疑問、2点。

ここのところ、特に主張することはなく、のどかな日々である。
だが、それでは何なので、2点ばかりピックアップしてみる。
まずは、アンパンマンのHP、キャラクタ紹介に「ぷろふぃーる」とあることについて。
この「ぷろふぃーる」から気付かされるのは、世間ではカタカナよりもネットが先だということ、ではない。
なんだかんだいって、プロフィールはひらがなで書いちゃだめなんじゃないか、ということだ。
ひらがなでは「プロフィール」の質感を損ねるのではないか。
有識者に聞きたいところだ。
また、どうしてもひらがな、ということなら「しょうかい」でいいじゃないか。
カタカナ語をひらがなで扱う意図、気になるところである。
2点目は、電車内モニタに表示される「占い」について。
JRのある電車にはモニタがついていて、なんかやってる。
そこでたまに流れる「占い」。
提供が「ザッパラス(株)」である。
異論もあるだろうが、僕は「占いを提供するザッパラス」というのが、変だと思う。
ザッパラスという響きのものが占いを提供してはいけないと思う。
「ザッパラス」
明らかにウルトラ怪獣である。
しかも、ヘタするとウルトラQ時代の、である。
そんなやつが星座占いをしてくれる。
何かメリットはあるのだろうか。
その意図、気になるところである。
もちろん以上の2件より「それいけ! アンパンマン おおざっぱかいじゅう ザッパラス」などを考えないわけにもいかなかったが、さすがに欲張りだ。

具2

【あらすじ】
お好み焼き屋さんやピザ屋さんのメニューに「トッピン具」ってあるんだけど、それを見るたびに心の病気になりそうだよ・・・。
前回、トッピン具の意志について、最後に触れた。
「トッピン具の意志」。
それは「人のだじゃれる意志」に他ならない。
今はまだいい。
トッピングくらいしか知らないから。
しかし、こうなったらどうだろう。
「フィッシン具」
このとき重要なのが、トッピン具の「具」は何であったのか、というところである。
僕が考えるに、それはお好み焼きにおける「チーズ」であり「モチ」であり「エビ」などだろう。
もちろんピザでは「チョリソ」であり「コーン」であり「イカ」である。
「トッピン具」とまで言っておいて、「具」がソースを塗るハケであったり、ピザを切る、くるくるーっとやるカッターを指しているとは考えにくい。
以上の点を踏まえると、「フィッシン具」における「具」はフィッシュ、魚であることは間違いないだろう。
しかも、ターゲットの魚を指す。
アジ狙いのフィッシン具の具は、アジなのである(ややこしいな・・・)。
なにはともあれ「フィッシン具」では、フィッシングした気にならない。
「トッピン具」の意志を持った人と一緒に魚釣りに行ったりしたら・・・。
上記の悲劇を経験しなくても済むという保証は、ない。
「フェンシン具」
「具」は明らかに「人間」だろう。
そこで人間を意識させてどうするんだ。
「武器とか使ってますけど、人間本来の戦いを追求しています!!」
フォローにもならぬ。
==========
ある日突然、健全なスポーツが悲劇に見舞われた。
「日本フェンシング協会は、本日より日本フェンシン具協会となります」
==========
お、俺たちのフェンシングが・・・。
こう泣き崩れる関係者続出である。
こうなってくると「トッピングの意思」、すなわち「人のだじゃれる意志」の凶悪さが、より見えてくる。
「ボーリン具」における「具」は、ピンと球で半々くらいであるが、やはり人に「ボーリン具に行く」とは言いづらい面構えだ。
「ショッピン具」のは、食材だったり雑貨だったりするが、わざわざ「具」のどうこうを示すまでもなく、かっこ悪い。
「ウキウキウォッチン具」のは、僕の中では100%タモリだ。100%っていうのもないが。
「まいっちん具」のは、明らかにマチ子先生であり、ある意味「具」という言葉との相性もよく、自分でも驚いている。
とにかく、「グ」を「具」に変えたときの、堕落っぷりときたら、ない。
「こんな変なこと、言う人が出るかい!!」と思われる人も多いだろうが、人々の「だじゃれる意志」がかなり強く、しかも継続することは身近な商品の名前を見ればわかることである。
現在、「トッピン具」くらいでその意志が留まっている時点で、すでに奇跡である。
しかし、それだって僕が知らないだけで、もう「クリーニン具(具:Yシャツ等)」くらいは来ているかもしれないのだ。
店先の「トッピン具」に、えもいわれぬ不安を感ずる者達にとっては、つらい時代である。
※ちなみに、僕が今回惜しいと思っているのは、「剣道」とのリンクができなかったことだ。
「具」って形、剣道の防具に似ているな・・・。

「ファミコン、くにおくんのそれゆけ大運動会で友人の悪行に激怒。動作中のカセットを引っこ抜いて帰宅する」
俺にもそんな時代がありました。
でも今は、家の前で断りもなく5月くらいに出初式がやられたとしても、微笑んで見ていられる。
少し、心の海図が詳細になりました。
それでも、お好み焼き屋さんやピザ屋さんでときおり見られる「トッピン具」という表記には、殺意を抱かざるを得ない。
何考えてんだ、あれ。
見た目も、意図(あるのか、意図)も、口に出して言った感も、全てが爆弾だ。
これに関わった全てを消し去る能力を持っている。
くそう、何なんだ。
2人でお好み焼き屋に来店。
焼きあがるのを待つあいだ、おもむろにメニューを眺めだし「なぁ見ろよ、トッピングのぐが、具、だって」。
僕がもんもんとしているのは、上記のような話になったときに
「なにそれ」とそっけないことになる場合でも、
「え、うそ!!。ぐが具、って。面白いじゃん!!。おーい、みんな呼ぼうぜ!?」ということになる場合でもない。
2人がある程度お互いを知っているのなら、相手も
「あ、ほんとだ。何考えてるのかね」と合わせてくれるだろう。
※お好み焼き屋に2人で来るのは、それはお互いをそこそこ知っていなくてはダメだろう。
親密度でいうと「一方が読み進めている小説のネタバレを背後でぼそっと言い、じゃれあう(異性同士限定)」くらいの、一見度数に見えない新密度だ。
だが、そんな点でもない。
1人でお好み焼き屋に来てしまって、そのとき「トッピン具」を発見。
やるせない気持ちになる。
そんな点でもない。
もう、存在自体だ。
それは、万物に害のみを与えるもの、ことば。
救済の余地なし。
「トッピン具」は悪しき気を発しているのだ。
次回
「トッピン具」の意志における危険性

そんなひと

この世には「なんだかわからないけど、人からモノがもらえる運命」が定められた人がいる。
給食で好きなおかずが人より多い。
家も呼んだ友達が、なにやら持ってくる。
食堂で、盛り付けてもらった量が人より多い。
なんか、プレステのソフトを置いていかれる。
誰かの家を訪れれば、何かを持たされる。
このような人、あなたの周りにもいないだろうか。
なんなんだ「このような人」!!。なんでもらえるんだ。
うらやましいぞ。
概して「このような人」は気さくで人柄のよい人物であることが多い。
ところが考えるに、この世のほとんどの人は気さくで人柄がよい人物ではないのだろうか。
彼らは「気さくで人柄がよい」からモノがもらえるのではなく、そういう運命なのだ。
そんな運命のもと、誕生した生命。それが彼ら。
・・・解せない。
僕もそう思う。
彼らと、そうでないものたちとの差は何なのだ?。
違いはなんだ?。
このモノをめぐる違いはどのあたりから見られるものなのだろうか。
考えてみると、砂場で遊んでいるとき、砂団子をやたら獲得していた友達がいたような・・・。
素質はかなり早い段階から見られるのか。
先天性の、何かなのだろうか。
そう、双子!!。
双子で実験できないだろうか。
双子をこう、引き離してだね・・・。
と、ここまでやる必要はない。
おそらく差などないのだ。
なんだかんだ言って、人は誰でも多くのものをもらっているものだ。
そう。
彼らだって僕らだって、この世に誕生するにあたって、平等にいのちがもらえたじゃないか。
ということで、今回書きたかったのは「なんか適当に、いい話風にすんなや」でした。

いきなりレストリクション

久しく会っていなかった友人に偶然出くわしたとき。
その人が今、どんな「具合」なのかを判断するのに、制限をかけてみよう。
裕美「あ、久子。久子じゃない?」
久子「あ、裕美。ひさしぶりー。」
裕美「ほんと、久しぶりね。今日は、何の発表会の帰りなの?。」
このやりとり。
久子が昔から色々なものを発表していることで有名である場合を除くと、かなりの制限事項を裕美は久子に課していることになる。
すなわち、このときの久子が「何かの発表会に関係している」「関係している発表会の何かを、すでに終えている」と私(裕美)は思っている、ということを久子に知らしめているからである。
もちろん、この制限事項はあくまで相手の「具合」を見定めるためである。
裕美は、久しぶりに出会った久子に対して昔と同様に、友達のような話をするべきなのか、落ち着いた内容の会話で、徐々にお互い慣れていこうと思うのか。
裕美は久子の回答に注目している。
このような制限を用いたときの結果と判定は、以下のようになると思われる。
・ケース1
久子「え、発表会?。私、そんなキャラだっけ?。」
:このような回答の場合、やはり長年会っていなかったことが災いして、やや他人行儀である。
久子も「徐々にお互い慣れていこう」という考えであると思われるため、お互いの近況などからの会話が好ましいだろう。
悪くない具合だ。
・ケース2
久子「え、発表会?。私の回答、その範囲内で答えなくちゃだめ?。」
:疎遠な感じではあるが、この内容の会話で重要なのは、相手の言い方である。
フレンドリィな感じなのか、邪険にしてそうなのかを判断し、前者の場合は修学旅行、後者は朝青龍の話などをしよう。
・ケース3
久子「え、発表会?。そうそう、友達がペタやっててね。」
:なかなか機転がきく久子である。具合もいい。そして、この回答は大人である。
何が大人かって、どんなに長い間会っていなかったとしても、この回答後、ペタについての創造話でそのブランクは大抵埋まると思われるからである。
僕は、実はケース3をいつだって用意しているが、ここのところ「具合のいい出くわし」が全くないのだった。

ポーズ

だいぶスキップをやっていなかったので、やり方を忘れてしまった。
そんな話は多い。
これは、しょうがないだろう。
スキップはそれほど効率のいい移動方法ではないと思うし、そもそも大人がスキップをやっている姿は悲しく、それを想像してみても、だいたい回りにモヤがかかったような映像しか出てこない。
スキップはこの辺にしておいて、最近僕が気に入っているポーズの件に入る。
それは「まんが的に、これからすごいスピードで走る人の、スタート直前ポーズ」だ。
図解しない点は申し訳ないのだが、要はまんが等で「足部分が何重かの楕円で表現されるような走り方をする人の、そのスタート直前のポーズ」であり、「要は」になっていない点で二重に申し訳ない。
とにかく、ポーズである。
さて、このポーズ。
何日かおきにやっておかないと「あれ、どうだったっけな?」と僕に思わせる。
そうなると気になってしょうがないので、大きな鏡の前でポーズを行い、その完成度の高さを再確認するのだ。
「スキップは忘れても、このポーズの質は落としたくない。」
率直な心境である。
隙あらば近くの人に見てもらい、そのまんがっぽさ、これから速く走るっぽさを評してもらいたいと思っているが、あいにくそういう隙のある人があまりいない。
ざんねんだ。

淡紅葉

11月末、気になることが2つあったので、神社に行く。
記録的な台風で、神社近くの水路が埋まってしまったことが気がかりのひとつめ。
その経過を確認しに行ったのだ。
神社の入り口からかなり離れた場所に自転車を止め、水路の方へ歩いていく。
台風からずいぶんたつのに、まだ辺りは乾いた泥で白く覆われていた。
でも、歩いていくにつれ、水路にたどり着くことなく、その音で水が流れていることに気付く。
埋め立てていた土砂は取り除かれていたのだ。
気がかりのひとつは解決した。
ところが、実際その水路を見てみると、ちょっと前と違う点があった。
水がにごっているのだ。
そこは水深1mくらいなのだけど、前はとても透明で、川底を泳ぐ小魚が見えていた。
それが今、水路の川底が見えないのだった。
その水はにごっている。
ただ、うすく青白い、少し神秘的なにごり。
木陰の部分と日に照らされた部分の対比がきれいだ。
なんとなく水面を眺めていると、1枚のもみじの葉が水にもまれることもなく、すーっと流れてきた。
紅く色づいている。
そんなもみじの葉が、絶えず流されてきた。
水路上流に位置する神社にあるもみじの葉なのである。
その木はもう、紅く染まっているようだ。
僕はまたしても、目的地ににたどり着くことなく、もう一つあった気がかりを解決した。
それにしても、淡くにごる水の中にただよう紅葉はやたら、印象に残る。
2つの気がかりは解決したが、別のがまた一つ、増えてしまったようだ。

パジャマ期

僕は寝ているとき、貼っていたサロンパスを「なんか違和感ありの様相」と、はがしてしまう。
昨日そんなことを書いたのだが、ふと思い当たった。
この件を考えると、密着度の差はあれど、パジャマだって同様の感じを人に持たせる危険性がありそうではないか。
サロンパス?パジャマについて、考えてみよう。
寝ているとき、サロンパスははがしてしまうのに、パジャマはなぜ脱がないのか。
※一般的に、人は寝るときにパジャマを着るが、人によってはなんかいやで、半裸、全裸で就寝を試み、見事成功しているケースも多いだろう。
しかし一方で、パジャマは一般的に親しまれており、この世に「パジャマ界」を確立しているといっても過言ではないのだ。
サロンパスとパジャマの差。
それは慣れ、であると思われる。
幼少の頃からずっと全裸で寝ます、という人はそんなにいないのだ。
誰しも、どこかでパジャマ期を経験している。
「俺は生まれてから45年間、ずっとパジャマ期であったし、これからもパジャマ期が潰えることはない」
こんな45歳の人は多いだろう。
それに比べてサロンパス期はどんなに譲歩しても10歳より前から始まる、ということはなさそうだ。
また、サロンパスには「効果持続」に限界がある、という点も見逃せない。
「半年間ずっとサロンパス貼りっぱなし」という人もいるかもしれないが、たいていは就寝時間のみではないだろうか、「サロンパス期」。
それに比べてパジャマは、使い古して生地が薄くなったなどはあれど、その効果自体が減少することはない。
※ちなみにここでのパジャマ効果とは「ふー、パジャマ着た」という、なんか今日はもう寝るだけ、みたいな気持ちにさせる効果である。
以上の点により、サロンパス期はパジャマ期に比べてかなり短く、しかも不連続である。
したがって、人はサロンパスにあまり慣れておらず、気の緩んだノンレム睡眠あたりで、その異物を排除しようとしてしまうのだ。
※この仮説は「ゆかた」は、はだけやすいという件についても有力だ。
多くの人は「ゆかた期」が少ないため、就寝中に違和感をおぼえてしまうに違いない。
ただし、ゆかたの「はだけ」については、その多くが「物理的な、単なる自然現象」であることも考慮に入れる必要がある。
サロンパスへの慣れ。
それは幼い頃から、サロンパスを貼っておくことである。
サロンパスではなく代替シールでも良いだろうが、僕は好きなのでかまわないが、あのにおいがどうも、という向きでも対応できる点で、オリジナルの方が好ましい。
サロンパスを就寝中にもかかわらずはがさない人は、両親に敬意を表するべきだ。
あなたの両親は「この子がサロンパスに慣れますように」という願いを込めて我が子の背中にサロンパスを貼り、その指先にすーすーするにおいを漂わせているような、先見の明の持ち主である。
あなたの両親は「サロンパスにかぶれないように」と、夜な夜なサロンパスをはがしていたような、子供を思う気持ちの持ち主である。
あなたの両親は我が子に「俺をサロンパスに慣れさせておいて・・・。どういう方面に育てるつもりだ」と思われずに済ませるような、子育て力の持ち主である。

違和感

昔から自分は肩が凝らない人間だと思っていた。
じぶん、肩が、こらないにんげんじゃないですか。
しかし、僕の肩を勝手に触ってきた人から「初めての公園デビューのときくらい、ガチガチである」との感想が得られた。
凝っていたのに、それに気付かなかったのだろうか。
ということで、自覚はいまいちだがサロンパスみたいなのをして寝てみた。
するとどうだろう朝。
肩に貼った、サロンパスみたいなのがなくなっている。
探してみると、一枚はごみばこ。もう一枚は封筒などを入れておく壁掛けのポケットに入っていた。
夜の僕がどのような経緯で2枚のサロンパスを別々の場所に放置したのかは謎であるが、そもそも何故はがしてしまったのだろうか。
何物も近づけない、誇り高き精神を寝るときだけ持っていたのだろうか、僕。
サロンパス2枚分の圧迫感に我慢しきれなくなったのだろうか。
実は夜のみ、肺呼吸と合わせて皮膚呼吸も行う両生類体質であったため、息苦しくなったのだろうか。
それぞれが捨てがたい話であるので、これらを効率よくまとめてみたところ「なんか気持ち悪くて、しかもかゆい」となった。
これなら、はがしてしまうよね。

止血

ぷっぷっぷっぷっ、プッチモニ!!。
明け方、枕にして寝てしまい血が通わなくなった状態の腕を、寝ぼけながらもぶらぶら持ち上げて遊ぶことのある、7942 with 羞恥心で?す。
近頃、素晴らしく寒いよね。
いやだよね、素晴らしい寒さ。
でも、寒いことでいいこともあるんだ。
・先生「何で遅刻したんだ!!」
生徒「すいません。まつげが凍って、起きられませんでした」
生徒「すいません。霜柱を踏破してました」
生徒「すいません。ひなたぼっこで体温を上げていました」
ね?。
本当の遅刻の理由が「買いたいおにぎりがコンビニに届くまで待ってた」とかでも、こんな理由なら先生も納得だ。
また、寒いと
・ファスナーのすべり
・CD、DVDなどの回転の速さ
・踏み切りの開閉スピード
などもより良く、早くなるということが、その筋の研究により明らかになったんだ。
ということで、今日は首が痛い。
寝違えたようだ。
血が通わなくなっているので、じゃあね!!。