北海道旅行3

レンタカーを借りて、小樽へ。
手作りオルゴールを作るのだそうだ。
小樽とオルゴールの関係はよくわからないが、そんなことよりも運転が心配である。
知らない車を運転して知らない道をゆくのは、けっこう怖い。
知らない車といっても、それはブレーキとアクセルがありハンドルがありと、知っている車と似ている箇所もある。
しかしアクセルの敏感さ、ブレーキの効き具合、車体の大きさなど、違う点も多い。
近い将来、うちの車の化石とこのレンタカーの化石を見た学者は、違う種類に分類するだろう。
こないだも似た事を書いたような気がする。
小樽へはまだ時間がある。
不慣れなカーを乗り転がして向かったのが「鰊御殿」という場所だった。
観光名所となってはいたが時期が微妙なのか、恐ろしく荒涼としている。
何もかもがくすんだ色に、静かに染まっているように見える。
お土産屋さんも、見下ろした先の水族館も。
岬の末端にあるその建物周辺には、自殺者をそれほど真剣に遮らなさそうな遮り。
その向こうには、いい崖。群青。封鎖された灯台。
エンジン音を聞いて表に現れるお店のおばさんを、ひどく錆び付いた手すりに覆われた水族館を見て何も感じない訳ではないが、その多くは今が午前9時という、少々はりきり観光客の自分が原因であるわけで、むしろそのように考える事とした。
小樽付近に来ると、何やら日本らしくない作りの建物が目をひく。
小樽はそういうものなのだそうだ。
小樽運河という美しい場所があり、そこで運河が写らないくらいの大人数の人が記念写真を撮っている。
小樽はそういうものなのだそうだ。
どこかで小樽と関係があるのだろう。
ガラス細工の店が軒を連ねるなか、目的のオルゴール店を探しつつ歩く。
小樽港というものがあるくらいだから、すごく海産物がたくさんあるのだろうと思っていたけど、場所が違ったのか、そこはおしゃれさんと観光客くらいしか来なさそうな店ばかりなのである。
僕らは他の観光客に混じり、けどそれほど店をひやかすこともなく、目的地のオルゴール作り店に到着する。
全くそのシステムのことを考えていなかったが、どうやら既に完成しているオルゴールにデコレートを施すらしい。
黄色く美しいビーズが、かずのこに見えてきた。

北海道旅行2

何の予定も立てていない旅行だった。
ホテルであわてて探した興味ある場所は、バカリズムでいうところの現在地:右手と目的地:左手で、期間内に行けるようなところではなかった。
これでは2日間、近くの本屋だけが目的地になりそうだ。
しかしいつものように、腹は減る。
とりあえず出歩く分には、いいきっかけになる。
しかし出歩くには、他にもいろいろなきっかけがある。
例の、クラーク博士像のまねをした人たちが笑っている。
そんな有名スポットで目の当たりにしたのは、「好きです sapporo」と書かれた丸い看板だ。
さまざまなところにあるその看板は、ちょうどクラーク博士が指差した先にもあり、単純におもろいながらも博士が事実そう思っていたことを願わずにはいられない。
=====
今日は楽しかったよ、本当に。
で、ほら。
そのコースターの裏を見てくれないか。
いいから。
見た?。
それが僕の本心だよ。
=====
願わずにはいられない。
そしてシーズンオフな観光地特有の感じ。
のんびりとは少し違う、「活気あるときとないときがあって、今はないときです」みたいな感じ。
女子学生の集団が展望台に現れても、それを払拭する事はできなかった。
僕らはここをあとにする。
女子学生の誰かがいたずらで、クラーク博士像にミサンガをつけてくれないかななどと考えながら、バスに乗り込んだ。

北海道旅行1

始発だというのに、思いのほか乗客が多い。
それでも空席の目立つ車両で、僕はPSPで眠気を殺す。
周りが明るく照らされ始めたころ。
駅のホームで体操をしているおばさんを見かける。
モノレールから眺める海は朝日で輝き、それが風でうごめくものだから全く飽きない。
ずっとそれを見ていたら、ある本に「日の出と日の入りの映像は、違いがわからない」と書いてあったことを思い出した。
確かにそうかもしれないと、今が早朝である事をつとめて忘れ、その上でモノレールからの風景を見ようとした。
しかしどうしても早朝だった。
車内のけだるさがそうさせるのだった。
北海道旅行である。
何らかの裏取引を成立させ、飛行機の窓側に陣取った僕はその2時間後、タクシーで13000円ほど払う事になる。
あほである。
普段タクシーを使わないので、相場が全くわからなかった。
新千歳空港から札幌まで、そのくらいかかったのである。
高速みたいな道路にタクシーが入ったとき、僕は覚悟を決める。
俺は、北海道のタクシーのいいお客さんになってしまったよ。
タクシーは、こんなにお金がかかるのかい運転手さんや。
俺は、北海道のタクシーのいいお客さんになってしまったよ。
仕方がないので、僕は昆虫図鑑アプリを閲覧、ゲンゴロウが北海道にも生息しているらしいことを知った。
ゲンゴロウ。
同乗者はぱっとその姿を思い出せなかった。
それもそうだ。
現在「だいぶ少なくなったよね」具合を、環境省が太鼓判を押している。
なんか文章が変だが、仕方ない。
いいお客さんになったんだもの。
そういえば昔、僕はこのゲンゴロウを飼っていたことがある。
北海道旅行である。

焼身の主張

脂がのっている。
悪い事はそんなになさそうではある。
しかし、脂がのっているのを箸でぎゅーっとやることで表現するのは、どうかと思う。
そんなことをしたら、かなりぱっさぱさな魚だって脂が出る。
表面が少しテカるくらいで充分だ。
鼻をつまめば、よくわからない何かが絞り出されてくる。
表面が少しテカるくらいで充分だ。
話は変わるが、「ほ?ら、こんなに脂がのっていますよ?」の次には、何がくれば面白いだろう。
例えば七輪の中へ、脂がどぼどぼ垂れている焼き魚は、面白い。
数秒で、魚自体が消えるかもしれない。
「脂がのりすぎていて、魚がほとんどなかった」ということだ。
対象をめがねになすり付けるのもいい。
ぞうきんを絞る映像もいい。
なんとなくだが、脂がたくさんのっているような気にさせるだろう。
対象が燃えているのもいい。
あくまで「脂がのっていること」が重要なのであって、特にそれを食すことは度外視だ。
あるいはアルコール添加なしでのフランベ。
脂がのっているような気がする。
もう食べたあとでもぐもぐしているのは、一見「脂がのっていること」を見せてくれていない。
しかし熟考すると「あまりに脂がのっていたため、食べちゃった」ということで、間接的にすごく脂がのっていましたを演出していて、たいへんよい。
そのとき口から脂がちょい垂れているのが、いい。
口のキャパシティでは脂量をカバーしきれないくらいなのだ。
食べた人がよく燃えたら、どうだろう。
それは、何らかの主張があると思わせる。
しかしそれが「僕が食べたの、脂がこんなにのってました」であるとは、誰も思うまい。

力と変換

たいがいのドラマでは、愛や友情が何らかの「ちから」に変換され、うまいこといく。
この、現代版錬金術とも言うべき構図は、もっと他のところでも起きているのではないだろうか。
例えば、もうすぐ見たいドラマがやるのに買い物が終わらないことは、どんくさいおばちゃんが並んでいるレジには並ぶまいという洞察力に変換される。
釣れないと夕食がないことは、魚を盗んでも捕まらない瞬発力を、あるいはいつ釣ったのかわからないような腐りかけの魚を食べても腹を壊さない消化力に変換される。
一人の青少年が病気をなおすための手術を怖がることは、野球のホームラン一本を打つための力に変換される。
これらは一見、当たり前のような変換である。
しかし実際の錬金術が失敗ばかりであったことを考えると、気づかないだけで実は誤った変換が起きていることもあるやもしれない。
一人の青少年が病気をなおすための手術を怖がることが、知らない人の、女装癖があることを公言する勇気に変換。
本のページをめくることが、あるボクサーの腕のリーチを伸ばす力に変換。
泣きじゃくる赤ん坊をあやすことが、核使用の抑止力に変換。
そう。
誤った変換であったとしても、それはそれで必要。
それはCOP10の意義のひとつみたいなものであり、誤っているかどうかもわからないところが、みそであるが。

三羽がらす

三羽がらすの意味がわからないから、褒めてるのかどうかがわからない。
それは芸能界など、ある分野で有望視されている上位3人を示す言葉だったか。
しかし現在、その言い回し自体が聞かれず、しかもからすがそれほど良い印象を持っているわけではないことも手伝ってか。
たとえ「彼らが歌謡曲界での三羽がらすです」と聞いたとしても、電線にからすが3羽とまっている感じくらいしかとらえられないのだ。
確か、じゃんけん娘というのがあった。
これは三羽がらすと同じ意味で、当時ぐいぐい言っていた娘3人をまとめてそう呼んだのだろう。
本人たちはいやだったのではないだろうか。
愛称とはいえ、あまりにぞんざいだからだ。
三羽がらすだってそうだ。
何かわからないが、からす3羽でまとめられてしまったと思うだろう。
考えてみると、3でどうこうというのは昔からある。
三銃士。
北欧の神話には運命を司る3姉妹がいる。
妖怪としてのかまいたちは、突撃するやつと傷をつけるやつ、そして薬を塗るやつと、3人が一組だ。
どうも3というのはひとまとまりの最小単位のようなイメージが、昔のヒトにはあったようだ。
考えようによっては、三銃士は別に八銃士であってもよくて、策士や八兵衛枠も取り入れるとなかなか頼もしい連中になったはずだが、三銃士たる役割を果たせる最小単位は3人だったのだ。
かまいたちだって、他に「かまを研ぐやつ」「女形」「ムードメーカー」「トリックスター」などがいてもよさそうだが、かまいたちの機能を最小人数でやりくりすると3匹になるわけだ。
そして最小単位であるが故、そのひとつひとつの密度は濃い。
そんななかでの三羽がらす。
濃いからすって何だ。
せめてからす、わし、すずめとかなら一長一短があってドラマチックだったのかもしれないが、とにかく1?3までからすである。
有望視される3人がからす×3で表現できてしまうのは、ずいぶん寂しい感じのするわけで。

適切説明

「あれは、どんな調理法ですか?」
いいえ。あれは調理ではなく、サウナです。
「あれは、鬼太郎の指鉄砲の痕跡ですか?」
いいえ。あれは指鉄砲の痕跡ではなく、指サックです。
「あれは、キッチンドランカーですか?」
いいえ。あれはキッチンドランカーではなく、味見です。
「あれは、忍者ですか?」
いいえ。あれは忍者ではなく、催し物です。
「あれは、侍ですか?」
いいえ。あれは侍ではなく、長七郎江戸日記です。
「あれは、以心伝心ですか?」
いいえ。あれは以心伝心ではなく、様子見です。
「あれは、択捉島ですか?」
いいえ。あれは択捉島ではなく、水戸泉です。
「あれは、サボタージュですか?」
いいえ。あれはサボタージュではなく、療養です。
「あれは、つなみですか?」
いいえ。あれもつなみではなく、水戸泉です。

手動

手動車というものはあるのだろうか。
もちろんこれは「自動車」がわざわざ「自動ですよ」を主張しているからである。
少し考えるだけでも、手動車はたくさん思い浮かぶ。
リヤカーや手押し車はもちろん、チョロQもそう。
「普通手動車」だ。
「車」を広義的な視野でとらえれば、滑車が含まれた理科の実験のほとんども手動車となるだろう。
自転車も、その「自」が「自動車」と通ずるのなら、「自転車って、俺らが回転させてんだろ!」と怒っていいかもしれない。
正直、自動車に対しての「手動車」なんてものには全く興味がない。
「今日は寒いから、すいとんにしましょう」
「やったー、かぼちゃ入れようよ」
「手動車、手動車、手動車!!」
「豚肉は細切れがいいな」
この会話だけで、ちゃんとすいとんができる。
間に挿入された手動車は、聞こえていたとしても自動的に雑音として消されている。
このくらい興味ない。
ただ少しだけ気になったのが「電気手動車」の存在だ。
「何かしらの作用で電気は帯びるが、車の運用には特に使用しない」
なかなか美しいじゃないですか。

何かの漫画だかエッセイだかで読んだ「具が入ってない」というセンテンスが、思いのほか面白いことがわかってきたところだ。
コーヒーを一口飲んでから「具が入ってない」と言えば、喫茶店のマスターは生きたここちがしないのではないだろうか。
あるいはキスのあと、少し納得いかないような表情をしての「具が入ってない」。
目の前には、心変わりがばれたのかと驚く相手がいるかもしれない。
けっこうスリリングなのは、マラカスを手にしたとき。
具が入ってないと聞いた周りの人は、いろいろと夢広がる事だろう。
・・・あれ、今回の内容、具は?。

自由性

昨日「拘束衣」なんて言葉を使っていたら、思いついた。
音楽は拘束具。
意味ありげなコピーができました。
無難なところだとワイヤレスイヤホンや外耳装着型のプレイヤーの売り文句としていいかもしれない。
まあ、今日は特に何もないってことっすよ。