小僧、ひとつ。

「一つなんとか小僧」のような妖怪はどのくらいいたのだろうか。
いわゆる「一つ目小僧」のたぐいである。
いや、妖怪の話題に「いわゆる」なんて言葉を使うのは変なのだが。
「例の妖怪の件なんだけど」
こんな会話が日常的にかわされる妖怪マニア間でしか、使ってはいけないのではないだろうか「妖怪の話題に関するいわゆる」。
もちろん彼らの間では、「件」は「くだん」と読まれる。
さて話は戻るが「一つなんとか小僧」だ。
「ひとつくち小僧」
大丈夫だ。
もちろんいたはずで、それはそこらにいる小僧大半を占めていたはずだ。
すわなちただの小僧であり、妖怪ではない。
ざんねんだが、僕の考えでは大多数の普通の小僧にまぎれて「一つくち小僧」が生息していたのは間違いない。
水木ぐち(水木しげる漫画に登場するキャラクターの多くが供えている、独特なくちの形状のこと)が特徴である。
「ひとつ箸小僧」
僕がその存在を思いついたとき、もう悲しい逸話が3個くらいは想像された。
3つとも、結果的には箸関連で打ち殺されてしまった小僧の念から生まれた感じになる。
「ひとつおぼえ小僧」
馬鹿なのである。
庭を掃くよう命じたら、その場所ばかり掃き続け。
30cmくらい掃き下げてしまうくらい、馬鹿なのである。
あまりの馬鹿さに主人は畏怖を覚え、晴れて妖怪化。
「小僧、ひとつまみ」
ちょっと趣向を変えてみた。
多分に妖怪なのだろうが、多分に怖くない。
類似案件に「小僧を少々」などもあり、男なんてものは一種のスパイスみたいなものよという、ある種のフェミニズム。
「ひとつ小僧、ふたつ少女」
1姫2太郎みたいなもので、その点では全く妖怪ではない。
しかし気を許すと「ひとつ小僧、ふたつ少女、3なすび」となり、結構いろいろ考えると思いのほか奥深く、そしてよろしくない。
あくまでなすびの妖怪的な色合いだけに注目、「ああ妖怪じみてるね」程度で終わらす。
こういろいろ挙げて参りましたが、結局は、ひとつのどうこうの妖怪ってのは「一つ目小僧」が一番しっくりくるわけでしてまあ、いわゆるひとつの。
おちなくても、おわり。

ヤツメウナギについて。

ヤツメウナギをご存知だろうか。
とかいって僕もあまりよく知らない。
見た目気持ち悪いから。
確か、ほぼうなぎだが種類は違って、えらの穴がちょうど目の後ろに幾つか目立って見え、それが目を含めると8こ。
だから八つ目、だった気がする。
彼ら円口類はその名の通り、吸盤みたいに丸い口を持っており、他の魚などに口で引っ付き、血をすするという、人間社会ではあまりほめられない摂食方法をとる。
先日書いたように、ヤツメウナギの鼻の穴に相当する器官はひとつなのだそうだ。
ここに、和名をつけた学者の葛藤が目に見える。
「ヤツメウナギなのか、ヒトツハナノアナウナギなのか、にゅるりん棒なのか」
結果、ヤツメウナギにはなってしまったが、僕としては「ひとつ屋根の下うなぎ」が気になる。
え、そんなもの挙げられていないって?。
本当?。
おかしいなあ。

なんとか小僧について。

妖怪には「なんとか小僧」というのが多い。
apple storeには妖怪関連のレファレンスがいくつかあり、妖怪には事欠かない。
一つ目小僧
そでひき小僧
そろばん小僧
他にもたくさんいるようだ「妖怪なんとか小僧」。
ただ、例に挙げたものを見るかぎりでは「一つ目小僧」の妖怪っぷりは目を引く者がある。
他のは、下手すると近所にいたし、今もいる。
要は普通の子供である。
一つ目小僧には今後ともがんばってもらいたいところだ。
それにしても妖怪には多いよ「なんとか小僧」。
「なんとか男」「なんとか女」もけっこういそうだが、やはり小僧だ。
いなかったのか、小僧以外には。
「一つ目淑女」
いたんじゃないんだろうか。
だが一つ目であることが恥ずかしかったんじゃないだろうか。
だから知られていない。
「そでひき熟女」
銀座とかに今でもいるんじゃないだろうか。
妖怪という観点でも、あんがい。
「そろばん少女」
もう、「そろばん少女愛ちゃんです」って昔ニュースでやってなかったっけ?という感じすらある。
「あしながおじさん」
実は妖怪でした。
「破裏拳ポリマー」
なんか書きたかった。
並べるといい感じになると思う。
そでひき小僧
そろばん小僧
破裏拳ポリマー
混ぜてもいい。
そでひきポリマー
そろばんポリマー
破裏拳淑女
ところで、この場合のポリマーって何?。

ひとつ

一つ目小僧はいたらしいのに、一つ鼻の穴小僧がいなかったらしいのはなぜだろうか。
「実はいたが、目立たなかった」
もっともな意見である。
ヤツメウナギなどの円口類に属するぬめぬめたちは鼻の穴に相当するものが一つだそうだ。
そして、そもそも生物が鼻みたいなものを持ったときに、それが穴ひとつだったかふたつだったかも、よく分からないらしい。
一つで悪いことはない。
ひとつなら、唇と鼻の間に存在する謎の溝がちょうと鼻息の通り道となるため、都合がいい。
片方だけ詰まって気分が悪いこともない。
一つ穴は死ぬか生きるか、だ。
でも、やはり人間、いままで二つ穴で慣れ親しんできたため、一つは見た目怖い気もする。
一つ穴を見たとき、それは二つの穴を隔てる壁を手術で取っ払ってしまったんじゃないかと思うだろう。
それにしても、なんかいろいろ気になってきた。
1妖怪は「なんとか小僧」が多い。
2ヤツメウナギの鼻の穴が一つとかって、それ以前にヤツメを気にするべきだ。
3「一つなんとか小僧」のような妖怪は他にいたのか。
次回、1。

毒虫の犠牲術

例の、あれだ。
毒々しい毛虫とかの、あれだ。
一度その虫を食べて、毒によってつらい思いをした鳥は、その色の虫を見てももう食べないっていう、あれだ。
この話がとにかく腑に落ちないのは、なぜだろう。
やはり、最初にして唯一となりえる、犠牲者の虫のことだろうか。
自己犠牲心がものすごい虫なんているのだろうか。
あやしい。
それとも、こうだろうか。
「毒々しい色をしているが、一度は食べられていないとその毒々しさの意味がない」

「しかし食べられるのは、自分じゃないだろう」

「毒々しいで、いこう」
ついばまれてしまった毒虫の心情はいかに。
「おれ?、おれなの?」
あるいは毒虫を食べて相手が死んでしまった場合。
それが毒虫であると他の鳥には伝わらないため、鳥がやはりそいつをついばんでしまうのではないだろうか。
と、ここで勘違いというか考え不足な点に気づく。
毒虫の毒は、相手を殺すための毒なのか、嫌な思いをさせるための毒なのか。
前者なら戦略は「虫>鳥」の絶対的な数の違いを全面に押し出しての、虫勝利である。
しかし虫側にも相応の被害が出る。
一方後者なら、鳥は減少はしない。
ただし天敵としての素質も下がるだろうから、虫勝利ではあろう。
そして何よりも気になるのが「鳥間での情報伝達」があるのかないのか、あるいはどれほどのものなのだろうかという点。
「おれあいつ食ったらすげーつらかった」
この旨を相手の鳥に伝えられるのなら、後者の虫の戦略はかなり効率がいい。
その伝え方はアイコンタクトかもしれないし、虫を食べてつらそうに口を開けている姿を見られることかもしれない。
食べてすぐ出すのもいい。
そうすると見ていたやつがまた食いついて、またすぐ出すだろうから、犠牲1で2粒おいしい計算になる。
とはいえ、これらの戦略どちらせによ、あんまりに虫勝利になってしまうのは考えものだ。
天敵の減少による虫の爆発的増大から、えさ不足によって虫死滅も考えられてしまうから。
だから虫としては、鳥もつらいかもしれないけど少しは自分たちを食べてもらいたい、と思っているだろう。
当事者はもちろん「おれ?、おれなの?」だろうけど。

布石

オセロで、表裏両方とも白あるいは黒のやつが1枚だけあって、それぞれ1回だけ使用していいルールになる。
なんか面白そうな雰囲気になりそうだけど、あんがいその両面のやつを置く定石ゾーンがすぐに見つかってしまうかもしれない。
昔はよく、ローカルルールを勝手に作ったオセロを他人に強要してはいやがられたものだ。
1ターン2枚づつ置けるとか、どこから置いてもいいとか。
一番いやがられたのは「板を見せない」だった。
これは双方から「2のA」だとかで駒を置くところを聴き、僕がそれを置いていく。
ゲームをしている人は現状が見えない訳で、まとめると彼らの駒を置く僕だけが「あーあ」とか「おー」などと展開を楽しむ事ができる。
そんな感じ。
ちなみにその結果は、まさかの32対32。
白黒つかなかった。

これ、いかがでしょうか?。

重要

ある、全然知らない人の軽食中での言葉によると「重要な事は重要よ」ということである。
もっともである。
「鬼は外と福は内」
どちらがより重要か。
先ほどの全然知らない人は、福は内を言わなかったという相手に対して「福は内が重要なんじゃない!」と言っていたのだった。
それを聴いていて今回。
僕はどちらかというと「鬼は外」のほうが重要なんじゃないかと思った。
もちろんこの「鬼は外、福は内」にはローカル色あふれる亜種が存在するらしく、鬼も内に入れてしまう慈しみの精神あふれる地方もあるし、「鬼は外、福も外」という自立指向型、「鬼は福、福は鬼」というその日は朝から夜だった型などもあるため、一概にはどちらがより重要かなんてのは決められず、そして多少うそをついてごめんなさい。
「トイレ」
僕が一番重要だと思うのは「下半身についている衣類をほどほどに脱ぐ」だ。

様相

僕には「一度名前を覚えられなかった人は、ずっと名前が覚えられない」という申し訳ない癖みたいなものがあって、顔はよく知っているが名前はぜんぜん出ず、仕方なく再度確認してしまう。
そんな状況だから、もしかしたらその再度確認後にお話展開も再度だったりするかもしれず、これまた申し訳ない。
困るのが、その人がその場にいないときに会話だ。
名前が思い出せないので、その人ずばりを持ち出す事ができない。
ということで、今のところ僕の中には「帝都大戦の人」が2人、「げっ歯類の人」が3人、「かまきりめがね」が2人となっているのです。

末期のケア

こう、ポテトチップスの袋を持ち上げて、最後のかけらの山をざざーっと食べようとするとき、何かしらの罪悪感を持つべきなのだろうか。
と、もちろんここで感じるべき罪悪感というのは、なんとなく誰しも分かってしまうものだと思う。
なので、どんな罪悪感なのか、近いものを次の3つの中から探してみることにする。
1.電車の座席に座ったとき、その空席が目的だったらしいおばさんが当てもなく通り過ぎるさまを見たときの罪悪感。
2.じゃんけんで負けた罰として、大往生間近の人に水とブレスケアを与えたときの罪悪感。
3.自動販売機の小銭が出る箇所に熟した柿を目一杯詰め込んだときの罪悪感。
1がやや近くて、2が人間としてだめで、3は普通かな。