2回目

結婚式に持っていくための祝儀袋の結び方を調べていたとき、その結び方にはこんな意味があることがわかった。
「この結び方には、二度と繰り返す事がないようにという願いが込められています」
一度結んだらほどけないかららしい。
病気していた人に対しての退院祝いか何かだったら、二度と繰り返さないように。
いい。
だが、結婚式の場合は、なんとなく「余計なお世話なんじゃないだろうか」という気がする。
「いやーおめでたいですね。でもこういうのは1回かぎりにしてくださいよね」
幸せそうな新郎新婦に向かって言う内容じゃない。
「ね、これ一度結んだらほどけないの。ね。わかるよ、ね」
うーん、もうたたく。
どうも2回目ないよねとかってのは、ちょっと踏み込みすぎるのだ。
「つらいときもあるかもしれませんが、二人で乗り越えていってください。陰ながら応援しています」という意味の結び方があればよかったのに。
つらいときもあるかもしれません
→袋がしわしわ。
二人で乗り越える
→紅白2本のひもで袋をしばる。
陰ながら応援しています
→すこしだけお金見えてる
この状態の祝儀袋が表すのは、どう考えたって「おれ、おまえらの結婚祝ってない」であり、よろしくない。
そして「袋がしわしわ」で「ひもで袋をしばる」が表すのは、なんとなく粗暴な猫の去勢方法だ。
ほんとひどい話。
で、今回はこんな終わりというんだから、僕も驚きです。

勘違いローテーション

僕はずっとAKB48の「ヘビーローテーション」という曲を「ヘビーローテーション」だとは思っていなかった。
ぷっちょの曲だと思っていた。
正直、「ぷっちょ」という曲名だとすら思っていた。
一方、iTunes Storeの上位にある「ヘビーローテーション」という曲があるのも知っていた。
だが聴く機会がなく、同じものだとは知らないままだったのである。
書くまでもないが「ヘビーローテーション」を聴いた日は、僕がそれまでの人生で一番「ぷっちょ」と口にした日になった。
僕は「ぷっちょ」の商品コンセプトがあまり好きではない。
おそらく白地の部分は乳性の味が、なかに果物味のグミが入っているものと推測しているが、個人的にフレッシュな果物となめらかな乳性のものが混ざってはお互いのいいところを殺してしまうのではないかと考えているから。
したがって、僕はそれまで「ぷっちょ」を口にしていなかったし、そういった意味でも口にしていなかった。
そんな僕が一番「ぷっちょ」と口にした日。
それが「ヘビーローテーション」を聴いた日だったのだ。
このような勘違いは往々にしてあるものである。
僕はずっと「ふくろはぎ」だと思っていた。
自分に備わっているあれは、ふくろはぎである、と。
けど、本当は「ふくらはぎ」だそうじゃないですか。
以前に書いたが、「キンカジュウ」というほ乳類を「機関銃」と思っていたりもした。
最初。
最初だ、重要なのは。
誰かが悪意を持って幼少の僕に「ふくろはぎ」を教えたか、あるいはその人も勘違いしていたか。
勘違いの原因たりえるものが最初にきてしまうと、もはや防ぎようがない。
その勘違いはあるタイミングまで確固たる知識として存在し続けるだろう。
しかしある段階で「それ、ふくろじゃなくてふくらだよ」が判明してしまうわけで、それはすこぶる恥ずかしい。
勘違いの原因。
もちろんさきほど挙げたものに加え、より有力な候補なのは、聞き間違えだ。
以前、ある曲を聴いていて、要所要所に「ポメラニアン」という歌詞が出てきたことに疑問を覚えた事がある。
何の事かともやもやしつつも日々をポメラニアン事情以外のことに費やしていた。
そしてあるとき、ぱっと理解できた。
あれは「ほめられた」と言っているのだ、と。
どう転がっても、この手のことは誰しも経験していることだ。
回避はできない。
回避するとなると、AKB48は「あれはぷっちょという曲でした」と会見し、人体に関する学術書では、記述があるとすれば「ふくろはぎ(ふくらではない)」と修正、ほ乳類の項のもくじに「機関銃」と書かねばならない。
そして歌手は「歌詞の前後を無視してポメラニアンと叫びたくなったのだ」と虚偽の吐露を行うのである。
こんな回避の方法を模索するなら、真摯に恥を受け入れよう。
さもないと。
例えば空耳アワーで「ちんこすごい」と聞こえるジャングルブックの曲があった。
この歌手に「日本語でちんこすごいって聞こえるんだって?。残念だな、実は本当にそう歌っているのさ」と言わせる事になる。
もうしわけなさすぎる。

考える。

「考える」だか「考えろ」だか。
そんなことが書かれた帯が付いている文庫本があった。
正直なところ、本を読むのは何も考えたくないから読むこともあり、なかなか難しいところだ。
しかしもっと複雑なのは、この帯が付いていないものだ。
たまたまその帯のついた本が「これ売り出してます」みたいなコーナーにあったのだが、そのなかでただひとつ、なぜか向田邦子の文庫本だけが、同等に陳列されているにもかかわらず「考えなくていい」ことになっていた。
確かに「考える」という帯がついたものは重厚な面持ちだ。
そんななかでその帯が付けられていない本は、その分余計に考えなくてよさそうに見えるのである。
その本が一番売れている。
この本屋は、わかってる客が多い。

入力

もう、さっきから「由美かおるの入浴シーン」というのを「由美かおるの入力シーン」と打ち間違えている。
そもそも「由美かおるの入浴シーン」というのは、あまりに(なにかの)定石すぎて、使うのはためらいたくなる。
しかしまあいいかということで、先日「由美かおるの入浴シーン」というのを使うことにしたのである。
そんななかでの「由美かおるの入力シーン」。
ちょっと色気が程度を超えている感じもする「由美かおるの入力シーン」。
また、「由美かおるの入、力シーン」とすると、なんかもうすごい。
それにしても今日は由美かおるが多い。
3人の由美かおるが入浴し、3人の由美かおるが事務員の役でパソコンを打っている。
そして1人のロボ由美かおるのスイッチが、入れられた。
当方、健全な方を選びました。

アイキャッチの余韻

なんてことで前日までアイキャッチどうこう、を書いていましたが、ずいぶんなものを忘れていた。
水戸黄門だ。
最近やっている水戸黄門を見てみた。
僕の見たタイミングでのアイキャッチは「置かれた印籠を、斜めから見た」というものだった。
・・・いいんじゃないか。
すごくいい。
昔は確か御紋のアップだった気がする。
それが、印籠を置いて斜めから見ちゃうんだもの。
夢広がるわ。
必然的にふたの開いた状態を斜めから見るアイキャッチもあるだろうし、上空からの映像で、脅威のズームで印籠が!!、というアイキャッチもいい。
びちゃびちゃになっている印籠も味があるし、電子顕微鏡で見た印籠の表層やX線による非破壊検査の結果を簡潔に示すのもいいだろう。
黒光りした部分に指紋がつきまくっていたりしてたら臨場感がわくだろうし、全然違うものとのコラボ、例えば印籠と計算機なんてのも、なんだ水戸の隠居はインターナショナルだなと感慨深くなる。
もちろんここまでいかなくても、印籠をさまざまな角度から見せるアイキャッチというだけでも、アイキャッチが、さらには水戸黄門自体がもっと面白くなるのではないだろうか。
大昔の少年向けスパイ道具図解のように、いろいろな機能を図示してもいい。
おそらく嘘なのだろうし、サイズ上どうしても十徳ナイフ臭がするかもしれない。
しかし夢はある。
図示するとなると、助さんだか格さんだかが、どこに印籠を隠し持っているかどうかを示してもいい。
助さんの全身像と、その胸元に向けられたやじるし。
番組終盤が楽しみになるじゃないか。
印籠をごみに出すとき、どう分別するかの図解もいい。
「印籠についていたふさふさは燃えるごみだったから、これも燃えるごみだ」
知識になる。
もちろん印籠でないものもクローズアップしてみたい。
かざぐるまは既にあるかもしれない。
こう、くるくる回る感じで。
しかしあまりにかざぐるまがたくさんあると、なんか恐山なので、数は気をつけたいところ。
八兵衛はだんごか?。
両手にだんごを手にした八兵衛はハイパーモードだろうし。
そこで、ここではオールスター総出演という事で印籠とかざぐるま、そしてだんごをそろえてみよう。
なんか、広告だ。

アイキャッチのあゆみ4

昨日からのつづき。
【あらすじ】
アイキャッチが現在のかたちにいたるまで。
=====
現在アイキャッチは、番組とCMあるいはクレジットとの間を埋めるという重大な役割を持っている。
しかしそれにとどまらず、様々な進化も遂げているのである。
先日、2時間のサスペンスドラマを見ていたとき、ちょうど中盤時のCM前にて今までのダイジェストが行われていた。
これもアイキャッチの一種である。
単なる中継ぎだけでなく、1時間後でも視聴者を増やそうとする強い意識が見られ、好感が持てる。
ただひとつ気になるのは、「2時間後の事件の結果」は行われていない点である。
後半1時間の半分は犯人の諸々となるため、それをダイジェストにすると少々味気ない感じになるのかもしれない。
しかしここは是非、ドラマ最後の「事件解決までのダイジェスト」を考えていただきたい。
未来への課題である。
一方、サスペンスドラマ終了直前にみられる、主人公とサブキャラとのひとこまも、アイキャッチの一種である。
本来ドラマを終え、次の番組までの閑暇であるはずの時間帯でも視聴者を手放さない姿勢が、そこにはある。
ちなみにアニメではこの方法は「次回予告」という形になるようである。
ドラマ以外でも用いられるアイキャッチの一種に、CM前後で同じシーンを放映する方式がある。
これは一般的には視聴者の怒りの対象になりやすい。
しかし番組の理解度を高めるという点では、他のアイキャッチの追随をゆるさない。
番組ののりしろとして、CM間をつなぐことにより番組の理解がよりよく行われ、結果的に他チャンネルへの移行の防止、それに伴いCMもより見てもらえるという綿密な戦略なのである。
このように、我々の身の回りには数多くのアイキャッチが存在していることにある。
では、アイキャッチの今後はどのようなものであるだろうか。
考察されているものはいくつかあるようである。
・番組中で使用された雑貨などをアイキャッチにて紹介する。
すでに番組と関連づいたCMがされていたりするが、さらにそれを積極的に取り込んだアイキャッチである。
CMを自動的に除去する機能を持ってしてもこれは除去されない。
これが何らかの解決になるのか、あるいは新たな火種になるのかは今のところ不明である。
・その日のニュースを表示する。
番組の内容によっては、アイキャッチに関連づいたものを表示することが難しい場合もある。
そういった番組では、アイキャッチのタイミングにてニュースを表示する。
宝くじの当選番号、競馬の結果なども考えられ、非常に実用性に富んだ方式と言えよう。
・アイキャッチのたびに、じゃんけん。
アニメ「サザエさん」では番組ラストにて「じゃんけん」の要素を取り入れた。
これが各方面に多大な影響を与えた事は、もはや揺るがない。
将来、このたぐいの要素はアイキャッチにも取り入れられることだろう。
なお、由美かおるの入浴シーンや新人アイドルのPVなどもこの方式に含まれる。
・映画「トゥルーマンショー」のように、番組出演者がそのままCMをつとめる。
これは現在「はなまるマーケット」での生コマーシャルがそれに近いとされている。
けっこう、出演者の好感度があがりそうである。
考察されているもののなかでは特に「アイキャッチと称して、ちょい番組を進める」というものが現在注目されている。
より他番組へのチャンネル移行を阻止できるとして期待されているわけであるが、こうなるとCM自体が今まで以上に不要とされやすくなる。
アイキャッチとCMの共生を目指して議論していく必要があるだろう。
このように、未来に向けられたアイキャッチの話は事を欠かない。
これからもアイキャッチは、今まで以上に我々の目を楽しませてくれることだろう。
結論
「アイキャッチのあゆみ」って、なんかスナックのおねえさんみたい。

アイキャッチのあゆみ3

昨日からのつづき。
【あらすじ】
アイキャッチの近代化。
=====
その有効性が認められた「ゆび相撲によるアイキャッチ」だが、しだいに視聴者は混乱するようになってしまった。
すなわち、ゆび相撲のほうに注目が集まるがゆえの「ドラマを見ているのか、ゆび相撲を見ているのか、わからなくなった」というところである。
当初、視聴率さえあがっていれば問題なかった放送局でも、これを解決しないわけにはいかなくなってしまった。
ドラマとアイキャッチを両立させようとし、結果ともだおれになることを恐れたのである。
そこで2つの方針が取られた。
1:ゆび相撲中継の合間に、ドラマじみたCMを挿入する
2:あくまでドラマ本意とし、ドラマとCM間の合間(すなわち今日のアイキャッチ)はドラマと関連した内容を放映する
1については、いっそのことゆび相撲を主とし、ちょうどCM際の5秒ほどのところにドラマを行うというものである。
人気はあるが、そんなに長い間ゆび相撲だけを行うのは間が持たないのではないか。
そう懸念されたが、放送当時は概ね好評だった。
しかしすぐに問題が露呈する。
「5秒じゃドラマがわからない」というものだった。
実際はアイキャッチが計4回行われるため、20秒あるはずである。
以下、ある週のドラマ部位である。
「おいおい、今日はポトフじゃなかったかい?」
「ジェーン、ここに座りなさい」
「ほら、窓のところに靴のあと」
「まだ遠くには行っていない」
各5秒、計20秒でのやりとりであるが、これで「腕に青あざができていたジェーンだが、どうやらそれは狂言であるらしい。しかしジェーンに狂言をさせるほどに学校は荒廃しているのではないだろうか。次回につづく」という内容を網羅するのは、そして理解するのは無理があるというものである。
一部「5秒の方が想像力を働かせることができ、面白い」という意見もあったが、どちらにせよ期待した方向づけは、5秒ドラマではできなかった。
さらに都合の悪い事に、ちょうど上記5秒ドラマが放送された日のゆび相撲に、腕に青あざができていたスタッフも参加していた。
視聴者がさらなる混乱にさらされたのは、いうまでもない。
ちなみにこのときでも、ゆび相撲はスタッフが行っていた。
どちらにせよ、アイキャッチは2番。
ドラマとCM間の合間にドラマと関連した内容を入れ込むかたちとして、現代に至る。
それはその必要性というよりは消去法によって生まれたものなのであった。
つづく。

アイキャッチのあゆみ2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
アイキャッチのあけぼの。
=====
広告用のボードを用意できなかったため、ドラマとCMのあいだを「ひとりゆび相撲」でやりくりしようとしたドラマスタッフ。
その番組進行中は、超おこられることを覚悟していた。
しかし事態は思いもよらない方向へと発展した。
放送局に大量の視聴者からの意見、それはもちろん「あれはいったいなんだったのか」というものだったが、思いのほか怒りの意見は少なかったのである。
むしろ「何だったのかはわからないが、あれは何か今後のドラマに関係した何かなのか」や「スタッフの指きれい」など、番組に好感を抱いたかのような意見が多かったのである。
この意外な出来事を冷静に調査した放送局は、CMの都度にゆび相撲を行う事にした。
まずは試験的に、事態の発生したドラマでそれは行われた。
大いに意味のある試験だった。
放送局にはゆび相撲の熱戦を讃えるものから勝敗のいちゃもんまで、さまざまな意見が届けられた。
ドラマよりも、むしろゆび相撲を見るためにテレビをつける、という人まで現れた。
CM前のゆび相撲が、視聴者をくぎづけにする要素になったのである。
当時、この生放送ドラマ「おまえの内股でこの手をぬくめたい」の内容に変更が加えられた事が、その影響をよく示している。
もともと野球の選手だった主人公がゆび相撲の選手に変更、最終回は、傷だらけの指先を自分の内股に挟むシーンで終わるラストを迎えることになったのである。
このゆび相撲中継が、アイキャッチのはじまりであると認識されている。
そしてすぐに、アイキャッチは転機を迎える。
ポイントになるのは、漫然と人々が胸にしまい込んでいた「ドラマを見ているのか、ゆび相撲を見ているのか、わからなくなった」という点。
これに対し、2つの方法が提示される。
・ゆび相撲中継の合間に、ドラマじみたCMを挿入する
・あくまでドラマ本意とし、ドラマとCM間の合間(すなわち今日のアイキャッチ)はドラマと関連した内容を放映する
次回。

アイキャッチのあゆみ

?アイキャッチのあけぼの?
アイキャッチ
番組前後や番組中のCM前後に5秒ほど挿入される番組のタイトルや象徴のこと
例)
ルパン三世:CM前後に挿入されるルパンが普通自動車に乗り込もうとしてハンドルが外れての「あり?」
推理サスペンス:CM前に挿入される最初1時間分のダイジェスト
=====
アイキャッチのはじまりは、多くの人が予想する「いきなり番組がはじまるのもなんだから、さあいまからはじまるよという感じのものを挿入しよう」という発想からではないことが知られている。
1964年、アメリカで放映されていた「おまえの内股でこの手をぬくめたい」は、生放送が売りの超人気ドラマだった。
この時代でも、既にCMに相当する時間がドラマ中でもうけられており、それはそのタイミングでスタッフがカメラ前に広告のボードをかざすという方式だった。
その日、順調にドラマは進行していた。
「ああさっぶい。さっぶいねえ」
「そうね」
「ねえほんと、さっぶいねえ。指先の感覚が全然戻らないよ」
「ええ」
「なあ見て、俺の内股。ほらもう手の跡の凍傷が」
「わあひどい」
「手が冷たすぎて。もう全然、自身の内股使えないのよ」
「ええ」
「使いたいわー。内股使いたいわー」
「で、わたしの内股にもその手形を残す気?」
本来、ここでCMの予定だった。
しかしこの日は計算外のことが起きたのである。
それは予定していた時間よりも、ずいぶんと早くドラマが進行してしまっていたこと。
スタッフがCMの準備としての広告ボードを全く用意していなかったのである。
一見、そのようなボードは既に用意されていると考えられると思うが、当時は広告主から、放送の寸前に内容を変更するよう求められる事が当たり前のように行われていた。
「ここの【あたり一面別世界】のところ。ここを【皮フをはさんで別世界】に直してくれ」
そのため、時間ぎりぎりまでスタッフは準備をしていなかった。
さて、ドラマの出演者がCMだと考えていたところで、スタッフには何も出す物がなかったのである。
CMが始まるものと動きを停止した出演者、状況を把握し青ざめる現場の人間が見たもの。
それは広告ボード担当のスタッフがカメラ前で「ひとりゆび相撲」をやるシーンだった。
誰もがアイデアを出せなかったなか、彼はひとりでゆび相撲をやった。
画面には両手だけが映し出されており、それがひとりでやる以上しかたがないのだが、親指が上下に向いた組み手だったという。
上下の親指が相手なくぱたぱた動いている間、別のスタッフが急遽広告ボードを用意、10秒ほどのち、CMが行われた。
CM後、何事もなくドラマが進むなか。
スタッフ全員は番組終了後のことを考えると滅入ってしかたがなかったという。
つづく。

大器晩成

「大器晩成」という言葉はけっこうおもしろいのではないだろうか。
「わたしは大器晩成型です」
どうだろう。
あやしいのではないだろうか。
本当に「大器晩成」なのかどうかは、正直「わたし」なる人物が死ぬ直前までわからないのではないだろうか。
一見、着々と力をつけているように見えたとしても、それはあくまで「大器晩成っぽい」「大器晩成ふう」である。
たとえばそんな力をつけてきた人が突然、唐草模様のふろしきをマント代わりにしてデパ地下を暴れ回ったあげく、頓死してしまったとする。
彼を「大器晩成」と言えるだろうかいいや言えまい。
大器晩成というのは、一般的には寿命ぎりぎりまでチェックが入るものなのであり、その結果がどうにも不明である分、あやしいのである。
ただ、その展開が早くおとずれることも、あることはあるだろう。
「わたしは大器晩成型です。え、遠い親戚が莫大な遺産を、わたし名指しで?」
こうもなると、「わたし」は大器晩成の大器晩成たる何かを成すこともできそうだ。
しかし一方で、晩成というところを真に受けてしまうと、もう余命幾ばくもない感じもし、生き急ぐなよと言いたくなる。
「わたしは大器晩成型でした」
上記のあやしまれる点を払拭している。
しかし、こう返されてはもう立ち直れないだろう。
「え、今のおまえが?」
また、やはり生き急いでいる、あるいはもう燃え尽きている感もあるため、こうは言いたくないものである。
本来はイケてる意味なのだろうが一般的に、「大器晩成」というのはちょっと今はだめだよね、を遠回しに言うときに用いられている。
「おまえって、大器晩成型だから」
こう言われた時点で、「おまえ」は現状いまいちであると認識させられる事と、すぐさま「それって今はだめってことじゃんよ?」とちゃらけて言う事を強いられなければならない。
大器晩成ということばの威厳を保つためには、以下のような用法を行うべきだ。
「5年くくりで、わたしは大器晩成型です」
昨日今日が「大器晩成ふう」でも、とりあえず結果だけでも分かりそうなので安心なわけだ。
保証もついているのだろうし。
ただし、おじいちゃんがこう言ったとしたら、どうにもあやしいだろう。
「わたしは大器晩成型です」
おじいちゃんはこれでいい。
ちなみに「大器晩成」の意味を調べてみると、今回の解釈に必ずしも誤りがないとは言えないことに気づく。
それでもなお今回の内容。
当方大器に至らず。