例の、丸い構造物 2

昨日から。
【あらすじ】
すごく大きい、燃料を貯蔵してそうな丸い構造物「アレ」について。
あれは怪獣が壊しやすそうなものだが・・・?。
アレを破壊し、感慨深げな怪獣よ。
あぁ、怪獣よ。
しかし、僕はここで恐るべき事実に気付く。
「怪獣は、現実にはいない」
当たり前である。
「怪獣だ!!」というニュースが報道されたとしても、たいがいそれは捏造だったり、はぐれアザラシだったりする。
そもそも現実に「怪獣だ!!」と口に出して言うチャンスはないだろうし、あったらあったで結局はぐれアザラシなのである。
「怪獣だ!!」と叫ばせるようなレベルの高い怪獣はいないだろうし、存在したとしても、ほぼ現れない。
そう。
いたとしても、彼らは我々が思っている以上に、怪獣は環境問題に対してそれほど怒っていないのである。
話がずれた。
「怪獣は、現実にはいない」
しかし、問題なのは「怪獣にアレを壊させている」ことである。
怪獣がアレを壊す。
その、壊れる映像をメディアに載せることに意味があるのではないだろうか。
つ、つづく・・・。

例の、丸い構造物 1

誰の心の中にもある構造物と言ったら、それは国会議事堂でも金閣寺でもなく、「すごく大きい丸いヤツ」ではないだろうか。
あの、クリームもしくは淡い若草色をした、ビルにも匹敵する大きさのあれ。天然ガスを蓄えるタンクだろうか。
誰しも「あれの土台とか出っ張りを外したら、転がるのだろうか」という疑問を持ったもしくは持っているにちがいない。
さて、そのアレであるが、とにかく怪獣に壊されそうな建造物でもある。
思うに、怪獣もアレが転がるのか、疑問に感じているのではないだろうか。
そして手を出し、あわれ粉々に壊れ破裂していくアレを眺める怪獣の目は、どこか悲しげだ。
「あ、転がらないんだ…。」
しかし、僕はここで恐るべき事実に気付く。
つづく。

杖先、天を穿つとき。

以前、「警察24時」みたいなので、気になるシーンがあった。
暴れている2人の男。
片方が松葉杖を振り上げ、相手をはたこうとしている。
それを警官が止める、ような感じ。
思った。
普通、松葉杖はケガをしている人が使用するものであって、そんなものを暴力の道具にしてはいけないこと。
そして、その松葉杖を持つケガ人が、そんな暴力をふるって大丈夫なのかということ。
これは「松葉杖は友人がしていたもので、それを取り上げて相手を殴ろうとしていた、らしい」ので、解決。
しかし、松葉杖が振り上げられる映像には、ちょっとびびった。
普通、松葉杖、もちろん杖は傘とは異なり、上に振り上げられることはないはず。
せいぜいテーブルの端においてあるリモコンを引き寄せるため、横展開されるくらいだ。
だから、その先が地面を離れ振り上げられるのは、尋常じゃあない。
大小の差はあれど、それは間違いなく、異常だ。
だから、その場の人たちは何かしらの心構えが必要となるはずだ。
杖先、天を穿つとき。
その映像は、少々怖いのである。

言える日

「なんとも言えない甘みですね?」
よく聞かれる言葉だ。
しかし、この言葉がある以上、日本語はまだ、発展途上にあるということ。
「なんとも言えない」ことを表す言葉が誕生すれば、そのあとは、なんとも言えなくなることはなくなるはずなのだ。
そして、日本語を使用している人も「もう「なんとも言えない」では、表現の限界を感じざるを得ない」と感じている。
そんな背景もあり、そろそろ、その言葉が誕生すると思われる。
「あ、あの甘みが、ついに表現できる!!」
旅番組の未来は、明るい。

ひねもす

恥ずかしながら小生、「ひねもす」という言葉を動詞、しかも、なんとなくマイナスイメージのある動詞、と思ってました。
「和夫、ちゃんと宿題やりなさい。」
「なんだよ、ちゃんとやっときゃいいんだろ!!」
「なに、ひねもしてんのよ、ほら、すぐに!!」
こんなだ。
この「ひねもす」。
調べてみると「終日」のこととか。
またおりこうに近づいてしまった。
ところで、コイツを英語で表すと「all day」となってしまう。
日本人からすると「一日中、遊んでたんだね」では「all day」でよさそうだが、「ひねもす、遊んでたんだね」のときは少し、「all day」では伝わらない気がする。
「ひねもす、遊んでたんだね」というからには、絶対禁じられた遊びのはずだ!!。
ということで、またおりこうから遠ざかってしまった。

仮名

何か、公共的な書類などで名前を書くとき、その上の欄に「ふりがな」という項目があるだろう。
この時、その欄に我々は「にんばす」と書かなければならないのであって、「ニンバス」ではダメである。
しかしながら、こういう制限は時々あるにしても、大抵のシーンでは、平仮名だろうが片仮名だろうが、問題になることはない。
せいぜい平仮名表記で、物事がかわいくなるだけである。
(個人的には、「西国分寺駅→にしこくぶんじえき」の豹変っぷりがかわいすぎる)
ところがである。
「平仮名」を片仮名で書いてみると「ヒラガナ」。
なんとなく公約違反な気がしてはこないだろうか。
そこまで行かずとも、なんだか違和感があるはずだ。
そして同様に「かたかな」。
2?3年前までつっぱっていたのに、最近はすっかり丸くなりました。
そんな印象を受けないだろうか。
その感じは、その言葉の持つ意味を反転してしまうような、矛盾した動作に対してのものである。
なんたって反するものが、そのものの体を表しているのだから。
イメージとしては、
・両親殺しの犯人として追っていた男が、実の双子の兄だった
・砂糖を塩蔵
とか、そういう感じだ。
とにかく「平仮名」は片仮名で、「片仮名」は平仮名で、それぞれ書いてしまったら、そいつはちょっとかわいそう、となる。

現在保持している話は、長くてめんどいので、今回はどうしようかと書きあぐねている。
さて、管理者ページを今見ているわけだが、ここでできる、ほとんどの機能を、僕は知らない。
例えばこのページの上の方に「トラックバックテーマ」というものがあり、見るものに「あなたは猫派?、それとも犬派?」みたいな選択を求めてくる。
何かレスポンスすると、知り合いが増えたりするのだろうか。
それはとっても、いいこと。
でも、今日のテーマはどうも違うことが気になる。
今日のテーマは「あなたは使い捨て傘派?ちゃんとした傘派?」だそうだ。
そもそも傘に使い捨てがあるという認識が無かったのだが、それよりも際立つのは、以下2点である。
・語呂の悪さ
・ちゃんとした傘の呼び方
「ツカイステカサハ」
個人的には、だいぶな語呂の悪さである。
ビニール傘と書くにはいかなかったのかもしれない。
僕だって、こう言う以外に、どう言い回せばいいのか、わからない。
ただ、なんとも、慣れ親しんだ言葉から構成されたものという感じがしない。
文字を見ないで棒読みを聞かされたのち、誰かに「アイヌ語で獲物を見つけたぞ、という意味です」とか言われても納得してしまうような気がする。
また、「ちゃんとした傘の呼び方」である。
気にも留めなかったことだが、「全体:傘」に対する「部分:使い捨て傘」。
それ以外の部分の傘はなんと呼べばいいのだろうか。
ある程度、その範疇を捕らえたものとしては「透明でない傘」ではないだろうか。
ただ、「あなたは使い捨て傘派?透明でない傘派?」とやってみると、逆に「使い捨て傘」の言い回しに「大人の都合」みたいなものを感じてしまう。
それに、そもそも傘の印象は、人それぞれだよ的な部分がある。
ある傘について、誰かは使い捨てだ、と思っていても、一方はちゃんとしたものだ、という風になってしまう。
俺の傘は、ちゃんとしているのだろうか・・・。
この悩みは、なかなか哲学的に発展もしくは退行しそうだ。
ということで「あなたは使い捨て傘派?ちゃんとした傘派?」。
これだけ触れたのに、結局何もレスポンスしない管理者の行うこのブログは、今日も凪だ。

はだか3

前回からのつづきです。
【あらすじ】
全裸のマズイ点は、やっぱアレがあーなるところだよね。
だが、僕はもうひとつ、マズイ点を全裸に感じている。
それは「全裸のほうが特殊」ということだ。
例えば「ヌーディストビーチ」。
これは、普通の海水浴場は「着用者ビーチ」であるということだが、もちろんそうは言われず、あくまでヌーディの方が特別扱いだ。
どんなに普遍的にヌーディたちが闊歩しようと、それはまだ特別なのだ。
前回触れた「全裸を楽しむ人々」を考えてみよう。
「裸で何が悪い」
彼らの顔をよく見ると、そんなことを言っているような気がする。
この意思は一見、彼らの意図と同調していそうだ。
しかし本来、彼らの行動には「裸で何が悪い」ということ自体があってはいけないはずである。
彼らの行動の真実は「スーツを着て歩いていたら、なんだか知らないけど脱げていってしまって、最終的に裸になりました。」くらいの自然さを帯びるはずだ。
しかし彼らは、誰かに、何かに「裸で何が悪いんだ、あ?」と言ってしまっている。
着用者が気付きもしない何かに、身構えてしまったのである。
そして、着用者からみて、そんな彼らは特殊である。
このように、全裸は全開で、特殊で、マズイ。
この時代はなんだかんだいって、まだ着用の時代なのである。
追記
でも、いいところだってあるんだぞ!、という方もいるはずだ。
確かにそうだ。
全裸でふとんに入るのは、気持ちいいし。
だから、半そでをちょっと長めに着るなどして、少しずつ社会に全裸をならしていくといい。
性急な発展は、破滅を招くらしいし。

はだか2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
全裸。
ところで昨日、裸祭りに触れ「なんだかわからんが全裸はマズイ」と書いた。
何がマズイのだろうか。
2?3日前までは、ヴィーナス像のフォトグラフが検閲にひっかかり投獄される編集者が絶えなかった日本だが、今ではポスターやメディアなどで「ヌーディストビーチ」なるものに触れることができる、いい時代になってきた。
また「裸で何が悪い」といった趣で、全裸を楽しむ人々もいるらしい。
しかし、だからといって、街中を全裸で歩くものは猫や昆虫類くらいしかいないし、それを強要されることもない。
やはり、何かがマズイのだ。
まず思いつくのが、全裸は人体の秘宝館が全開になっている、という点だろう。
我々は他の生物と同様、いくつかのホットスポットを有しているが、コイツが全開ともなると、ちょっと社会生活に支障をきたしそうだ。
と、これでもう、十分な説明となるだろう。
この理由により、我々は、自らの神秘珍々ニコニコ園を隠蔽するのだ。
次回、もうひとつのマズイ点。

はだか

もうほとぼりも冷めたと思うので、裸祭りについてだ。
実は今でも、何がそんなに話題になったのか、知らないのだが、とにかく全裸がマズイ、という話だろう。
何気にみんな内心思っていたのではないだろうか。
「メガネさえかけていれば、全裸じゃないのに・・・」
異論はあるだろうが、僕はそう思う。
ただ、メガネをかけているということによって、全裸が醸し出す何かがキレイに無くなる、ということではない。
むしろ、人によっては、その何かが増大しているような印象を受けるかもしれない。
ただ、とにかく全裸ではない、ということである。
このような考え方をすると、全裸というものをクリアするには、かなりの項目をチェックしなければならない。
例えばアクセサリをつけている人は、全裸ではない。
銀歯のある人は、半永久的に全裸にはなれないだろう。
髪を染めている人も無理かもしれない。
社会人はおのずと、全裸になれないようになっていくのである。
明日へ。