対決

確かシャーロック・ホームズは、ライバル?のモリアーティ教授との対決で滝に落ちた。
そのあと生きてました、みたいになった気もするのだが、そんなことはいい。
対決し、滝に落ちるのである。
少々「滝の近くでそんなことになるなよ」という気がしないでもないが、なんとも劇的なことなんである、「対決し、滝に落ちる」。
調べてみると、スイスのライヘンバッハという滝だそうだ。
もう一度言う。
カッコよすぎやしないだろうか、「対決し、滝に落ちる」。
「俺のおやじ、対決して滝に落ちたんだ」
なにそのドラマ、という感じ。
「俺のおやじが最後に目撃されたのが、ライヘンバッハだったのさ」
なんとなく、松田優作が言っていそうだ。
「俺のおやじがライヘンバッハの滝つぼに吸い込まれていく、ときの写真だ」
これはちょっといやかな。
さて、日本のホームズといえば、7:3で赤かぶ検事なのだが、彼に上記のホームズスタイルをあてがってみるとすると、どうなるだろう。
さすがにライヘンバッハの滝で誰かと対決!!というのはないだろう。
滝じゃない。
平地だろう。
平地で何か話すのだろう。
時には岸壁にいるかもしれない。
しかし、安全な場所だろう。
そもそも、海外へでしゃばろうとはしない。
日本でやっていくに違いない。
滝ではなく、むしろ温泉に入っている。
なんとなくだが。
そして何よりも、対決で消息を絶ったり、死んだりしない。
そんなに危険な目には合わない。
と、これらが彼のスタイルと言える。
なので、クライマックスシーン。
ホームズが対決しているとしたら、赤かぶ検事は何をしているのだろうか。
なんとなくだが、彼はフェリーに乗っているような気がする。

くまについて

近頃、クマ的なキャラクターが大人気なのである。
雑貨を扱う店には、まずクマのぬいぐるみがあり、ストラップがあり、ハートがついていたり、鮮やかな色彩だったりと、まあいろいろ包括して、くまがある。
本来、くまは怖い動物のはずだが、一方ではかわいいやつとして親しまれている。
なぜなのだろう。
こぐまか。
こぐまがかわいいからなのか。
プーか。
プーがかわいいからなのか。
とにかく、我々が身近に接することのできるくまはたいていかわいくなっており、例えばくまの絵を描けと言われれば、それは鮭の肉片が口の周りに付いたくまではなく、幼稚園児のカバンに付着するアップリケのようなくまが描かれるはずなのである。
そしてくまを愛する人は多い。
知り合いの携帯電話は、くまなりだ。
すなわち、くまのキャラクターだらけなのである。
またある人は、店頭にならぶ大きなくまのぬいぐるみに声を上げる。
大きなくまのぬいぐるみ。
何かしらのシンボルが見え隠れすることは、誰しも認識しているところである。
このように、怖いながらもその存在はかなりかわいい方面に偏っている、昨今のくま。
しかし残念。
そんなくまと、くまを愛する人たちの行き着く先。
それはベアハッグによる、どちらかの殺害なのである。

車内の不安

電車内で赤ちゃんがぐずりだすことは、ごく当たり前のことと思われております。
しかし、その認識があったとしても、甲高い声で「あー」だの「わいぅわいあ、がー」だの叫ばれると、親の気まずさを不憫に思いながらもうるさいなぁ、と思わずにはいられません。
このことは当然です。
事実、うるさいのですから。
一方、赤ちゃんはどうでしょうか。
彼らに意見を求めたとすると、「変にゆれてにおいもいつもと違う電車内という場所」に不安を覚えずして何を不安とするのか。
そう言い返されるかもしれません。
これも当然のことです。
不安だから、泣き叫ぶのです。
「それは0歳であろうと80歳であろうと変わらないはず。なのに彼らはなぜ不安を表に出そうとしないのか」
赤ちゃん達は不思議がっています。
さて、今回の話を整理してみましょう。
乗客→うるさいと感じる
赤ちゃん→不安で泣き叫ぶ
幹部「ここで当然、乗客には「泣き叫びやめてもらい衝動」が発生しますが、赤ちゃんのやることなので仕方がないなという気持ちが勝り、その衝動は抑えられます」
幹部「その衝動を抽出し作成した結晶と邪悪なトビネズミを融合したのが、今回紹介するメガ怪人「トビネズミゲボラ」です」
ボス「うーん、ちょっとOK出せないなぁ」
幹部「と、言いますと?」
ボス「まあいろいろあるけど、まずねそれ、シャーレに収まっちゃってんじゃん」

首の長さ

進化論には様々な説が存在しており、細かいものをあわせると結構な数になる。
さて、ある説では、進化を正しい方向で論ずるにはキリンの首と足に着目せよとある。
キリンはその首の長さが注目されがちであるがい、同様に足も長い。
そしてその長さはほぼ同じなのである。
このことが導き出す結論、それが「首でも足でも両方でがんばりました」である。
これは猿など、他のところでがんばっている種を除いた全ての生物にみられる傾向。
現在、その長さが極端に異なる生物がいないのは、あんまり片方だけがんばるのはいけないことを示唆しているものと考えられており、それにそぐわない生物は今後絶滅する可能性が高いという。
本能によりこのことを察知しているのか、例外とされている人間のなかには、現在一生懸命、首を長くしようとするものも確認されている。
「座ったり、足を折り曲げることなく川の水を飲むから、首の長さは足の長さと一見同じくらいなんだと思っていました」
この考察について、この説は「今日まで、川や水溜りが宙に浮いていたことはない」という結論も合わせて導き出している。

ほれた男

なんかわからんが、いいコピーがひらめいた。
「ほれた男」になんてなりたくない。 高倉健
絶対に、ではないが、上にあるように高倉健に合う気がする。
彼、よく「ほれた男」って言われていそうだから。
☆☆☆☆☆
[高倉健が明かす「こんなだから、俺は不器用なんだ」と思うこと ベスト10!!]
改札での「定期券出し入れ」がうまくいかない
カメラ前での自然な笑顔ができない
新聞紙をビニールひもでぴっちりまとめられない
といでるそばから、米がこぼれるこぼれる
TVゲーム会話画面でボタンを連打し、重要な選択肢をのがす
持ち前のユーモア精神を、色んなところで出せないでいる
ウィンナーをタコにできない
「せみ」以上に高度な折り紙ができない
切れた蛍光灯が交換できない
世間話ができない
☆☆☆☆☆
これらができたら、必ずや「ほれる男」になれるんだろうね、健!!。

料理と脈

「別れた彼女ともう一度」
さっき、どっかのサイト広告にこんなことが書いてあった。
なにやら女々しいが、そう思わない男なんぞいない、かもしれない。
で、だ。
こんなのはどうだろう。
「別れた彼女ともう一度 たまに行くならこんな店」
どうだろう、ってのもないですけど。
でも、ちょっと背景あるよね。
どんな背景かって、それは「もう一度」と「たまに」の相反さが主だね。
「あのときもう一度だけって言っておいて、また誘うの!?」
このあとの彼女の行動によっては、まだ脈アリって思わせちゃうかもね。
そして別れた彼女との関係が今後どうなるのか。
興味は尽きない、といったら嘘だけど、まあ興味ないよね。
でも、そんな彼らの事情を差し置いて、最終的に紹介されるのは店だっていうんだから、もうお手上げだよね。
それ、バンザイ!!。

有意義

みたらしだんご持っていたことを忘れて、長袖Yシャツを脱いでしまえ。
最近、そんな人がどれほど多いことか。
まず僕だ。
なんかの漫画でも言っていたが、ノープランで街に繰り出すなという話だ。
有意義なこと、一つもないぞ。
さっきの惨事を忘れて、長袖Yシャツを着てしまえ。
やはり僕だ。
猫が、ほんの少しの隙をついて、僕の部屋におしっこをするのだ。
有意義なこと、一つもないぞ。
☆☆☆☆☆
[これを持ちながら服は脱ぎたくないなベスト10!!]
あんずあめ
串かつ(たれ付き)
みそ田楽
両手いっぱいのふん
バーベキュー串
チリドック
手榴弾(ピン抜けてる)
お好み焼きにソースを塗るためのハケ
不良債権
ます酒
☆☆☆☆☆
有意義なこと、一つもないぞ。
当ブログ、有意義なこと、一つもないがゆえ。

ブランコをこいだ日

ある路線に、車内から高架下を見下ろすと公園の見えるところがある。
この公園、そこそこの敷地内に、一人用のブランコが1台だけ、ある。
さみしい。
最初見たときは、アートかなにかと思ったくらいだ。
戦時中、ごめん先日。
初めてこの公園のブランコが使用されているところを見た。
10歳くらいの女の子だ。
安心した。
これがスーツのおっさんだったら、さみしすぎだ。
女の子は、通過するまでの数秒だけ見えたが、一人で一生懸命にブランコをこいでいた。
さみしかった。
おっさんがどうこうと心配していたが、どうも一人用ブランコ1台という時点で、もう何が起ころうともそれはさみしいものでしかなかったのだ。
女の子がさみしそうにゆっくりとこいでいたら、それはさみしい。
しかし、アゲアゲにこぎまくっていたとしても、それもさみしい。
連休だったのに、それを最大限に有効利用できず、もんやりした自分、それもさみしい。

よくばり2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
なんか映画とかって、「愛と友情のストーリー」というように、「○○と××」とわざわざ2段にしているね。
=====
今回は上記あらすじにある「○○と××」について、どのような基準で言葉が選ばれているのかを考えていく。
「崖の上のポニョ」。
この映画を「愛と友情のストーリー」と言っても、そんなすさまじく変ということはないだろう。
「友情」の方は厳しいかもしれないが。
一方、以下のものを僕は見たことがない。
「魚と魚好きのストーリー」
「海の幸と海の幸好きのストーリー」
「ポニョとその他大勢のストーリー」
そしてもちろん「ポニョと宗介のストーリー」というのも見たことない。
結局、○○と××にはかなり大雑把な、かつ好かれそうなあたりさわりのない言葉が入らなくてはならない。
それは当然のことで、あまりに具体的だと(例にある「魚」ですら具体的となるが)、まだ映画等見ていないほとんどの観衆が、おいてけぼりをくう、悪くなると勘違いまでさせてしまうから。
※さらに、よく考えるとポニョは海の幸ではないと思われるため、例はその点もだめだ。
「スーパーマン」。
以下のものを僕は見たことがない。
「飛行と怪力のストーリー」
「ライオンとイボイノシシのストーリー」
「タイツとマントのストーリー」
やはり、○○と××には、やたら大まかなことを書くべきだ。
妙に具体的だと、やはり観衆に勘違いをさせるし、なにしろ今回の例では、そもそもこの映画を見たいと思わないのだ。
「飛行と怪力のストーリー」にグッとくる観衆はあまりいないだろうし、「ライオンとイボイノシシのストーリー」は明らかにライオン・キングと間違っていて、かつライオンの次がイボイノシシになっているが、ライオン・キングにおいても、それほどイボイノシシは重要じゃないだろと指摘されてしまう。
「タイツとマントのストーリー」にいたっては、へたすると「タイツとマントが恋をした→スーパーマン誕生」のような誤った誕生秘話が創作されてしまうかもしれないのだ。
=====
以上より「○○と××」には、大まかな、もう「愛/友情/別れ/涙/勇気」くらいが入ればいいことが判明した。
この話の終着は何か。
例えば今年1年が終わるとき。
「今年1年、○○と××のストーリーだったな」とまとめることができそうだなぁ、ということである。
現状「眠気と薄着のストーリー」な人は、あと2ヶ月くらいで「帝王学と遺産相続のストーリー」とかにまとまるようにしてみよう!!。
これまでの話、まったく意味なくなっちゃったけど。

よくばり

「愛と友情のストーリー」といったものを目にすることがある。
このとき「○○と××」と、わざわざ2段にしている理由。
考えてみると、それはおそらく「ストライクゾーン広げ」であることに気づく。
例えば「愛のストーリー」だと、「友情は感じたけど、愛は感じなかった」人に対して期待はずれな思いをさせてしまう。
そして同様のことが「友情のストーリー」の場合でも言える。
その点「愛と友情のストーリー」なら、この両者はそれほど落胆せずに済むはず。
このように、期待はずれと感じさせてしまう人を少なくするために「○○と××」の形式があるのだ。
しかしこの形式は、欲張ってしまってはいけないだろう。
「愛と友情と青春、そしてカーアクションと涙のストーリー」
本当にそんな内容なのかもしれないが、とにかく欲張りすぎだ。
「二次元愛と友情のツープラトンと青春18きっぷ所持、そしてスタントマンによるハードなカーアクションとおすぎ涙のストーリー」
とにかく欲張りすぎだ。
「愛と友情のストーリー 別れも少々」
これも、しかり。
明日につづきます。