なめくじ

なめくじに「かかと」があるのか、ということは全然考えていなかったが、なめくじの話だ。
なんとなくだが「かかと」がしっぽの部分だとしたら、かかとかさかさななめくじは進む事ができないだろう。
小さい頃、なめくじの通ったあとの粘液を見て心配だったのは「あのねばねばは、なめくじのかけらみたいなものであって、進めば進むほどなめくじは削れて小さくなってしまうのではないか」ということだった。
進めば進むほど小さくなるなめくじを想像して、幼いながらに消費社会におけるある種の顛末を見せられたような気がしたものだ。
うそである。
僕がむしろ心配していたのは「進んでいるなめくじのすぐ後ろを進んでくるなめくじは、どんどん大きくなるのではないか」というものだった。
例の粘液を吸収していき、巨大化する。
雨の日、塀をF1っぽく相手の後ろをとりまくるなめくじたちを想像し、ある日ぼたりと夏みかん大のなめくじがいたらどうしようなどと考えたものだ。
そこまで巨大化するのは大変だったろう。
こう道ばたに落ちているのも、あまりに体が大きく、重くなりすぎて塀にへばりつけなくなったがためだ。
なんとなく垢擦りで垢がこんなにとれました、というのを思い出しながら、僕はそんななめくじを見たときのために、驚くシミュレーションなんかをしていた。
うそである。
僕は昔から、なめくじに対してなんら感情を持ち合わせてはいなかった。
まあ、気持ち悪かった。
かたつむりほどに持つところもなく、分泌系で、何より「つー」と進むのだ。
「つー」と音を出して進んでるようにすら見えた。
そしてなにより、これ以上に決定的な何かが僕となめくじのあいだには起こらなかった。
サンドイッチのなかに入っていたとか、額を這われたとか、あるいは逆に卒業式の日に塀に「おめでとう」となめくじで書かれていたとか、なめくじをいじめようと探していたら「しおやめて」となめくじで書かれていたとか。
こんなにも何も起きないかね、なめくじとは。
決定的な何かが、僕らには起こらなかったのである。
なのになぜ今回、なめくじなのか。
それは例の、かかとってくだりが、さ。

めめについて

めめというちゃとら猫を飼っている。
彼女はもう1年くらい前だろうか。
うちの庭にふらふらと現れた。
「ふらふら」というのは、実際目的地もなかっただろうが、その姿にも通ずるものでもある。
やせ細っていて、年齢も不明。
病気を持っているかもしれないので家には入れられない。
とりあえずエサを与えるために捕まえようとした家族が見たのは、病的に薄くなった毛のなかを颯爽と走るノミだった。
猫の毛のなかを走るノミは素早い。
しかしとにかく颯爽と走り抜けるので、なんだか気持ち良さそうに見える。
猫にとっては小さい虫が体表を這い回っているということで、くすぐったいことこの上ないだろう。
猫はノミにとってハイウェイなのかもしれない。
ノミはもういいが、とにかくめめはぼろぼろだった。
けっこういいところを省略するが、現在は少し毛の少ない事以外はいたって元気で、かすれた声で甘えてくる。
おそらく彼女に取って今の生活に不具合はなく、せいせい服を着させられるから自分の体がなめづらいことくらいだろう。
ところで以前、彼女の尻から虫、いわゆる寄生虫が出たらしいのである。
回虫だろうか。
僕は見た事ないが、そんなことを家族が言っていた。
いきつけの動物病院に行ってもいいのだが、何となく市販の虫下しを試したところ、どうやらいなくなったようす。
人に入り込んだら目に潜入して失明させてしまった例もあるらしく、おさまってよかった。
と、このような由来がある以上、彼女は何かにつけて「虫でちゃうし」と言い含められる事が多くなってしまった。
甘えてきても、なでられつつ「虫でちゃうからねー」と言われてしまう。
ねこじゃらしで遊んでいても「興奮しすぎて虫でちゃうかもしれないから」と言われてしまう。
ひなたぼっこをしていたら「寝ながら尻から虫がでる」と、どこかで聞いたような語呂のが誕生してしまった。
猫ですらこうなのだから、検便的なもので虫が疑われてしまった子供は大変な憂き目に合ったことだろう。
憎むべきは虫である。
ちなみにめめは慢性鼻炎だそうだ。
今もズボンに甘えられて鼻水をつけられてしまった。
悪魔が来りて笛を吹く。
現在ふとんのど真ん中で寝るのが彼女の流行だ。

黒洞々

「暗がりから牛」ということわざがある。
暗がりから牛が出てきても、暗がりだからよくわからない。
そもそも牛がいたのかもわからなかった。
区別がつかない、という意味だったように思う。
あと動作がのろいという、あんまりな意味もあったか。
とにかく、この時点でかなり何なのだ。
牛でなくてもいいのだ。
犬でも猫でも、人だっていい。
その時点でわかってなくったっていい。
「暗がりから何か」
なんやことわざができたときですら、それが何か区別つかなかったんか。
それはまさに「区別がつかない」という意味そのものであり、より端麗だ。
しかしこのことわざで僕が気になるのは、「暗がりから牛、なんか怖い」ということだ。
けっこう、ホラーじみているような感じがする。
一時期このことわざの意味は「怖いこと」だと思っていた事があるくらいだ。
となると、ここでも問題になるのが「牛でなくてもいい」というもの。
それこそ先ほどの「暗がりから何か」は、かなり怖い。
一方、怖い方面で考えると犬、猫、人はちょっと牛には劣る。
「暗がりから白い手」なんてのはもう悪意がある。
手の方に悪意があり、たいへん怖い。
ゆるせない。
白い手ゆるせない。
でも、その白い手が缶ビールを持っていたりすると事態は少しだけ変わる。
最終的には怖いが、その前にいろいろ考えるはずだ。
プルトップが開けられていたら乾杯を要求しているのかもしれない。
ほんの少しだけ斜めに持っていたらCMかもしれない。
僕が思うに、冷えてない缶ビールだったら、怖さは白い手ノーマルのときよりも倍増する。
「乾杯をしようとする残留思念。もう時間が経ちすぎて、ビールも冷えていないというのに」
こう感じるからだ。
白い手以外で「暗がりから何か」を考えると、正直たいがいのものは怖い。
怖くないものなんてないくらいだ。
ただ、ひとつここで何か挙げてとなると、今のところ僕は「暗がりからドアノブ」と答えるだろうか。

MIB

「もしもし、武田?」
「はい武田です。ああ先輩ですか。どうも」
よくある携帯電話でのやりとり。
用件がやり取りされる。
おやおや、先輩と武田の用件は、ゲームの事のようですね。
「その村、入り口に隠し通路があるから、その奥にいる村人に話しかけるんだよ」
しかし唐突に武田から電話が切られる。
「ああそうなんだ。あれ、すいません先輩。いまちょっ」
すぐにかけ直す。
「なんか切れたな。武田?」
「ハイ、タケダデース」
=====
ありがちなお笑い話かもしれないが、結構奥が深いと思う。
まず「先輩」はこう思うだろう。
知らんやつが電話に出た。
なぜか武田は電話に出られないらしい。
何かあったのか、と。
次に、もしかしたら電話の内容が何かしらの国家機密であるとか、著しく公言してはいけない内容だったろうかと回想する。
それを話してしまったが故に武田は捕まってしまったのか。
そのあと、すぐに訪れる2つの恐怖。
自分も捕まってしまうかもしれない恐怖。
村の隠し通路の話題に何ら後ろめたいことはないが、実際武田は知らん人になってしまった。自分もそうされてしまう、そんな恐怖。
そして「明らかに武田でない誰かが武田のなりをしようとしている」のが何よりも怖い。
それは「すごいことになってしまったが、それを何もなかったかのように振る舞おうとする」意思だ。
しかも、何もなかったかのように振る舞うためには最重要そうな「武田」が下手すると日本人ですらなさそうなこと。
かなりの緊急性をはらんでいることが想像される。
「タケダデース」は、一人の存在が不明になってしまった以上の緊急性が起きた事を感じさせ、「先輩」を驚愕させ、「もうゲームなんかやらない!!」と思わせるだろう。
実際にいたずらをやってみたい気もする。
「電話がかかってくるから、ちょっと僕のなりして対応してくれない?」
ただ心配なのが、思いのほかその2回目の電話が盛り上がってしまったらというところだ。
個人を否定された気になった僕は、その場で顔を覆ってしゃがみこんでしまうかもしれない。
そして次からはこうだ。
「ハイnimbusデスケドー」

あだ名7

くそう。
こんなあだ名だったら。こんなあだ名だったらのコーナー。
◆女性自身
用法:
「こんなかでモンハンやってんの、女性自身だけだよ」
由来として考えられるもの:
「女性自身」を万引きしようとして捕まった
中ピ連という語感に異様に食いついた
◆タフグリップ
用法:
「タフグリップの小鼻横がキモい」
由来として考えられるもの:
はずれためがねのレンズをタフグリップで留めてきた
「タブクリック」をずっと「タフグリップ」と言っていた
◆充電器
用法:
「充電器んち、もうこたつ出てる?」
由来として考えられるもの:
席のまわりに人だかりができやすい
あまりいい噂を聞かない
◆発電機
用法:
「答案用紙持っていってないの、笠木と発電機だけかー」
由来として考えられるもの:
びんぼうゆすりが激しい
あまりいい噂を聞かない
◆リスクマネジメント
用法:
「リスクのだけ、丸が一つ多いのな」
由来として考えられるもの:
怪我をしやすい
くしゃみをする寸前までにティッシュの用意とごみ箱付近への移動を完了している

跳ねる

駐車場に車を止めると、バッタがカバーの上でひなたぼっこをしているのが見えた。
車から降りても逃げないそれを横目に立ち去ろうとすると、今度は塀の上にバッタのいるのが見える。
バッタが多い。
バイクにかけたカバーをまた見てみると、さっきとはまた違うバッタがいる。
バッタだらけだ。
姉が「このカバーをめくったら大きなバッタかもしれない」と言った。
僕はサイクロン号のほうがいいんじゃないかと思った。
陸上では、外骨格の生物(骨がないやつ)はそれほど大きくなれないと聞く。
それでもバイク大のバッタが登場したらどうなるだろうか。
米大衆紙でウサギくらいのバッタを誇らしげに掲げる男の写真があったの思いだした。
確か後ろ足を持ってバッタを逆さにしていたと思う。
考えるに、あれほどの大きさになってしまうと少々強靭な後ろ足であったとしてもはねる事はできないだろう。
はねた瞬間、節でもげてしまうのではないか。
そしてバッタは後ろ足を持ってはならない。
ウサギを、耳をつかんで持ち上げてはならないのと同じで、傷つけてしまうだろうから。
しかし食べるというのなら、まあ仕方がないか。
何より。
何よりもバッタを持って誇らしげにしてはいけない。
かなり大きかったとしても、それはバッタだ。
そんなに誇らしいものでもない。
今ペプシのコマーシャルで、歌う宇多田ヒカルのバッグバンドとしてペプシコーラのボトルたちが騒いでいた。
そんなに跳ねてはだめだといいたいところだが、何となく手中に落ちた感じもする。
ここで「跳ねて」と書いちゃった事でもね。

北海道旅行7

小樽を雨のなか、歩く。
とにかく寒い、鞄のぬれるのが残念だ。
蝉の声、ない。
舞う木の葉、ない。
白く染める雪、ない。
ぽかぽか陽気、ない。
雨のときは、何もない方がいい。
鞄もないほうがよかった。
お土産に魚介類を買う予定である。
しかし小樽には鮮魚売り場が思っていたよりもなさそうだ。
そうそうに売り場探しを切り上げ、前もって探し見つけていたところでいくらやかにを買う。
あさって発送してもらうことにする。
おまけに塩辛とメロン飴をつけてもらう。
今日は早朝に市場探し、今まで鮮魚売り場探しで体力を摩耗した。
コーヒーが飲みたくなったので喫茶店に入る。
ケーキセットが500円とは安い。
しかし僕は干しぶどうが嫌いだ。
そう、確かパウンドケーキだったか。
ドライフルーツが混み混みなのである。
ドライフルーツは「なんでフレッシュだった果物をこんなに乾燥させてしまっているのか」といつも思わせる。
そして「サクッ」でも「ジュワッ」でもなく「もにゅっ」なのだ。
何かの幼虫を食べたらこんな感触なんだろうなと考えてしまうと、もう喉を通らない。
喉自体が自律して「あ、こいつ飲み込んじゃまずい」と動いているみたいだ。
無傷で嚥下されたドライフルーツは消化前の短い時間で水気を得て、はれてフルーツになれているだろうか。
パウンドケーキから除外されたドライフルーツたちが、フルーツになるために皿の上で待っている。
それを店のおばさんが、見ている。
かっこむと、もういい時間。
冬の日本海を眺めながら、空港まで2時間弱かかるだろう電車の旅である。
目の前の海が日本海なのかどうなのかは知らないが、冬の日本海というだけで、より風景に味の増す気がする。
歌謡曲による積年の情報操作の賜物だろうか。
空港では疲れきった面々がさつま揚げなどを食べて時間をつぶしている。
異様である。
飛行機は何回乗ったとしても、離陸のときの加速っぷりが怖い。
何かあるんじゃないかと心配になってしまう。
今回も窓側の席を獲得していた。
翼にマクレーン刑事がしがみついていたりしないだろうな。
そう、少し前に「飛行機に何がついていたらいやか」というのを思いついた。
ガムテープや田楽みそなどもあったが、やはりマクレーン刑事だ。
飛行機にマクレーン刑事はいやだ。
絶対墜落するような気がする。
1?4による積年の情報操作の賜物だろうか。

北海道旅行6

札幌駅から小樽までは、直通の路線で50分くらい。
切符売り場でずいぶんおろおろしてしまったが、どうにかそれらしき切符を購入、電車に乗る事ができた。
乗客はそれほどいない。
混んでいるかもと指定席を選択しなくて正解だ。
電車でそとの風景を眺めるのは楽しい。
それが座ってながらだったらなおさらだし、初めての風景だったら、なおさらだ。
天気は雨。
しかしうたた寝することなくずっと風景を眺めていた。
くもり空をそのまま地上に降ろしたかのような町の色は単調な分、なんだか目を離させない要素があるみたいだ。
途中、かなり寂しい風景が続く。
線路沿いにある民家のなかの廃屋が、なぜか残像に残る。
それでも小樽に近づいてくると、建物が増えてきた。
雨である。
目的地についたものの、用がない。
まずはお土産でもみつくろうかと鮮魚売り場を探しまわるが、昨日行かなかった方面を合わせてもそんなにない。
ということで昼ご飯を。
大きな十字路に面した天丼屋に入る。
僕は天丼が好きだ。
特にたれのかかったコロモが好きだ。
いったん天ぷらを身とコロモに分けて、身を先に食べて楽しみをあとに取っておくくらいだから、我ながら徹底している。
しかしコロモはほぼアブラだ。
何か体には良くない気がする。
そんなことを知らないだろう、店主が僕の前に天丼をよこす。
ほたてやかにの爪まで入っていておいしそうだ。
僕はかにの爪が好きだ。
かに自体には悪いが、あの爪で遊ぶのが楽しいし、ある意味それは礼儀であるとも考えている。
しかしかにの爪で遊ぶのはほぼ子供だ。
大人がかにの爪で遊ぶのは、それは「かにの爪で遊ぶ」ではなく「かにの爪で遊ぶ自分を演出する」ということのような気がする。
三島由紀夫はかにの見た目が大嫌いだった。
彼は、かにの爪で遊んだ事はあっただろうか。
それともかにの爪で遊んでいるのを誰かに見られた事があっただろうか。

北海道旅行5

午前2時に起こされて飲み、結果的に北海道旅行最終日は朝寝坊で始まった。
ちなみにわざわざ「午前2時」と書いているのは、そんな時間にも呼び出されてしまうほど人から好かれている、あるいはおもろい話ができるという、そのことを表現しようとした結果であるが、どうもそうではないことが判明しているため、その分余計に「起こされちゃったよ?」を出していき、心の傷を深めてみたい。
ともかく朝寝坊である。
友人はもうどこに行くのか決めているらしく、その段取りも進行中のようだ。
それに、朝寝坊の僕は乗車できない。
前日聞いたところによると、札幌駅付近に「市場」があるという。
場所はちゃんと聞かなかったが、タワー付近であるとのこと。
探せばわかるだろう。
ひとりで行ってみようか。
それにしても「市場」というものをどうとらえるか、人によってかなり違う。
僕はとにかく威勢のいいお兄ちゃんにカラまれたりするんじゃないかと心配になる。
何かを大声で叫びながら。
そして風貌にてどうにか魚屋さんであること、そして魚が安い旨を連呼していることが分かるのだ。
誰か特定の人に対して言っている訳ではないだろう。
しかしそんな人にぐいぐい来られては鮮魚のひとつくらいは、ほいほいしてしまうだろう。
今なんとなく「ほいほいしてしまう」と書いたが、何となく「流れに逆らえず買ってしまう」というニュアンスはよく出ていると思う。
僕はニュアンスが好きだ。
「はらみ オン」
これだけで「人数分ハラミを金網の上に置いて、それをうまいことあしらっておいてくれ」がよく出ていると思う。
市場が見つからなかった。
市場を探してタワー付近をさらって見たが、その市場が見つからなかった。
先ほど市場が、どちらかというと苦手であることを書いたが、そんな僕がどうして市場を探したかというと、主に理由が3つある。
1 飛行機の時間まで暇
2 土産を買っていない
3 珍しい食材をみたい
市場が見つかれば、この3つの話題ができたものを。
いかんせん市場が見つからなかったのである。
朝寝坊をし、旅行のプランもなく、土地勘もない。
例の、午前2時に起こされちゃったわけだし。
僕は昨日車で行った小樽へ、今度は電車で行ってみる事にした。

北海道旅行4

手渡された紙袋に「きのこ」の付箋。
出来上がった手作りオルゴールを乾燥、包んでもらうためには数十分かかるという。
小樽の観光街で暇をつぶして、再度オルゴール店に来たのだ。
そこにはきちんと包まれた4つの紙袋。
自分の自作オルゴールがどれかは、一見わからない。
そこで付箋である。
お店の人がその袋の中身を表すための付箋を貼っていてくれたのだ。
僕は「きのこ」。
非常に端的で、かつ美しく僕のオルゴールを表現してくれた店員さんのセンスに、僕は感動した。
そう僕のオルゴールのデコレーションコンセプトは「きのこ」。
1つ150円くらいする「きのこ」のガラス細工を密にちりばめたのだった。
赤を多めに、要所要所に青、黄を配置。
オルゴール上に20個くらいの群生ができた。
手痛い出費。
病的なきのこの閉密さ。小雨、尖閣問題。
しかしいい物ができた。
やはり「きのこ」は群生しているさまがいい。
小さい頃からけっこうきのこには興味があった。
けれどそれはそこらに生えているのを分別して食べようという考えからではなく、例えば図鑑を見ていて、あるきのこ欄の「赤どくろマーク、赤字の猛毒」に興味があった。
その詳細な症状を見ながら、これを猛毒であると示した人はどんな人なんだろうと考える。
鮮明なきのこの写真。
そして「幻覚」の二文字。
よく見ていた図鑑には、実際の幻覚症状も書かれていたりして、子供ながらにそのあやしい世界を想像するのが楽しかった。
さらにきのこはたくさんの種類がある。
猛毒のきのこに似ている、食用きのこというのもあった。
似ていたのに食べた人はどんな人なんだろう。
おいしいきのこ、まずいきのこ。
食された例がないきのこ、環境によって全然見た目が違うようになるきのこ。
一夜のうちに突然現れるきのこ、光るきのこ、ガスを出すきのこ。
そのほとんどに毒性と食用に向くかどうかがあって、きのこ図鑑を見ているだけで昆虫採集コンプリートな気分を味わえたものだ。
しかしきのこの「ひだ」に虫がいっぱいいるのを見たことがあり、また素人目での野きのこハンティングはたいそう難しいそうなので、僕のきのこ摂取はもっぱら干し椎茸であり、僕自身もそれでよしとしている。
150円のきのこたちは見た目、鮮やかすぎて毒きのこだ。
しかし安心。
こいつらは食される事なく、ゆっくりと回転しながら曲を奏でることが存在意義だから。
曲は「となりのトトロ」。
きのこコンセプトが先だったので「きのこ」に合う曲を探すのが大変だったが、トトロなら安心だ。