長いお別れ

弱肉強食の世界に謙遜というものがあるとすれば、こんな感じだろうか。
「ちょっと食べさせてもらいますよ」
となるともう片方も「胃の方、拝借させていただきます」と一言。
それから「おじゃまします」、「一休みさせていただきます」となるか。
どちらにせよ、謙遜すぎるのも考えものである。
ただ、これは捕食間際の話であって、もっと前から「すいません、追っています、追っています」というのがあるだろうし、「ああ、じらしてすいません。逃げちゃって」が対として存在する。
となると「お腹へらしちゃってすいません」、「そんなにおいしくなくてすいません」てのもあり、いろいろだ。
しかし奇妙なことに、この流れは収束する。
「生きててすいません」
謙遜というよりは逃避である。

はっさくについて

生物のからだのなかにはレセプターというものがあって、それは「なんか来たらなんかする」という仕組みを担う装置らしい。
たとえば、ある物質を分解する細胞には、表面にその物質に対するレセプターがある。
その濃度が高くなるとレセプターがその物質を検出する頻度が高くなり、「その物質が来たら分解酵素を出す」みたいなことの頻度も増し、結果的に程よい濃度に調整する。
確かこんな感じだった気が。
形の似た物質にだまされたりもするが、基本的には生物の恒常性の主たる機能のひとつだろう。
土手を自転車で走っていると、キャッチボールをしている人がいた。
それを見て何となく思い出したのだ。
レセプターの話はどちらかというとキャッチボールというよりは「ピッチャー、キャッチャーの関係」かも知れない。一方的だからだ。
これには「来た物質の形を変えてしまう、酵素みたいな機能もあるやつ」がいたかもしれないが、まあ分からない。
このレセプターは、自分の相方とも言える「その物質」がずっと来なかったらどうなるのだろう。
機能が低下したり、なくなってしまったりするのだろうか。
「夕暮れの広場に一人かまえるキャッチャー。日が沈みかけた頃、とつぜん栗が飛んでくる」
栗をボールと判断した場合、彼は栗を取ってしまう。
2塁にすら投げてしまうかもしれない。
次に考えたのはネットワークの世界だ。
「この内容の情報が来たら、この処理を行う」
そんな動作をする仕組みがある。
これも「ピッチャー、キャッチャーの関係」だろうか。
ボールが来るまでは、じっと待つはずである。
こちらが生物のやつと違うのは、形の似た情報が来たとしても、何もしないところだろう。
もちろん「形の似た情報」の方も処理するようになっていればいいのだが、それなしに「これ、例の情報とは違うんだけど、似てるから処理してよ」はまずできない。
やるなら、少し根源的な方法が必要だ。
「夕暮れの広場に一人かまえるキャッチャー。日が沈みかけた頃、とつぜんはっさくが飛んでくる」
こちらはすぐはっさくを見捨てる。
さっとよける。
取ってもらいたいのなら、まず彼を呼び出し、はっさくもボールみたいなものだという事を教える必要がある。
それにしても「夕暮れの広場に一人かまえるキャッチャー」というのは、なかなかいい。

回転の弾丸

この弾丸は貫通しやすいから、非人道的ではないよ。
そんな話があるのだろうか。
ダムダム弾という、ポップな名称とは裏腹に殺傷能力の高い弾丸がある。
これはあたると変形し、標的にとどまって大きなダメージを与えるとかで、よろしくないとのこと。
ということでスピン、貫通能の高い方が人道的ということに。
なんじゃそりゃというのはさておき、気になるのは「弾丸を回転させようとした人たちの真意」だ。
それはおそらく「弾丸をとどまらせちゃまずいよね」という観点ではなく、いかに相手にダメージを与えるかを模索したことの一つの結果だろう。
もしかしたら使用する側の安全面を考慮した結果というのもあるかもしれない。
どちらにせよ、弾丸と相手に与えるダメージの知見がわかってきてからの、あとづけのような気がする。
それでも弾丸の種類に、人道的と非人道的に分けられるというのだから、へんなところだ。
この弾丸は相手が死んだ事すら気づかないから、非人道的ではないよ。
いつか、これすら「人道的か非人道的かに分けられる」ことになるんじゃないだろうか。

犬がほら 服を着てる

犬に服を着せることが特殊だった時代は日本ではもう終わり、むしろどんな服を着せているのかぐらいの話になっている。
かわいいが、不思議といえば不思議なことである。
うちの猫も毛が薄いので、なんか着せている。
主人の葬式に喪服姿で連れてこられる犬。
しかし度が過ぎているというのもある。
今書いたのが、まさにその典型的な例だ。
犬の喪服を用意し、着させる心理的余裕がある。
そうとらえられてしまう。
ウェットスーツを着せられてサーフボードの先頭に立つ犬。
わからないが、溺れるのではないだろうか。
縁日などで見られる、犬のふうせんに車輪の付いたもの。
ぜんぜん話が違うのだが、僕はこれの意味することがいまいち分からない。
まあ、全体的に度が過ぎてはいけないのだ。
なんとなくだが、「喪服姿で改札に来るハチ公」というのを思いついた。
通りがかりの人はそれを見てこう思うだろう。
「もう死んでるって分かってるやん」

しゃっくり

しゃっくりが「母胎内にいたころの水中生活から、転じて肺呼吸を行うようになる我々の、肺を鍛えるための運動のなごり」だというような記載をどこかで見たような、見ていないような。
真偽は定かでなく、かなりあやしいが、少なくとも味のある話である。
もちろん程度がひどければ問題だが、小さい子がしゃっくりをしているのがいとおしく思えるようだ。
「この子はお腹のなかにいたころのことを思い出している」
一方おじさんがやっていたりしたらなんかいやだ。
「なぜお前が横隔膜をけいれんさせることがあるのか」
今、目の前のおじさんがしゃっくりをしている。
おじさんは夕焼けのふるさとでも思い出していたのだろうか。

あやつり人形

あやつり人形というものを想像すると、「糸で吊るされたやつ」が思い出される。
何となくなのだが、「吊るされている」という段階で人より劣ります感が出まくっている。
上から引っ張ってもらわない限り、力なくだらりとしているんだろうから。
収納されているときを想像すると、とてもざんねんだ。
となると、棒をつけて下から操作するタイプのあやつり人形というものはあるのだろうかという話になるが、これは確か見た事のあるような気がする。
教育テレビあたりで。
で、これはどうかというと処刑風だ。
糸に比べて細かい操作がしやすそうだが、いかんせん串刺し。
収納風景は、一見そういう調理方法?、といった感じだ。
長い棒の両脇に人形を付け、その間に人が入って操作するタイプも思い出した。
ものまね王座あたりで見た。
これが他のものと違うのは、「操作するのに人が必要です」がすぐに分かる構造であり、しかも「なんだか楽しい」ということだ。
細かな動きはできなさそうだが、とても楽しそうに見えるのである。
これの収納をどのようにやっているのかは知らないが、収納スペースの関係で、人の入るところに別の人形が入れられていたりすると、非常に哲学的なものを感じる。
人間大の人形で、人がそれ自体を支えてあやつるタイプもあるだろうか。
あるとすれば、それは操作する人自身が人形と同じことをすれば、人形いらないんじゃないかという気もする。
しかし必要なときもある。
もちろん人の入るところに収納する、例の用途である。

執着

実力のあるサッカー選手や野球選手を一言でいうと「ボールに対する執着が強い」となりそうだ。
一時的に観客席やゴールへとボールを放さなくてはならないが、それも一種の執着、愛情表現とでも言えよう。
この観点からすると、一番いいスポーツはラグビーだろう。
「執着」と「しがみつく」ということが、非常に相性がいいためだ。
世の中に「執着されていないもの」はあるのだろうか。
例えばペットボトルのふた。
ほとんどの人にとっては、それは「ふた」以上の何者でもない。
しかし僕の机の一番上の引き出しには「クー」のふたが大量にある。
描かれた「クー」の表情が違うため、何となく集めてしまったのだ。
そこらに転がっている小石だって、ただの小石である場合もあれば誰かが必死に見つけようとしているまさにそれなのかもしれない。
ただこれは「執着」というよりは「思い出」みたいなものだろう。
思い出を胸に疾走するラグビー選手。
なんかの角川映画みたいだ!!。

さりげ

さりげない話、というものに憧れている。
天候や気温の話、近況、「髪切った?」でもいいはずなのだが、どうもうまくできない。
以前書いたかもしれないが「対人魚雷」のパフォーマンスの悪そうな感じだとか、自動ドアが開かなかったから、僕が死んだら葬式でその旨を虫の知らせとしてネタにしてもいいよとか、大陸棚ニューウェーブってなんか面白くない?、とかだ。
先日ダンスの劇みたいなものを拝見し、すごく面白かったのだが、それを誰かに言おうとするときにどうしても必要なのが「ポーズ」だ。
気に入ったポーズがあったのだが、それは口でどうこう言うよりも実際に見せた方がいいに決まっている。
でもポーズはさりげなくない。
さりげないポーズというのは「いつも」だから。
説明に必要なのだから、さりげなくないポーズをするべきなのか。
そもそもダンスの話がさりげなくないのか。
人によっては、さりげない話とは何も話さないことなのかもしれない。

見た目が9割

いまだに「食べるラー油」を食べていない。
なんだかすごくおいしそうな見た目だが、にんにくが苦手なので難しいところだ。
浴びるラー油
アーユルヴェーダ
注文の多い料理店
あびる優
今のは関係ないが、僕には「あまり好きではないが、見ている分にはおいしそうに見えるもの」というものが多い。
ビールは、CMの冷え冷え感がすごくおいしそうに見える。
しかしあまり得意ではない。
生がきもだ。
見た目だけで、なんだか新鮮なものは違うね、くらい感じてしまうのだが、これは完全な食わず嫌い。
食べたらおそらく生がき以上の質量を持つ何かを出す。
どれもこれも、商品をうまく見せられるプロがいるからそう見えるのだろう。
苦手な物もおいしく見せられるなんてすごい。
なめるラー油
ばけねこ
あじみ
ラー油
今のも関係ないんだ、ほんと。

何やら暗い話に。

ソースが分からないのだが、こんなことを知っている。
「飛び降り自殺をした人は、落ちた直後、いったん立つ」
うそだろうか。
それとも何か、有名な話があるのだろうか。
ただ、怖いのは確かだ。
非常に怖い。
でも、何が怖いのか。
ひどい大けがで立ち上がれないはずなのに、立ち上がるのが怖いのだろうか。
その反射的な動きが怖いのだろうか。
僕が思うに「飛び降り自殺して落ちた人」というのを、我々は「既に死んでしまった人」と認識するのではないだろうか。
死んだ人の動くのが怖いのだ。
そして「ただ立つ」というのが怖い。
あまりに日常的でシンプルな動作で自分自身も行うものだから、あたかも死人が自分の存在に介入してきたような錯覚を覚えるから、かもしれない。
例えばこれが「飛び降り自殺をした人は、落ちた直後、お腹からオルゴールが聞こえる」だとどうなるか。
怖い事は怖いのだが、自身にはまず起こりえず、起きてこなかった事である。
だから、死と自分というものが隣接しえないことであると思え、ただ立つほどの怖さは感じない。
死して神になる神話や即身仏の扱い、あるいは偶像崇拝のように、死や命ないものを神格化したり尊んだりする文化は世界にある。
そういった面で考えてみると、ある意味「飛び降り自殺をして落ちた直後いったん立つ人」は生と死の境目を行き来する希有な存在であるとも言えるが、今のところ僕は「飛び降り自殺をして落ちた直後いったん立つ人」を目の当たりにしても、その後ろに後光の見える事はないだろう。
たぶんわーとかぎゃーとか言う。