる。
うつろな瞳はまあ、何かよろしくないことを彷彿とさせるのだった。
そんな僕も、長期にわたる落書きチャレンジのおかげで「全然うまくないけど、一見して何かは分かる」程度の絵心を取得できたようす。
らくがきを見た者は口々に「何を書きたかったのかは分かる」というのだ。
それにしてもスペシャルマンの胸元のナンバリングは何だったろうか。
何かというと、深夜にらくがきをしていたのだ。
そのときは調子がよくて「ヘーベルハウスに登場するひつじのパペット」が非常に納得できるできになっていたりした。
そんな流れでの「スペシャルマン」。
確かキン肉マンに出てくる超人で、有名どころには一歩以上劣るがちょいちょい登場するやつだった。
彼の特徴は覚えていた。
昔のテレビを思い浮かべるとき、それについているアンテナ。
あるいは恒星のまわりを回る惑星の軌跡。
そんな感じのものが額についている。
スペシャルマンはそんな面持ちのほかに、確か胸元に数字が書いてあるのが特徴だったように思う。
しかし、それが思い出せない。
僕のスペシャルマンは何か叫んだような感じになってしまったが、それはナンバリングが施されていないがための、何らかの主張のようにもとらえられる。
89だった気がする。
しかしスペシャルだろうか、89。
100に11足らない数。
1から9までの九九の範囲を、少し超えたとしても1以外では登場しない数。
世界が89進数だったらスペシャルかもしれないが、今のところあまり映えない89。
こまった!!。
正解
99のよう。
しかも額に「S」、胸元の99の上には「SPECIAL」ってあるみたい。
「おれのナンバーは99で、しかもSもSPECIALもねえ!!」。
「もはや書き直しの域だよ!!」って、僕のらくがきは叫んでいたみたいだ。

怪談のタイトルについて

怪談で興味をひくのは、そのタイトルだ。
「雨の日のバス停」や「病院」など、日常的に目にするものやことば。
これが「怪談を聞く」というフィルターを通すと、やたら意味ありげで怖いものになる。
「深夜のタクシー」や「トンネル」とかも。
となると今後期待されるのが、何かの一周をした場合のタイトルだ。
「ゆうれい」
なんて新鮮なんだろう!!。
あるいはそこからどう怖い話につなげるの?と考えさせられるのもいい。
「あゆの塩焼き」
この方向性はけっこう難しい。
冒頭のように、「日常的に目にするものやことば」が、怪談ともなると怪しげなものに感じられる。
ゆえにそこそこの「どう怖い話につなげるの?」なことばでは、ちゃんと怪しげなものになってしまうのだ。
「あゆの塩焼き」だって、全然知らない血まみれの人が毎夜ポストにあゆの塩焼きを入れて消えるという怪談になりえるし、あゆの霊だってのも考えられないことではない。
「サンガリア」
これは結構いいのではないだろうか。
突き詰めると「サンガリアで亡くなった人がいる」とかで派生できるが、亡くなる人はどんな会社でもどうしてもいるわけだし、それはもはや怪談タイトルが「サンガリア」であることもない。
何よりも現在も活躍中のメーカーなので、いろいろと「ちゃんと怪談になるの?」「いいの名前まるみえだけど」感が出てよい。
このくらい人は「怪談 サンガリア」と聞いたとき思う。
だから注目されるだろう。
「地デジ」
これも一見、怪談になりにくい。
なによりも「まだ」な点がそう。
しかし「地デジ化」だと少し気色が変わる。
「地デジ化」という言葉から地デジ化に乗り遅れたおばあさんを想像してしまえば、もはや怪談としての要素を必要十分もつ。
やはり「地デジ」のほうがいい。
似たものとしては「エコポイント」なども「そこからどんな怪談が繰り広げられるの」と興味がわく。
「宇宙人」
これはかなりダイレクトな怪談なのでは、と思われるかもしれない。
しかし怪談は、基本的にはゆうれいや人外のものの話であり、宇宙人はUFO話である。
だから怪談で宇宙人とは、そこからさらにゆうれいが生じる必要があり、不思議話のぜんぶのせ状態。
どういった怪談になるのか想像もつかないものになるのである。
「米軍機が撃ち落としたUFOの乗組員が夜な夜なゆうれいとして歩き回り、操縦レバーを探しまわる」
属性多過ぎである。

マナー

「スティール・ボール・ラン」で登場人物のひとりが、たしか「ナプキンを最初に手に取るもの」について熱く語る。
もちろんこれはナプキンフェチ連盟での、自らのフェチ魂の高みについて話されたものではなく、あらゆる事象のきっかけを作る、影響を与えることについての例え、あるいはラプラスの悪魔的な発想とでもとらえるべきだろうか。
よくわかんないけど。
こないだ「大人のマナー」みたいな雑誌を見ていたところ、「友人の祝儀には何円を入れるか」みたいなコーナーがあった。
そこのは年齢別の集計表があって、確かどの年齢でも「3万円」一律だった。
一律というのはすごい。
その性質上、なかなか他人に確認できないだろう「祝儀のお金」。
それがあーた、決め合わせたかのように、一律。
誰かが最初に決めたのだ。
「友人の祝儀は3万円」と。
派生で「結婚でペアだから、2万円もあり」みたいなものもあるが、あくまで基本は「3万円」で揺るいでなさそう。
すごい決定力である。
それにしても、「最初の人」が5とか7が大好きでなくて、本当によかったと思う。
一方で、音楽が好きでもないらしい。
好きだったら音楽ギフト券が祝儀に入れられる文化になっていたはずだし。
そう考えると、いろんな意味で米が大好きでなくて、良かった。
お米券ならまだしも、八十八ととらえられたら、もう。
どうやら最初の人のことでわかるのは、お金が好きな事だけ。

以前も触れた事あるが、走性というのがある。
例えば「おいしいものとまずいもの」があるなか、生物がおいしいほうへと行く。
これを「正の走おいしいもの性」と言えるわけだ。
なんだか分からないが、とにかくまずいものしか興味ない生物だった場合、それはまずいほうへと行き、「負の走おいしいもの性」となる。
中学だか高校だかの理科の授業であった。
ミドリムシという全然むしじゃない、プランクトンな感じの生物は「正の走光性」を持つというのだ。
どうも光合成ができるので、そのため光に集まりたいらしい。
変である。
なぜ「光に集まりたい」のなら、飛翔する能力を進化の過程で獲得していないのだろうか。
そのほうが、よっぽど光のほうへ近寄れるだろうに。
プランクトンだからかんべんしてくれとでも言うのだろうか。
「イカロスはロウで固めた鳥の羽で、太陽目指してん!!」
図解書のミドリムシ写真に鳥の羽を書いてあげたわけだが、ひとつわかったことがある。
「走性は生きていく上で重要な機能だが、ほどほどである」
光には集まるが、その性質があとあと空を飛ぶ能力、宇宙を駆け巡る能力にまで発展する事はないわけだ。
いや、まだ進化の途中だから、いつかは性質ががらりと変わったミドリムシがその時点でのミドリムシになりえるのかもしれないのか。
「空をめぐり、光のない夜間、自ら発光するミドリムシ」
今の僕らは、それを星と呼ぶ。

ものごころ

「ものごころがつく」というのは、具体的にはいつごろからなのだろうか。
と、そう考えているとピンポイントな年齢を出す作業になりそうだが、そこには興味はなく、どちらかというと人によってかなり差異があるのではないかというところ。
「自分が考えるように、他の人も考えている」
人間同士の関係についての発見が「ものごころ」たる要素だとすれば、それはだいたい幼少期で落ち着きそうだ。
しかしその確立までを範疇に含めると、いきなり「ものごころはまだついていません」という26歳とかが現れてしまうかもしれない。
人生を理解し許容する姿勢がその要素だとしたら、もしかしたらほとんど「ものごころついてない」まま人生をまっとうしていたり。
一方で「ものごころついた」幼稚園児がいて、砂場で山を作っては静かにうなずいていたりする。
口癖は「それはもうわかっているんですけれど」で、ちょっと嫌な園児。
また、人生どうこうなどとそこまで行かなくても「なんとなく社会というものがどういったもので、どんなふうにやっていたら問題ないのか」がわかったとき、ものごころがつくのだとしたら、それは言い換えると「なあなあがつく」になる。
これは22歳とかで「なあなあがつく」人が多いのではないだろうか。
「いつもは横断歩道を使わず道路を横断してしまうが、パトカーの前ではそれをやらない」
なあなあがついている、良い例である。
人間関係の一片として、恋愛感情がそれにあたるとすれば、そこは心情的に「こいごころがつく」としたい。
これも人によってずいぶん差ができそうだ。
スカートめくりがその特徴的な動作だとすれば、小さい頃が「ものごころ発祥」だろうが、まあ大人でもやっちゃう人もいるわけで、まあそれほど掘り下げない。
最後に、ことばそのままの意味を考えてみる。
「ものごころがつく」
付喪神にたたられてますな。