ひどく退屈な一週間 7日目

オリジナリティというものを尊重し、極限までそれを遵守するとなると、いきなり僕らは四散してしまうわけだが、最初のひとりが四散すると次の人は八散しなければならず、なんだか大変だ。
そこまで行かなくとも、誰しも何かしらの面で自分固有なもの、独創は持っていたいと思うものだ。
要は、遵守の程度である。
程度をわきまえないと、独創性を求めるにあたっては「にっちもさっちも(!!)」いかなくなってしまう。
ある作家は、どのような格闘技が一番強いかを考えるとき、銃器の存在をアリとした。
あらゆる制限は結果的に不平等な律速を招くかもしれないことを示しているともいえるが、普通は「そんなあ」だ。
程度を考慮する必要がある。
また、独創の方向性を間違えると「問題の答えは8個だとわかっていたのですが、オリジナリティを出して「る個」にしました」とかなってしまい、それはオリジナリティというよりは、あまのじゃくである。
解法はともかく、数式の答えにオリジナリティは、ふつうない。
あるとしたら変数xの書き方くらいだ。
逆に性格生き様などはオリジナリティを発揮するにはいい舞台かもしれない。
※以下、「文学、映像作品」のそれについて。
さて、オリジナリティというものが失われて久しい、という旨の話は多い。
それはオリジナリティというものが内部要因というよりは外部要因に左右されるからという点が原因かもしれない。
作り手がいかに作品を無二だと考えていようが、受け手がそうでないと判断した場合、どうしてもそっちが重視されてしまうから。
A:
新しい言葉を作りました。骨と肉にダメージを与える意味「ボーンキュル」です。
B:
どういったことですか?。
A:
相手の腕か何かを持ってこう、きゅる!!ってねじることで、骨と肉の接点を断絶する動作のことです。
B:
何かどこかで見たことある気がするなぁ。
A:
骨付き肉などの調理にも役立ちます。
B:
ところで病院連れて行ってもらえます?。
この時点で「ボーンキュル」が新規のものだったとしても、もはやそれに独創性を見出すことは難しい(どこが文学どうこうであるかを見出すのも難しい)。
どこかで生まれちゃってたらしいことをBが示唆したためだ。
オリジナリティというものは非常に繊細で、曖昧なものに対してでさえも、たやすく侵されてしまうもの、らしい。
そんななので、人々は様々な方法でそれの取得を試みてきた。
例えば検索にひっかからない言葉を生み出した。
ありえない角度の視点を映像にした。
ストーリー構成を捨てた。
しかし残念ながら、これらの試みをもってしても「どこかで見たなあ」には、かなわない。
手術台の上でミシンと蝙蝠傘は出会ってしまっているのである。
全ての独創性というものが1枚の白紙の余白部分であったとするならば、もうその裏面も色塗りされているようなものだ。
もはやオリジナリティは、せいぜい「自分より優れたものへの嫉妬」としてくらいしか存在していないのかも知れない。
とはいえ、オリジナルだけど全然おもろない、なんか見たことあるけどすごくおもしろいというものも多い。
そこにはまた別の視点での独創性があったりするのだろう。
白紙の2枚目があったりするのだろうか、おもろい人。
スゴイヨネ。
さて、僕はまず1枚目を探しに。
このまま、何処へゆこうか。

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