死神

ひとりでに開いた(ように見えた)自動ドアの近くでうどんを食べていた僕は、同じくうどんをすすっている先輩に「死神が来ましたよ。このうどん屋の誰かが、死ぬ」と告げた。
彼は、またこいつおかしなことを、という感じで聞き流し、いったんしまった自動ドアがまた開き、子供を先頭にした親子が入ってきた。
死神どうこうなんて、一見なんだそりゃという感じをもたれるかもしれないが、僕としては「自動ドアだけを開けるいたずらのようなもの」のほうがよっぽどだ。
「もっとやりようが、あるでしょう」
ともなると死神云々でも持ち出さない限り、僕がやられてしまうのである。
もちろん自動ドアが勝手に開いたからといって、そんなものが入ってきたとは信じていない。
自動ドアが開いたのでそちらを見ると、何もいない。
しかし傘立てに、さっきまでなかった鎌が立てかけられていた。
これくらいなら信じてもいいが、単にうどんを食いに来たともとれるため、うどん屋は難しい。
自動ドアが開いたときから、ドアに近い人順に死んでいく。
これくらいなら信じてもいいが、その存在、ありようを誰かに伝える事ができなさそうで、生きることは難しい。
そもそも、条件付けにも左右されるが、まず「自動ドアが開いたので死んだ人」というのは考えにくい。
もしいたとしても、それは「自動ドアは開いたが、特に何もなかった人」の数にかき消されてしまうだろう。
それに、例えば「自動ドアは開いたが、特に何もなかった人」の調査しているなかで、実は「自動ドアが開き、尿意をもよおした人」の数がすごく多いことが判明してしまった場合。
尿意は音も立てずやってくるが、センサーには反応する。
そんなことをうどん屋では考えたくなく、僕が死神とあらわしたのはなおさら賢明と言えるわけだ。

休日

いまのところ、ギャンブルに興味がない。
と言うと、人生は日々ギャンブルだからそんな言い草はないだとか、そういう人に限ってハマるのだとか、とののしられそうだ。
ただ一つはっきりしているのは、興味のないことが、健全性や自己管理どうこうに紐づいているのではない、ということだ。
どうもめんどくさそうに見える。
競馬新聞のデータ量は、手練風の老人とすれ違っただけでも十分にわかる。
恐ろしい量だ。
しかもそれが、意味を持つ。
今後起こりうる結果を表すものとしても、直接的な損得を自分に与える情報としても。
それに比べて理科年表、辞書や格闘ゲームのフレーム表は情報は多いが、そういった職業でもない限り、上記のような息詰まるようなものはない。
気楽だ。
そういう理由で、ちょっとギャンブルは敷居が高い。
とか思っていたら、難しいことは省いて、お手軽に馬券の買えるシステムがあるという。
買ったことはないが、うまくいけば手間をかけずにお金が増えたり、かけひきを楽しめたりする点で、いいかもしれない。
しかし何となくこれには賛成できない。
休日に競馬新聞を持つ老人とすれ違えないのは、休日ではないからだ。

バックアタック

ガラスのコップに、急にお湯を入れると割れることがある。
だから先に水を入れてからお湯を入れる。
すると言われるのだ。
「それは死んだ人だから、だめ」と。
小さい頃にそう言われたため、今でもそうすることに何となく罪悪感を感じる。
それにしても「死んだ人だから」というのは、なんだ。
何か、仏壇まわりでの作法なのだろうか。
それともお葬式での決まりなのだろうか。
「さかさみず」というらしいが。
まあよくわからないが「何らかの形で、死者にぬるま湯は必要」ということは確かなのだろう。
それにしても「それは死んだ人だから」というのは、なかなか武力のある言葉だ。
それは特に子供に対してはてきめんで、相応の悪い環境がないかぎりは、子供は死を恐れるものである。
せっかく生まれたのだから、もうちょい生をエンジョイしたい。
それを終わらす死はかんべんね、そういう本能のようなものがあるのかもしれない。
だから、何か分からないが「それは死んだ人だから」という行為にすら、極力避けたいという気持ちがはたらくのだ。
「こないだ亡くなったお隣のおばあちゃん、こんぺいとうが好物でね」
このことを聞いた子供は、こんぺいとうを口にしなくなるだろう。
「そういえば、くしゃみを我慢すると体に悪いと言っていたわね」
このことを聞いた子供は、すこし考える。
おばあちゃんは「くしゃみを我慢すると体に悪い」と思っていたから、我慢していなかったはずだ。
しかし、我慢していなかったのに、亡くなった・・・?。
「くしゃみを我慢すると体に悪い」というおばあちゃんの知恵を信じるか、おばあちゃんの現在状態を信じるか。
子供には難しい問題だ。
「部屋で片付けをしていたら、昔のなつかしいレコードが出てきたらしくて。それを聴こうとプレーヤーを探していたら発作が起きて・・・」
子供はレコードに触れないだろうし、探し物をすることもしないだろう。
しかし探し物をするなんて、無意識のうちにすらやってしまうものだから、それが困ったところ。
何か別のこと、ちょうど日常生活ではしないような、逆さのことをして、それをごまかそうとするかもしれない。
なにか、「ムーたち」を思い出した。

多面体その2

昨日から。
【あらすじ】
「二兎追うものは一兎をも得ず」に、別の意味が見いだせるか。
=====
無理だ。
「二兎追うものは一兎をも得ず」だったんだもの。
まず、追う物がうさぎだってことが決まってしまっている。
これが「キリン」だったら、「2匹同時に追うからだめなんだよ」と「結局キリンなんて1匹もとれなくてよかったんだ」というように考える事もできる。
しかしうさぎだ。
食べる気まんまんであり、1匹も得られないことだけがクローズアップされてしまうのは仕方のないところだ。
そして詳細な内容。
「うさぎを2匹追って、どちらを追うのかを迷って、結果両方逃がしてしまいました」だ。
他の意味が介入する余地が見いだせない。
ただ、何かを付加する事で意味の転換は可能かもしれない。
「二兎追うものは一兎をも得ず、はつらつ」
これで一気にあきらめムードが一新。
これからだという感じになった。
「二兎追うものは一兎をも得ず」
ステンドグラスの光の下で。
場所を特定した事で、かなり様々な意味も付加できた。
「袖すり合うも他生の縁、かな 月しずく」
ここで僕は、すごいやつの存在を知る事になる。
「、かな」だ。
これを付ければ何でも複数の意味を持つようになる気がする。
今までのものに付けてみよう。
「馬の耳に念仏、かな」
「釈迦に説法、かな」
「鬼に金棒、かな」
「猫に小判、かな」
「たなからぼたもち、かな」
「二兎追うものは一兎をも得ず、かな」
付加(負荷)される意味が、どうも無常観だけっぽいのは、仕方のないところかな。

多面体その1

「馬の耳に念仏」ということわざがある。
これは馬などにありがたい念仏を聞かせてあげたところで理解できないよ、ということだったかと思う。
けど、とらえようによっては「馬は念仏のありがたさを充分知っているから、聞かせなくていいよ」という感じでもいけそうだ。
「釈迦に説法」だって、わかりきっているが説法やることに意義ある!という使われ方でもいいと思うのだが。
けっこう、ことわざはとらえかたで深くなる。
「馬の耳に吐息ふきかけて 1987」
今のは関係ないが、「鬼に金棒」は「あまりに定石な、ルーチンなこと」とでも解釈できそう。
「おや、鬼に金棒ですか」
そう理解した死者が地獄に行ったとき、鬼は血相を変えて金棒を手放すかもしれない。
「猫に小判」
猫に小判を与えられるほどの長者。
たまたま猫のとなりに小判があった、そのさま。
猫は人間にとってかけがえのない生き物であるから、いとまを与えるなら小判レベルの餞別を与えること。
「たなからぼたもち」
田中たちにはぼたもちを与えろという意味。
たなにあったぼたもちをとりだす、そのさま。
「たなからぼたもち、ひきだしから大福、テーブルクロスの下からハートの6」という、手品の仕込みのこと。
こんな具合。
一方、他の意味を持たせにくいことわざもある。
「二兎追うものは一兎をも得ず」系のやつだ。
ああそうですね、としか言えないじゃないか。
でも、なんか考えてみる。
タクティクスオウガが終わったら。
次回。

口頭記述

今回は「老後すくすくガイドライン」への寄稿、どうもありがとうございます。
いえいえ
ちょっといただいた原稿で字の見づらいところがあったので、ちょっとお聞かせ願えませんか。
ええ、いいですよ
まず最初の方「老人たちのコミュニケーション」のところで、何かおじいさん同士のふれあいみたいなところがありますでしょ。
はい
そこがよくわからないんですけど。
ああ、「おじいさんニッチ」のところですね
「おじいさんニッチ」?
先日電車に乗っていますと、普通のときは温厚そうなおじいさんなんですけど、他のおじいさんが近づいてきたりするとき、すごく相手を威圧するような怖い顔になるんですよ
僕は最初、その優先席をうばわれまいとする心が現れたなどと思っていたのですが、違いました。
もう少し広かったです
この世界では常におじいさんは一定数なのです。
多少の増減はあると思いますが、それもある数で平衡となります。
そのため、あらたなおじいさんは既存のおじいさん枠を圧迫する訳で、その不安と「この枠は渡さんぞ」という意思がそういう顔になって現れていたんです
なるほど。
原稿のほうはどうしましょう?。
削除しましょう
すいません、あともうひとつだけ。
最後の方にある「幸せな最後を迎えるには」の欄。
はい
そこにランキングがあるじゃないですか。
はい
1の「老衰」とか並んでいるんですが、7位のところが読めなくて。
ちょっと待ってくださいね。えっと、7位・・・
6位の「自宅であっというまに」は読めるんですが。
ああわかりました、コラーゲンボールで窒息、ですね
「コラーゲンボールで窒息」ですか。
ええコラーゲンボールで窒息、確かにそうでした
なるほど。
原稿のほうはどうしましょう?。
削除しましょう

米本来輝

さゆ、とまではいかないような、そこそこ熱いお湯が売られていないのは少し疑問だ。
今「白湯」で調べてみると「白湯ダイエット」なるものもあるらしく、その質素なおいしさも加えて結構売れると思うのだが。
よく僕はお湯を飲む。
なんだか落ち着くし、お菓子で疲れた舌を休ませてあげているようにも感じる。
しかし、ある人にとっては、それはもう精進的な何かだ。
夕ご飯のあと、茶碗にそそいだお湯のなかで白米が2?3粒ただよっているのをみて、それを輝く宝石のように感じる。
そんな何かだ。
ストイックだと、複数の人に言われたら気にもなる。
僕としてはいつもよだれをだらだら流しているつもりなのだが、そうは見えない事もあるのだろう。
口癖は「げへへおんなおんなかね」なのだが、そうは見えない事もあるのだろう。
書き初めでは毎年「スーパー衣食住」と書くのだが、そうは見えない事もあるのだろう。
もういいか。
以前、何かの本で「ある外国の人と一緒に炊きたてのご飯を食べたら、彼らは手をつけなかった。あとで聞いてみたら、ご飯粒をうじと思ったらしい」というのがあった。
この話で重要なのは食文化の違いや、ご飯を初めて見たらそうも感じるだろうということではなく、「ご飯よりもうじのほうが知名度高い」だ。
ご飯とうじで思い出されてくるのは、はちのこだ。
どこかでは「へぼ」とか言われているはず。
すごくおいしいらしいが、ちょっと僕は食べられなさそうだ。
人間も生き物であるから、本来なら食べられる物なら食べてきたはず。
でもどこかで「虫だめ」になってしまったのだろう。
まあどちらにせよ、へぼ玄人なら、お湯のなかでただよっている白米を宝石のように感じる確率が、僕らよりも少し高いだろう。
そうなら、敬意とおしんこをあげる。

誰も知らない。2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
①「鈴木さん。なぜあなたは犯人が男であることをご存知なんですか?」
②「鈴木さん。なぜあなたは犯人がパラグライダーで脱出したことをご存じなんですか?」
②のほうが、より言い逃れできない。
=====
①では、鈴木さん(犯人)は「いや犯人が男だか女だか知らないですけど」とでも言えば、逃れることができる。
そうとうの前段階から、犯人が女性であるふうな事を取り調べで触れていたのなら話は別だが、それでも「ああ勘違いしました」となればそれ以上追求するのは難しそうだ。
一方、②は言い逃れ難しい。
パラグライダーによる逃避は一般的とは言いがたいため、些細な勘違いであらわれる事がないと思われるから。
「だって刑事さん。あなたビルの密室で金庫が盗まれていたって言ったじゃないですか。そこからどう逃げるかとなれば、パラグライダーしかないじゃないですか」
②は言い逃れ難しい。
他にも言い逃れの難しそうなものはないだろうか。
「鈴木さん。なぜあなたが被害者宅の砂糖の貯蔵場所が洗面台の下であることをご存じなんですか?」
なんとなく言い逃れしにくそうだ。
一般的にはキッチン付近なのに、たまたま被害者はせっけんと同じところにスプーン印を置いていたのだ。
鈴木は被害者と同棲していたのだろう。
鈴木はまだ愛し合っていた頃のことを思い出しながら、なぜあのとき砂糖はキッチンの方にしまったほうがいいよと言わなかったのかと後悔し、同時に犯行の動機はそれが引き金だったことを思い出したりするのかもしれない。
「鈴木さん。なぜあなたは犯人が幼少期のころ「デフォルメ」というあだ名だったことをご存じなんですか?」
言い逃れできなさそうなこともさることながら、これがどのように事件に関係したのだろうか。気になる。
また、取り調べにてこの話題にまで持っていった刑事に手腕には驚嘆すべきものがある。
「徳永さん。なぜあなたは犯行現場にあったラジオが壊れかけていたことをご存じなんですか?」
これは悪のり。
今回の件で一番キーとなるのは、言い逃れできないような非日常的なことを実際にやってしまった犯人あるいは被害者、そしてその証拠を見つけた警察。
この2つではないだろうか。
例えば、犯人はパラグライダーを犯行に使ってしまったし、警察はパラグライダーであると確定できる証拠を見つけてしまう。
密室からこつ然と姿を消していたが、パラグライダーがナイター中継の夜空にすごくよく映っている。
警察も複雑であろう。
ということで、これらの点がクリアされて初めて「言い逃れどうこうの攻防」を拝める事ができるわけだ。
そう考えると、この手のドラマはひどくぜいたくである。

誰も知らない。1

「鈴木さん。なぜあなたは犯人がバタフライナイフを凶器として使った事をご存知なんですか?」
刑事ドラマなどで見られる手口、「犯人しか知り得ない事を言わせてみよう法」だ。
実際には知らないが、少なくともドラマでは数々の犯人がこの手口にかかっている。
そしてああバタフライナイフじゃなくてナイフって言えばよかった。
何を詳細に供述しとるのだわたしは、と涙を取調室の机に落とすのである。
この手法はドラマ的にも刑事の冴えが光り、かっこいくなる。
ただし、これは刑事のぎりぎりの攻防が見受けられるべきものだ。
犯人に「あ、こいつバタフライナイフって言わそうとしてる」がばれては失敗、それどころか今後の調査方法も見直さなければならないからである。
刑事「えーとなんだっけ、なんとかフライナイフを使って脅したんじゃないのか!?」
これではだめである。
バタフライナイフと口にした犯人は、そのことを指摘された後、当たり前のように「なんとかフライナイフじゃ、バタフライしかないじゃないか」と。
刑事「サバイバルナイフを使って脅したんじゃないのか!?」
これなら、犯人が「バタフライナイフなんて持ってませんよ」とでも言ってしまった時点で刑事の勝ちっぽい。
あーたあたいはサバイバルいいましたけどね。
刑事にんまりである。
しかしこれはどうだろう。
刑事 蝶の絵を描きながら「サバイバルナイフを使って脅したんじゃないのか!?」
さきほども言ったように、刑事もかなりなプレッシャーなのである。
意識せずにバタフライを書いてしまった。
これはむずかしいところだ。
犯人が「刑事さんがバタフライ書いていたからだろ!!」と切り返してきたら、もう刑事としては蝶のことを普通バタフライって言わないだろと決め手に欠ける主張を通さざるを得ない。
裁判では犯人の蝶に対する認識が争点となりそうである。
と、書こうと思っていた事を思い出した。
今回の「犯人しか知り得ない事を言わせてみよう法」。
その「知り得ない事」がユニークであればあるほど、犯人は言い逃れできないものである。
「鈴木さん。なぜあなたは犯人が男であることをご存知なんですか?」
「鈴木さん。なぜあなたは犯人がパラグライダーで脱出したことをご存じなんですか?」
こういうこと。
夢広がる感じ。
とりあえずタクティクスオウガのことを鑑みて、そのへんは次回。

発声

神社へと続く土手道を自転車で進んでいく。
その先には、昨日ずいぶんきれいに見えたイチョウの木があるのだ。
河原とこの道の間は広場になっていて、少年野球が行われていたり、犬散歩の人が集まったりしている。
通ったときは少年野球がやっていたが、実は広場が見える前から、野球をやっていることは分かっていた。
ずっと不思議なのだが、なんだか少年野球では、外野の選手が「ウェー」だか「ウォー」だが声をあげるのだ。
それを守っている間、ずっと発しているのだが、あれが分からない。
実は僕も少年野球に入っていた。
そしてその当時でも「声出せ」というコーチの答えとして、確かに「ウェー」とか言っていた。
すごく嫌だった記憶がある。
意味がよくわからないから。
バッターを威圧する意味があるのだろうか。
また「試合中に発生する声(オーライなど)を、大きな声で出せるようにするための練習」?。
ならば「意味がよくわからない」というのは僕に足らないところがあったわけで、今なら「今はわかんないかもしれないけど、声出しておくとあとあといいかもよ」と当時の僕に自ら言うかもしれない。
ただ、意味がわからないというのは未知であることであって、それが子供に与える不信感、恐怖は思いのほか大きいと思う。
誰かが教えてくれていればよかったのに。
「あれは外野たちの共鳴反応により、近くの人の新陳代謝がよくなるのだ」
とにかく、声をなぜ出すのかがわからない。
例えばプロ野球で、外野がウェーと大声を出しているところを見た事がない。
たまたま出していなかったのだろうか。
それとも聴衆の歓声でかき消されてしまったのだろうか。
言わなくても済むのは何歳からなのだろうか。
世界で初めて誕生した少年野球コーチとしては、外野は暇なことが多いから、声でも出させて集中力の途切れないようにさせたかったのかもしれない。
要は、声の内容は問わないのだ。
そのとき、初めての少年たちは、本能の赴くままにホーミー(全然違うけど)してしまったのだろうか。
それが今日では「ウェー」と発する事、のようにルールづけられてしまったのだろうか。
そうだとしても、原始の少年たちに罪はない。
我々がウェーでよしとして引き継いでしまっているのが悪いのだ。
ベンチではお母さんたちだろうか。
なぜか何組かのグループに分かれて雑談を交わしている。
まさかお母さんが「声出せと言われたらウェーですよ」とでも教えているのだろうか。
そして反社会的な持論を持つお母さんなんかは「声出せと言われたら、高音でナーと言いなさい」とかみんなと違うようになる事を教えているのだろうか。
そしてそのことがお父さんにばれて、子供が「ナーとウェーでけんかをしてほしくありません」と書いた自分の短冊を、夕方の河原にて、バットで打ちのめしたりするのだろうか。
家族というのは、僕の知らないところですごいことになってんのな!!。
な!!。